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当たり前じゃなかった「倒幕」【幕末史】

19世紀の後半、日本は長く続いた封建体制を一新し、近代的な政治制度を整えた国家に生まれ変わりました。いわゆる「明治維新」です。それ以前には、徳川将軍家を頂点とする武家支配の「徳川幕府」があったわけですが、新しい体制への移行とともに消滅します。

その幕府の終焉はどのようなものだったのか。よく「倒幕」という言葉が使われます。幕府は薩摩藩や長州藩などの「倒幕派」によって倒された。漠然とそんなイメージを持つ方は多いかもしれません。幕府が倒されることを、今を生きる私たちははじめから知っています。だからそれが当然のことのように思ったりもします。大河ドラマなどを観ながら、「幕臣の人たち、何を言ってるの? あなたたちは倒される運命だよ?」とか、「何だ佐幕派か、かわいそうに負け組の人たちだ、あんたら時代が読めなくて残念だったね」とか、結果がわかっているだけにどこかでそんな見方をしてしまうことはないでしょうか? 

倒幕が当たり前のように感じるのは答えを知る現代人の感覚であり、当時の人たちは決してそんなことありませんでした。むしろ、倒幕などとんでもないとする考えが圧倒的でした。明確な「倒幕派」(討幕派)と呼ばれる人たちはほんの一握りで、しかもその動きが具体化し、活発化するのは、維新の直前、幕末の最後の最後のほうになってからです。

本記事は、最終的に幕府の支配が終わるまで、どんなことが起きたのか、それによって何がどう変わっていったのか。幕府、薩摩、長州、朝廷の動きを中心に幕末史の大きな流れを見ていきます。「倒幕は当たり前じゃなくむしろトンデモだった」ことが伝わりますと幸いです。長文ですが、ぜひ最後までお付き合いください。


幕府、幕政への意見を諸藩に認める

幕府の瓦解は、幕府が「幕政を門戸解放」したことにはじまります。きっかけは1853年(嘉永6年)6月のペリー来航です。武力をちらつかせて開国を迫るペリーの恫喝を幕府は跳ね返せず、砲艦外交に屈しました。

国是である鎖国を貫くか、国を開いて諸外国と交易するか。究極の決断を迫られる状況の中で、当時の首脳たちはこれまで前例のない対策をとります。諸大名とお目見え以上の幕臣にペリーの国書を開示し、広く意見を求めたのです。

ペリー来航時の幕政トップは、老中首座の阿部正弘という人でした。彼は以前より海防の強化や軍制を洋式に改める政策に取り組む革新系の官僚として手腕を発揮していました。その後を継いだ堀田正睦も、「らんぺき大名」と呼ばれるほどの西洋通で、意見具申の対象を庶民にまで拡大して国難の打開にあたりました。

当時、幕政参加の資格を持つのは譜代大名のみでした。その慣行を打ち破り、挙国一致で国難に臨む姿勢を打ち出したのです。開府以来固守されてきた専制政治に風穴が開けられた瞬間でした。その開け放たれた風穴から、次々に幕政改革を呼び込むことになります。

現状維持を求める諸大名の意見が多数を占める中、具体的かつ先進的な意見の建白書を出したのが、国持ち外様大名の島津斉彬(薩摩藩)と、徳川家門に属する松平慶永(越前藩)です。ふたりとも開国を主張し、家格や旧式にとらわれず有能な大名は広く全国から集めて幕閣に取り立てる改革を求めました。幕府の権力機構を根底から揺るがすような大胆かつ先鋭的な提言がなされたのです。

島津斉彬は琉球貿易の経験から海外の事情に明るく、国際感覚にすぐれた政治家でした。松平慶永には開明的で進取に富んだ横井小楠や橋本左内といった近臣がいて、どこよりも早く近代国家のビジョンを描く先見性がありました。ふたりの大名には、従来の方針と体制のままでは異国の脅威に対抗できないという強い危機感と問題意識があったのです。

ただ、そんな薩摩・越前両藩にしても、この時点で倒幕の発想はありません。諸藩から人材を求めるといっても、あくまで幕府を支えるため改革です。幕府を強くして異国の脅威に対抗するという方向性だったといえましょう。一方でそれは、幕府単一の力では日本を守れないことの証左であり、おのずと幕政進出を目論む大名たちの政治介入を許す流れをつくっていきます。

外様大名、幕政に介入して存在感を示す

武力を背景とする異国の開国要求に日本全体が動揺する中、幕府は大きな内政問題にも直面していました。13代将軍徳川家定の跡継ぎを決める「将軍継嗣問題」です。

この問題は、一橋慶喜(水戸藩主徳川斉昭の子息)と、徳川慶福(紀州藩。後の家茂)のいずれを将軍にするかで激しい対立構造が生まれ、一橋慶喜派には島津斉彬や松平慶永らがつき、紀州慶福派には譜代大名や保守派の老中らがつくという、政治思想や開国に対する方針ではっきりとカラーが別れた政治闘争でもありました。

「一橋派=幕政進出を目指す新興勢力」と「紀州派=これまで通り幕政を独占したい守旧勢力」の対決とも言えるでしょう。最終的には、譜代大名の井伊直弼が大老に就任し、徳川慶福の将軍継嗣を独断裁決したことで、紀州派の勝利に終わります。将軍継嗣を巡る政争に敗れた松平慶永は処分されるのですが(安政の大獄)、井伊直弼が攘夷派志士の襲撃を受けて横死した後は復権し、幕政の舞台へと躍り出ることになります(島津斉彬は当時すでに病死)。

井伊直弼が暗殺されたのは、安政の大獄で勤皇の志士らを弾圧したことに加え、日米通商修好条約を朝廷の勅許を得ず独断で調印し、攘夷派の恨みを買ったことに起因します。勤皇派を弾圧した安政の大獄は、尊皇志士や攘夷派を中心に幕府への反発を強める結果となりました。勤皇や攘夷を叫ぶ者が増えるほど、「反幕府勢力」もまた拡大していくことになります。

朝廷、政治力を強めて幕府の威信を弱める

幕末政治の最大の特徴は、それまでまったく政治の実権から遠ざけられてきた朝廷が政局の表舞台に踊り出たことでしょう。朝廷の政治力が強くなればなるほど、幕府の威信は相対的に落ちていく結果を生みました。

天皇や公家といった朝廷の人たちが政治の表舞台に登場するきっかけをつくったのが、「条約勅許問題」です。幕府はアメリカをはじめとする異国との通商修好条約の締結に際し、調印を認めてほしいと朝廷におうかがいを立てました。この手続きはあくまで儀式的なもので、これまでの慣例通り、朝廷は幕府の意向に逆らわず黙って委任すると思ったところ、予想に反して孝明天皇が不満を漏らし、勅許を認めなかったためにこの問題はこじれることになります。

天皇や公家たちが条約調印の勅許を認めなかったそもそもの理由は、神聖な国土を異国人たちが踏み荒らすことに対する、単純な敵愾心と恐怖心によるものでしょうが、これがだんだんと幕政進出を目論む諸藩の思惑ともからみ、政治取引の色彩を帯びていくようになるのです。

幕府の威信はすっかり凋落し、朝廷の意向を無視して条約の締結や貿易のための開港を決めることはできなくなっていました。朝廷の懐柔策として、幕府は将軍家茂と天皇の妹和宮との婚儀を成立させますが、それでも朝廷からの圧力はやみません。孝明天皇から攘夷の実行(条約の破棄)を迫られた将軍家茂は、期限付きで攘夷履行を約束せざるを得ませんでした。

幕府が弱ければ攘夷の実行などかないません。幕府主導による攘夷を求めた孝明天皇の意中が「討幕」でないのは確かです。発言力を増してきた薩摩や長州などの諸藩の思惑も、1866年頃までは幕政進出が主な目的でした。望みは自分たちも老中になって国政を動かすこと。幕府の体制そのものを倒す発想には行き着いていなかったのです。

長州藩、攘夷を唱えて幕府を揺さぶる

孝明天皇や有力公家たちに、攘夷の実行を幕府に迫るようさかんに働きかけを行っていたのは、長州藩の尊皇攘夷派の志士たちです。ここでいう「攘夷」とは、諸外国と結んだ通商条約の破棄や貿易港の鎖港を意味し、必ずしも異国と戦争するというものではありません(ただ条約の破棄は異国との戦争に直結しました)。長州藩には、過激な攘夷派公家と結びついて朝廷工作に奔走する一派が主導権を握っていた時期がありました。

長州藩は「将軍継嗣問題」には関与せず、井伊直弼の弾圧も無風で逃れたことから、いち早く京都の政局に登場する機会を得ました。その先鞭をつけたのが、長州藩士長井雅楽(ながい うた)による「航海遠略策」です。

これを簡潔に説明すると「まずは開国し、西洋のすぐれた技術と軍制を学んで富国強兵に勤め、力をつけたうえで攘夷を実行する」というものです。開国を主張しながらも根底に攘夷があることから、孝明天皇に受け入れられ朝廷から信を得ます。しかし、この後長井は暗殺され、藩内はより過激な攘夷路線に傾き、その影響を受けた朝廷内には過激な考えを持つ公家が跋扈することになります。彼らは幕府に攘夷の実行を迫って盛んに揺さぶりをかけました。

やがて長州藩は後発の薩摩藩との政争に敗れ、京を追われることになりますが、討幕派の西郷隆盛や大久保利通らの運動によって再び政局の表舞台に返り咲くことになります。そして薩摩とともに幕府を追い詰める大きな勢力を形成していきます。

幕府の弱体化という視点でみる長州藩の重要な動きは、政治の中心を京都に据えたということと、攘夷の気運を盛り上げ幕府に圧力を加え続ける中核になったことです。強固だったはずの幕府の屋台骨はきしみはじめ、少しずつ傾くようになっていきます。

薩摩藩、幕政改革の提言を幕府に認めさせる

薩摩藩は、ペリー来航時から国政改革をリードしてきました。島津斉彬の死後、実質的な藩政のトップにあったのが、斉彬の弟島津久光です。久光は1862年(文久2年)4月、1,000人の藩兵を率いて入京します。すでに政局は京都を中心に動いていました。久光には、この時、すでに京都入りして政局を動かしていた長州藩に出遅れまいとする思惑がありました。

京都に入り、実力派の公家らと面会した久光は、朝廷に国政改革を建言します。薩摩が求めた改革案のうち、一橋慶喜の将軍後見職就任と、松平慶永の政事総裁職就任が実現しました。政事総裁職は大老と同格の重職です。加えて、安政の大獄で蟄居していた土佐藩の山内容堂や尾張慶勝の謹慎処分が解除されました。

薩摩藩からの提言を幕府は跳ね返せず、人事改革案を大筋認め、処分の方針も撤回することになりました。ちなみに、政事総裁職に就任した松平慶永の判断により、諸大名を統制してきた参勤交代制度が緩和されます。諸大名の統制が緩和されるということは、幕府の求心力が弱まるということです。200年以上もの間盤石を誇った幕藩体制は、確実に揺るぎ始めていました。

このように幕府の弱体化は火を見るより明らかだったのですが、それでも諸藩の頭に「討幕」の文字はありませんでした。長州藩は幕府に攘夷の実行を迫り、薩摩藩は幕政改革を要求するということは、幕藩体制の存続を前提にそれぞれの主張を展開しているわけです。長州藩などの主張は、「異国と戦争して打ち負かすことは討幕よりたやすい」と取れなくもありません。現代の私たちの感覚とはまったくかけ離れていますが、当時の感覚としては、討幕などまったく思いつかない非現実的な発想だったということでしょう。

薩摩と長州、幕府に対抗するため提携

1863年(文久3年)8月、「八月十八日の政変」が起きます。これは、薩摩藩・会津藩連合による長州藩の京都追放クーデター事件です。京都での主導権を巡り薩摩との抗争に敗れた長州は、七人の公卿とともに都落ちします。

長州勢が京都から追放されたということは、攘夷を唱える過激な勢力の放逐を意味します。現実問題として、アメリカ含む西洋諸国と結んだ条約の破棄など不可能とする意見が大勢でした。ただ、孝明天皇は「戦争に発展しない
かたちでの攘夷」(具体的には横浜港の鎖港)を希望しており、それを幕府や将軍後見職の一橋慶喜に期待していました。

八月十八日の政変後の国政改革は、そのような政治的な背景の中で断行されました。これからの国事は、幕閣の老中連ではなく、諸侯たちで構成される「朝議参与」の審議によって決定されることになったのです。朝議参与に選ばれたのは、一橋慶喜(将軍後見職)・土佐藩山内家(外様)・宇和島藩伊達家(外様)・会津藩松平家(家門)・越前藩松平家(家門)で、後に薩摩の島津家も選ばれます。ここにはかつて一橋慶喜を14代将軍にと推した面々が顔を揃えたことになります。それはともかく、薩摩藩や越前藩がかねてより主張した諸侯連合がここに実現したのです。

ただし、この諸侯たちによる合議体も、翌年1864年の3月に解散します。「横浜鎖港問題」で審議がまとまらなかったことが原因です。幕府を代表する慶喜は、横浜鎖港を進めるべしとの意見。対して島津久光や松平慶永ら諸侯は鎖港には断固反対、それより合議体の体制を強化すべしとの考えで、紛糾して合議体はわずか五ヶ月たらずで解散となってしまいました。

慶喜が横浜鎖港を方針とした背景には、孝明天皇の意向があります。孝明天皇の慶喜に対する信頼は厚く、横浜鎖港を政策として進めてくれることを期待していました。ここが重要な点で、孝明天皇としては国事を将軍に委任しているわけです(この時点でまだ慶喜は将軍ではないが)。つまり孝明天皇の頭にも、討幕などの考えは一切ないことがわかります。

この後に将軍職が廃止となる「大政奉還」「王政復古」が実現するのですが、天皇自ら国事を司ることに孝明天皇は反対の立場だったと言います。ちなみに孝明天皇は攘夷を望んでいたはずなのに、尊皇攘夷を叫ぶ勤皇の志士を煙たく思っていたのは、彼らがさかんに王政復古を唱えたからです。

朝廷も諸大名も、目指すところは「倒幕」ではありませんでした。そんな国内政治の流れも、2つの事件をきっかけに変わりはじめます。1864年(元治元年)7月に起きた「禁門の変」、そしてその産物ともいえる「幕府による長州征伐」です。

「禁門の変」とは、巻き返しを図るべく京都の御所で蜂起した長州兵が、薩摩・会津の連合軍の前に鎮圧された事件です。この戦いで長州は朝敵となり、孝明天皇は幕府に対し「長州征伐」の勅命を下します。

長州征伐は2回にわたって計画されますが、結論を言うといずれも失敗に終わっています。1回目(1864年)は中止、2回目(1866年)は長州藩が勝利しました。この結果には、いずれも長州の政敵だった薩摩藩がからんでいます。薩摩藩というよりも、西郷隆盛の意思と行動によるものです。この西郷と、その盟友である大久保利通こそ、当時まだ少数派だった倒幕思想の持ち主でした。わかりやすく「討幕派」という括りで表現してもよいでしょう。

討幕派のふたりとしては、弱体化した幕府の勢力がここで息を吹き返しては困るし、同じく反幕府勢力の長州が潰れては困る。そのような思惑から、1回目の長州征伐は西郷隆盛が奔走して中止に追い込ませ、2回目は幕府からの出兵要請を薩摩藩として拒否したばかりか、長州藩に軍需物資を送って後方支援しました。

2回目の長州征伐前に、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎仲介の下、薩摩の西郷隆盛と大久保利通、小松帯刀、長州の木戸孝允が会談し、薩摩と長州が提携する旨の密約を交わしています。世に言う「薩長同盟」と呼ばれるものですが、藩同士が正式に盟約を交わしたというものではありません。それぞれ藩の一部の人たちが秘かに協力を誓い合ったというレベルのものに過ぎません。内容としては、長州征伐における薩摩の対長州支援が主となっています。「討幕」を明確に謳った内容ではありませんが、「皇威相輝きご回復立ち至り候を目途に誠心を尽くし」とあるところを見ると、「王政復古」を視野に入れた新国家作りがあったのではないかと思われます。

ちなみに2回目の幕府による長州征伐ですが、幕府の出兵要請に従ったのは徳川家と縁故のある一部の大名のみで、多くの諸藩は出兵しても戦闘に参加せず非協力的な態度に終始しました。だからといって諸藩に「倒幕」の発想があったとは言えませんが、幕府の威信が深刻なまでに低下していたのは事実です。

土佐藩、大政奉還を建白

長州征伐の最中に、将軍家茂が病死。新たに征長軍の指導者となった将軍後見職の慶喜は、戦況不利と見なしてあっさり解兵を指示。長州征伐は中止になります。

その後、慶喜は将軍宣下を受け、ここに第15代将軍徳川慶喜が誕生しました。これが1866年(慶応2年)の12月のことです。慶喜は在京中で、京都にて徳川将軍が誕生するという異例の事態でした。

将軍職に就任したとはいえ、慶喜の権力基盤は決して盤石とはいえません。何しろ江戸の幕閣たちは京都にとどまったままの慶喜に不信感を抱いていました。幕政を司る老中たちは江戸城にいて、将軍慶喜は京都の二条城にいるという二重構造。幕府は一枚岩ではなかったどころか、権力が分裂状態にあったのです。

さらに、慶喜の後ろ盾だった孝明天皇が急死します。慶喜が将軍に就任した直後の崩御でした。討幕派による毒殺説もありますが、真相は不明です。それはともかく、孝明天皇の崩御が慶喜の権力基盤に大きな影響を与えたのは間違いありません。

後ろ盾だった孝明天皇が亡くなり、江戸の幕閣たちからは信用されていなくても、慶喜の将軍職就任を支持する層はいました。全国の諸侯たちです。ただ、土佐藩や会津藩などの一部を除き、積極的に支持するというものではなく、現状維持を望んだというのが本質に近いでしょう。特別な意見などなかったのです。

ちなみに徳川家門の松平慶永ですが、彼は慶喜に将軍就任は思いとどまるよう建白しています。松平慶永には、大政を朝廷に返上する構想、つまり後に土佐藩が政策として実現する「大政奉還」が構想としてあったため、慶喜を将軍ではなく一諸侯に列することを望んだのです。

慶喜の将軍就任を巡る動きに対し、あからさまに警戒の色を示したのは薩摩の西郷・大久保といった「討幕派」です。ただこれは薩摩藩の方針ではなく、あくまで西郷ら対幕府強硬派の動きになります。このとき長州藩は朝敵となった自分たちの立場の復権が第一で、討幕どころではありませんでした。

西郷ら討幕派が慶喜排除をもくろみ暗躍する中、土佐藩主導で「大政奉還」の建白書が朝廷に提出されます。これは長らく幕府の下にあった政治の実権を朝廷に返上するというものです。政権を朝廷に返すといってもそれまで政治の現場から遠ざかっていた天皇や公家に国政や外政を任せるのは現実的ではなく、頼るところは慶喜や、幕臣を中心とする人たちになります。土佐藩の実質的な指導者である山内容堂としては、この一策により西郷ら討幕派らが目論む慶喜潰しを封じ込める狙いがありました。

この土佐藩による大政奉還の動きに、薩摩は同意します。対幕府強硬派の西郷・大久保もこの流れに逆らうことはしませんでした。大政奉還実現に向け、薩摩と土佐は同盟を締結(薩土盟約)。これこそ藩同士の正式な同盟関係というもので、有名な薩長同盟より藩の統一見解を反映したレベルの高いものとなります。ただ、この薩土盟約もほどなくして解消されます。

薩摩もこのときはまだ、新しい国家の体制をどうするか、その前提として幕府をどうすべきか、定まっていなかったのでしょう。西郷・大久保も、藩論を倒幕で一本化できずにいました。大政奉還に賛同したということは、西郷も大久保も、この時点でまだ確実に討幕をなす自信がなかったのかもしれません。

ただ、西郷・大久保はあくまで討幕というカードにこだわっていました。慶喜が大政奉還を拒否した場合には武力蜂起して従わせるため、長州藩と、そお隣の芸州藩(広島)を巻き込んだ出兵計画を立て、これを藩の方針として認めさせます。徳川家を守るために大政奉還を実現させた土佐藩としては、慶喜を相手に挙兵するなど論外でした。幕府への立場の違いから薩摩と土佐は決裂、薩土盟約は破綻します。

西郷・大久保は、討幕派の公家に「倒幕の密勅」まで出させて挙兵を目論むも、予想に反して慶喜があっさり政権を返上したため、討幕の計画は未遂に終わります。将軍を辞任した慶喜は一諸侯の列に加わり、諸大名に対する軍事指揮権を失うも、日本を代表して諸外国と交渉する外交権の保持は認められます。

新政権の中枢にいる山内容堂や尾張慶勝、松平春嶽は討幕派ではなく、幕府の立場に一定の理解を示す大名たちです。全国の諸藩は大政奉還の動きに戸惑ったのか、幕府への政務再委任を嘆願するなど、旧来の幕府主導の国政を望みました。慶喜の将軍職就任に賛成したときと同様、現状維持の路線を望んだものと思われます。そのほうが今の自分たちの特権的な立場を守れるわけですから、ある意味自然な反応です。

慶喜からすると、討幕派など一握りの勢力に過ぎず、政権を返上しても以前として影響力を保持できる自信があったのだと思われます。

王政復古の発令、太政官政府の発足(幕府の廃止)

徳川慶喜が大政奉還を受諾し、将軍職を辞任して一諸侯と同格扱いになったのが1867年(慶応3年)10月。

討幕派の西郷らが画策した京都での武力蜂起は未遂に終わりましたが、彼らには次の一手がありました。大政奉還の2ヶ月後に発令された「王政復古」です。

王政復古宣言により、摂政関白と幕府が廃止。新たに総裁・議定・参与が設置されます。幕府に変わって日本全国を統治する「太政官政府」の誕生です。政権の実務を司る参与には、越前藩士や尾張藩士、芸州藩士のほか、討幕派の岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通も名を連ねました。

王政復古の大号令をもって、幕府は事実上消滅しました。しかし、制度としての幕府はなくなっても、260年に及ぶ徳川一極支配の「空気」は残っています。将軍だった徳川慶喜の存在も侮れず、以前として一定の権力と影響力を保持したままです。西郷隆盛や大久保利通、岩倉具視といった討幕派からすれば、新国家を樹立するには幕府と一戦交えてこれを叩き潰すことが旧来の秩序を一新する唯一の方法と考えていました。

幕臣や旗本らも、王政復古を画策して幕府を廃絶せしめた薩摩への反発心を募らせていました。1867年12月に発生した江戸城の放火や大名屋敷の襲撃が、薩摩藩邸が抱え込んでいた不逞浪士の仕業とわかると、幕臣達の薩摩に対する怒りは頂点に達し、薩摩討つべしとする「討薩表」が発布されました。こうして「鳥羽伏見の戦い」が起き、「上野戦争」「北越戦争」「東北戦争」への流れがつくられました。

これらの戦は戊辰の年(1868年)に起こったことから総称して「戊辰戦争」と呼ばれ、薩摩・長州・土佐・肥前を中心とする太政官政府軍と、これに反抗する幕府勢力との間で行われた戦争を意味します。いずれも太政官政府軍の勝利に終わっていますが、「幕府勢力」というのは、会津藩や桑名藩、新撰組、彰義隊、長岡藩、並びに東北諸藩のことで、幕臣や旗本らで構成される江戸の兵力との戦争は回避されています(西郷隆盛ー勝海舟会談で江戸総攻撃が回避されたため)。

戊辰戦争を戦った討幕軍を構成するのは、薩摩・長州・肥前・土佐の四藩から集められた藩士たちです。幕府よりだった土佐藩も、ついに山内容堂が折れて討幕軍に加わりました。中立的な立場だった肥前藩も、大勢は薩長にあるとみて滑り込みでこれに加わりました。三百諸侯もあるというのに、ここに来ても討幕の意思を明確に打ち出したのは四藩に過ぎなかったということです。

最後に

薩摩・長州などの新興勢力の幕府に対する動きは、はじめから「倒幕ありき」ではありませんでした。幕政への提言からはじまり、人事の関与や朝廷工作と布石を打ちながら、大政奉還、王政復古まできて一気に「討幕」の動きを加速させます。それも、一か八かの危うい賭けだったかもしれません。江戸に大兵力を抱える幕府が盛り返して捲土重来を期す可能性は十分ありました。

諸藩は、形勢がどうなるかわかなかったからこそうかつに動くことをせず静観したのでしょう。幕府が倒されることに確信があれば肥前藩のように名乗り出て新政府軍に従軍するはずです。それをしない藩がほとんどだったということは、当時の感覚として「倒幕は非現実的」「幕府の存続こそ現実的」とする見方が大勢だったからではないでしょうか。

「当時のお殿様たちには時局を読むセンスも判断力もなかったから動けなかっただけ」こんな論評ができるのも答えを知っているからでしょう。これまでずっと継続されてきた習慣や価値観が当たり前で今後も続くと信じるのは何も昔の人たちばかりではありません。現代でも、現状に行き詰まりを感じながら、思い切った決断や改革を非現実的だと決めつけ、現状維持が正解だとこれまでの慣例の踏襲に安住する人たちがたくさんいます。

いつの時代も行き詰まった現状を打開する錐もみの役割を背負うのは少数派で、多数は反対するか、傍観するか、結果をみて正しかったほうについていくかします。これが歴史から学べる悲しくて冷淡な現実です。

だから現代でも、少数の意見だから、これまでの発想にない提案だからと馬鹿にしたり否定したりせず、いったん可能性を考慮して検証してみるという作業が必要になってきます。今、日本を含め世界が大きな時代の変わり目に突入していますが、こんなときこそ少数の意見に現状を突破するヒントがあるものなので、それを蔑ろにするのは危険だということも強く言いたいです。


参考文献
「日本の近代 開国・維新」松本健一著
「日本近世の歴史5 開国前夜の世界」横山伊徳著
「日本近世の歴史6 明治維新」青山忠正著
「幕末維新 消された歴史」安藤優一郞著















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