見出し画像

短編小説『神の石』

灰島次郎にとって昭和20年8月15日は、職務に追われる慌ただしい日となった。

玉音放送を署内で聞いてから二時間後、東京都町田市××町の民家で長男が首を刺され殺害されたという一報が飛び込んできたのである。先ほどの放送は果たして戦争終結を告げたものなのか、それとも本土決戦に備えて陛下御自ら叱咤激励されたのか、判然としないまま灰島は部下の池沢直吉とともに現場へ急行した。

現場に着いてみると、庭で男性がおびただしい血を流して倒れていた。その傍らで呆然と立ち尽くすのは通報した父親だろう。唇が少し震えていた。

「うめき声が聞こえたので驚いて庭に出てみると、長男が首から血を流して倒れていました。次男に向かって救急車を呼べと叫んだのですが、その次男の姿がありません」被害者の父はうなだれながら刑事の質問にそう答えた。

犯人は、被害者の弟、つまりこの一家の次男・岡田晴彦だと早々に断定された。まだ近くに潜伏している可能性があることから、直ちに厳戒態勢が敷かれ、署員も多数投入されて捜査がはじまった。折りしも陛下の玉音放送があった直後の惨劇ということもあり、現場周辺は動揺や困惑、狂騒とした雰囲気に緊張した空気が入り交じった。

事件発生の翌日、犯人が隣町の相模原市で発見され、無事に逮捕となった。相模川のほとりの草むらに隠れているところを警察官が取り押さえたのである。実兄に手をかけて返り血に塗れていた犯人は抵抗する素振りも見せず、大人しく連行された。

兄殺しの容疑についてはあっさり認めたが、その動機を尋ねると口を閉ざし、供述を拒んだ。

事件当日、灰島が被害者の父に事情聴取したとき、泣き言にも似た話を聞かされた。「兄弟の仲は悪かったというもんじゃなく、最悪でした。毎日のように喧嘩していました。お互い獣でも見るかのような目つきでにらみ合ったりして、親ながらゾッとしたもんです。母親はあの子らが小さいときに亡くなってまして、女手がいないまま大きくなったのも悪かったのでしょうか……」

単純に考えれば、この事件は兄弟仲がこじれた末の悲劇のように見える。兄弟仲が極めて悪く喧嘩が絶えなかったのは、父親の証言だけでなく、近所への聞き込みでもわかった。そうだとしても、実の兄を手にかける直接的な動機というもは存在したのではないか。灰島はそれが気になった。終戦直後を見計らったかのような犯行なのも、灰島の興味を刺激した。

暗い取調室の一室で犯人と根気強く向き合う日々が続いた。動機どころか世間話を向けても応じるそぶりを見せない。灰島は焦らず、犯人が心を開くのを待った。

閉じ続けたその口がようやく言葉らしい言葉が出てきたのは、取り調べをはじめて3日後のことだった。

「兄は神の石を動かした」

そんな謎めいた言葉を岡田晴彦は口にした。一体何のことだと問いただしても、「岡田家の庭の、梅の木の下にあった石」「罰当たりにも奴はそれを動かした」としか答えない。後は何を聞いてもまた押し黙るだけだった。

「お兄さんがその石を動かしたものだから、君は犯行に及んだというのかい?」

「……」

 「殺さなければならなかったほど、君にとってはその行為が罪深いものだったのかい?」

「……」

不可思議な言葉を吐いて煙に巻こうというのだろうか? しかしそれをする理由が解せない。彼は容疑を認めているのだ。今さら警察を混乱させてどうするというのだろう。それとも、殺した動機を知られるのが嫌なだけか?

岡田晴彦が何かを隠しているような気がしてならず、灰島は引き続き相手の腹の内を探るように取り調べにあたった。

動機の解明にこだわったのは灰島だけで、相棒の池沢は冷めていた。容疑を認めているのだから動機など適当に書いておけばいい、父親から兄弟仲は険悪だったとの証言も取れている、この事件は兄弟間の感情のもつれから起こった突発的、偶発的なものだろう、それで十分じゃないか、と言うのだ。

灰島はそうあっさり結論づける気になれない。物事を順序立てて考えると、この凶事は天皇陛下の玉音放送の直後に起きている。これは偶然なのか? 陛下の戦闘終結の呼びかけが引き金になった犯行の可能性はないか? だとすれば、その背景に兄弟の間で何があったのか? 神の石がどうのと素っ頓狂なことを言うのは、隠しておきたい何らかの事情があるからごまかしているのではないかー。

灰島は、犯行現場となった岡田家の庭に再び足を運び、“実地検分”を行った。家はとうに空き家売り家となっていた。梅の木が高く盛り上がった場所に植えてあり、臼のような丸い形の人工石がそのふもとに置かれてあった。おそらくこれが問題の石だろうと思われた。

灰島は石をためつすがめつし、実際に触ってみたが、苔が生えてかび臭く、神聖さとはほど遠い。こんなものがどうして神の石として尊ばれるのか、理解できなかった。岡田晴彦は一体、何を言いたいのだろうか?

世間は、空襲警報が鳴り響く戦慄の日々からやっとのことで解放され、穏やかな生活を取り戻しつつあった。その一方で、上陸した米軍に皆殺しにされる、ソ連兵が攻めてくる、などの物騒とした流言飛語も飛び交い、心から安穏できる状況ではなかった。戦争の終結を頑として認めない将校もおり、彼らが決起を呼びかけているといった不穏な情報も流れてくる。灰島は容易に落ち着かない世情を横目に見ながら、奇妙な兄殺し事件の真相解明に心を砕いた。

灰島は、加害者と被害者の父親である岡田光雄にも聞き込みを行った。二人の関係性をよく知る人物といえば彼をおいて他にいない。岡田光雄は血の惨状となった家を売りに出し、親戚の家を頼って居候していた。灰島の訪問を受けたとき、最初は煙たそうな顔をしたものの、配給品のビールを差し入れに出すと、途端に頬を緩ませ腰を低くして招き入れた。

「息子さんはお兄さんを殺した動機について、神の石がどうのと言っています。これについて思い当たる節はありますか」

「あの子、そんなこと言ってたのですか。何でもない石なのに。確かに晴彦はあの石を大事に扱っていましたね。神のご加護があると信じていたのでしょう」

「晴彦さんはもしかすると、誠二さんが石の神聖的な意味を認めず動かしたことに腹を立て、凶行に及んだ可能性がありますが……」

「まったく、親父が変なことあの子に吹き込むものだから……いやあの子の祖父なんです、あれを神の石だとか何とかと言ったのは」

光雄の話によると、岡田晴彦が「神の石」の神聖性を信じるようになったのは、小さいときに聞かされた祖父の話がきっかけだという。

「神の石」がつくられたのは雄略天皇の時代にさかのぼり、その歴史はゆうに千五百年は越える。むかしこの地にあった神社で用いられた祭祀物の一つだという。残念ながら神社は源平争乱の戦災で焼失し、祭祀物もそのときことごとく散逸したが、石だけは難を逃れた。それからいくつもの時代をまたいで神の石は今に残り、現地の民を守護し続けているということだ。

もちろんこの話は祖父が言っているだけで、確かな資料があるわけではない。それでも晴彦は石にまつわる伝説を信じたらしい。

「もともと、兄弟仲は悪かったんです。仲が悪いと、小さなことでもすぐ喧嘩を始めるんですよ。刑事さんのところもそうじゃないですか?」

「うーん、うちは一人息子なもので、その辺りの事情はわからんです」

「そうですか。いや私が言いたいのはね、石のことだってただ気に食わないだけだったんじゃないですかね。そのことがあってもなくても、あいつはいずれ兄を殺すつもりだったかもしれません」

「お兄さんがその石を動かしたのはいつ頃ですか?」

「えーと、今年の6月くらいだったかな?」

「6月……確か、町田の市中が空襲で焼かれたのが5月の終わり頃でしたね」

「そうです、確かにその後でしたね、長男が石を動かしたのは。その時結構な大げんかがあったのを覚えています。兄貴のほうがまた余計なこと言ったもんだから。“この石がそれほどたいそうな代物か? どれ動かしてみたら面白い、神の石ならさぞかし大きな罰が当たるだろう”なんて挑発しちゃって」

「挑発?」

「ええ。“石を動かして天罰が下るのなら、これまで空襲に遭わなかった我が家に米軍機の爆弾が落ちるに違いない”と」

「なるほど。それで弟さんの反応は?」

「“お前は愚か者だ、神の石があるから空襲を逃れられているのだ。罰が当たって米軍機の空爆にさらされようと、粉々に吹き飛ぶのはお前だけだ”と吠えてましたね」

そう語る父親の表情は少し疲れていた。

「しかし、空襲で家が焼かれることはなかった」

「ええ、本当は喜ぶべきことなんですが、それで家の中は余計にギスギスしたんです。兄貴は“あれ? 石を動かしたのに、空襲来ないなあ”なんて、面白おかしく弟を挑発しちゃって。結局爆弾が落ちることなく戦争は終わって、助かったなあと喜んでよかったはずなのに……」

「そのせいで兄は殺され、弟は罪を背負うことになった」

灰島の言葉に、父親はあきれるように首を振り、力なくうなだれた。

「神の石」は、その地に鎮座して以来、千五百年、少しも動かされていない(と弟は信じていた)。もし動かそうものなら祟りが起こる。「神の石」の神聖性を信じた晴彦はその教えを忠実に守ろうとした。兄はそんな弟の無垢な気持ちをあざ笑い、侮辱した。許せない弟は、傲岸不遜な兄に天罰が下ることを信じた。この家が空襲で焼かれるときこ天罰であり、そのとき命を落とすのは兄だけだ。そう確信した。が、その機会がついに訪れることはなかった。仕方なく弟は、自らの手を汚すことにした。

兄殺害の動機は、己の信仰心を汚されたことへの復讐だということか。

犯人の供述と父親の話を咀嚼してみても、灰島の中で引っかかるものが消えることはなかった。

「弟さんは、神の石を動かした兄の行為そのものに怒りを感じたわけじゃない。それが直接の動機なら、石を動かした時点で事に当たればいい。信仰心は関係なく、お兄さんを心底憎む気持ちがあったんじゃないですか」

「……そうですね。神の石云々はおそらくこじつけでしょう」

灰島は、ここでかねてより抱いていた疑問をぶつけてみた。

「ところで、晴彦さんは戦争に行ってませんね? 二十歳という年齢を考えると、徴兵されていてもおかしくない。何か特別な理由があったんですか?」

二歳上の兄が長男という理由で兵役免除になったのはわかるが、次男の晴彦はどうしたのだろう? 灰島はそれが引っかかっていたのである。事件には直接関係ないかもしれないが、灰島は「個人的に」その辺りの事情が気になった。

それに対して岡田光雄は目を見張り、「さすが刑事さん、勘が鋭いですね」とこぼした。そして苦笑しながら「私は、兄弟仲が決定的に悪くなったのは、弟の徴兵検査からだと思います」と語り出した。

「晴彦は17歳で徴兵検査を受けています。結果は不合格でした。“肺病の疑いあり”という判定だったんです。これには私もちょっと意外でした。というのも、それまで次男が咳き込んだりした様子がなかったものですから。はて? 肺が弱かったのか? と。私がそう思うくらいだから、兄貴も疑ったのでしょう。“お前、戦争に行きたくないから体力検査で咳き込んだりしたのだろう? 肺が弱いのを装ったのだろう?”なんて、また余計なことを言ったもんだから、弟のほうは顔を真っ赤にして怒っちゃって。私の記憶ではこの後からですよ、二人の関係が取り返しのつかないくらい険悪になったのは」

「神の石」の話を聞かされても今ひとつ腑に落ちなかった灰島だが、この説明には胸にストンと落ちるものがあった。それだ、それに違いない。弟はそのことをずっと根に持っていたのだ。この話のほうが兄を憎むだけの理由がわかるし、客観的な説得力もある。

灰島は格好の土産話でも手に入れたかのように意気揚々と署に戻った。それまで疲れ気味だった表情も、いくぶん生気を取り戻したように見えた。

「君が殺意を抱くまで兄のことを憎んだのは、徴兵検査の不合格を疑われ、臆病者めと侮辱されたからだろう?」

取調室で岡田晴彦と向き合うと、灰島はまっすぐにこの言葉をぶつけた。それまで何をいっても変化のなかった表情に、一瞬だけ動揺の色が走ったように見えた。その変化を灰島は見逃さなかった。岡田晴彦の顔はまた元の仮面に戻ったが、平然を装っているだけなのはすぐにわかった。そんなふうにごまかしても俺をだますことはできない。お前は表情で告白したのだ。心のざわめきは手に取るようにわかる。灰島はこれ以上何も聞く必要はないと判断した。

灰島はこれまでの聞き込みと取り調べで得た情報を整理しながら、調書のノートにペンを走らせた。その概要は次のようになる。

ー終戦の日に起こった、弟による兄殺し事件。兄弟の仲は常に悪かった。その亀裂を決定的にしたのは、弟の徴兵検査の結果を揶揄した兄の侮辱的態度である。人格を真っ向から否定するような心ない言葉に、弟は深く傷つくとともに、兄への憎悪をたぎらせた。

いつか殺してやりたいと思ったが、今は戦争中、自ら手を下さなくても、ひょっとして空爆で命を落とすかもしれない。しかも兄は、家が代々大切に祀ってきた由緒ある石を粗末に扱い、天罰が下ってもおかしくない。弟は不謹慎にも家が戦禍に見舞われて兄が落命することを願った。

幸か不幸か、米軍は家を焼いてくれず、終戦を迎えてしまう。世の中は平和となったが、岡田晴彦にとってこれから憎き兄との暗く長い日々が待ち受けていた。それはほとんど絶望的で救いのない状況だった。この男に天罰がくだらないのならば、自分が手を下すしかない。これまでさんざん屈辱を受けてきた復讐とばかりに、弟は兄に刃を向けたー。

灰島は、岡田晴彦の兄殺害の動機を合理的に説明できたことに、心から満足した。調書の出来映えも自画自賛したくなったくらいだった。これですっきりした気持ちで起訴手続きに入れるとも思った。それどころか、自分はいいころをしたという気持ちにすらなった。単なる兄弟喧嘩の末に起きた悲劇ではなく、殺害した犯人側に同情されるべき動機を明示したことで、減刑の期待も高まるのである。これがなければ肉親殺しの岡田晴彦は重罰を受けるしかない。罪人にとってプラスであれマイナスになることは何もないのだ。それもこれも自分が根気よく丁寧に弟の心の闇を解き明かした成果に他ならない。

灰島は、兄殺しの動機に客観性があるかないかというより、自分の心が納得するかどうかで支えられていることに、まだ気づいていなかった。

一仕事終えた灰島は一服しようと署の屋上に上がった。西の空は陽が傾いて茜色に美しく染まっている。蝉の声はすっかり遠くなっていた。かかりっきりだった仕事から解放されたせいか、終戦の実感が遅れてこみ上げてきたような安堵感に包まれた。

いつの間にか池沢が隣に立って煙草を吸っていた。「岡田晴彦は本当に肺病だったんでしょうかね。彼は戦争に行くのを怖れたのか、それとも本当は行きたかったのか、どっちなんでしょう?」。池沢の質問に、灰島は少し考えるような顔をしたが、ただ「さあ、どうかね」とだけ答えた。

「灰島さんも確か、警察官という身分だったから兵役を免れたんですよね」それまで西空の彩雲に張り付いていた灰島の視線が、ぱっと横を向いた。後輩の瞳は、何か探るような色になっていた。

「……兵役を免れた……その言い方だとまるで俺が得したように聞こえるな。言っておくが、俺が警察官になったのは十五年以上前のことで、この間までの戦争の徴兵とは無関係だ」こう言い返す灰島の語気ははっきりと乱れていた。

俺もお国のために戦いたかった。それは、戦争中に灰島が抱き続けた偽らざる気持ちだった。

その胸中とは裏腹に、町の治安をあずかる警察官は優先的に徴兵が免除された。決して本意ではなかった。それでも、「お宅はいいねえ、戦争に行かずに済んで」と心ない声をぶつけられ、苦い思いを味わった。「警察官でなければ喜んで戦争に行っていた」そう心の内で叫びたかった。しかし、その気持ちを吐き出しても、どうせ誰も聞く耳をもってくれないのだ。

“それほどの気持ちなら、職を捨てることもできたろうに。裸の地位になって赤紙をもらえばよかったじゃないか”

こんな心の声も、ときおり反響して己を悩ませた。

「ヘリが飛んでいますね。厚木基地から飛んできたのでしょうか?」

池沢が指す方向の空に、黒いごまのような機影が数機見えた。海軍の厚木航空隊が降伏に反対し、反乱の兆しを見せていることはちらほら聞こえていた。

「実は僕自身、戦争に行きたくなくて警察官を志望したんです」

隣の池沢が、唐突にこんな告白をはじめた。

「警察官になれば兵役免除になるという話を聞いたので。こんなこと今まで絶対誰にも言えなかったんですけど、戦争が終わってやっと言えました。何だかほっとしています」

すがすがしく言い放つ池沢に、灰島は何の言葉も出せなかった。

岡田晴彦は肺病だったのか、それとも仮病だったのか。灰島は今さら疑問に思い始めた。蝉の鳴き声が遠くなるのに反して、ヘリの轟音はどんどん迫ってきている。













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?