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「道義」と「法律」は区別して考えるのが近代の価値観なのに、戦後日本人は幼稚な正義心と価値観から両者をごっちゃにして自己陶酔に明け暮れる。そして国家を衰退させる

Amazonプライムで、松本清張原作のサスペンス映画『疑惑』を観た。

桃井かおり演じるホステスの球磨子(くまこ)は、夫とともに乗った車が岸壁から海に転落する事故に遭い、一人だけ助かる。しかし、すぐに夫殺しの罪で逮捕される。親子ほど年の離れた夫には多額の保険金がかけられていたのだ。海に落ちた車の状況や目撃証言などをもとに、球磨子による計画的犯行の容疑は固められていくのだが、残された状況証拠以上に犯行を疑わせたのが、彼女の性格と素行である。

恐喝、詐欺、傷害など彼女にはいくつかの前科があった。加えて、平然と嘘を吐く、キレたら手がつけられないほど暴れまわる、マスコミや世間を向こうに回して挑発するような悪態に出る、などなど、その言動は問題だらけだった。しかも、夫が「不慮の事故」で亡くなったというのに、涙一つ見せずけろっとして保険金を要求する。球磨子は希代の毒婦だったのだ。

警察はおろか、新聞記者や夫の親族、報道で事件を知った世間一般の人々も、彼女の「クロ」を信じて疑わない。いや、映画を観る観客や視聴者も、この女なら保険金目当ての殺人も平気でやりかねないとの印象を抱くはず。それくらい球磨子の性悪ぶりは度胆を抜くものだった。

ネタばれしてしまうと、球磨子は「シロ」だった。球磨子の強烈なキャラクターに引っ張られ、みんな「こんな性悪な女がやっていないわけがない」と思い込んだ末の冤罪だったのだ。警察は結論ありきで証拠をそろえ、マスコミはこんな悪女ならいくら叩いても許されるとばかり根も葉もない情報を垂れ流し、科学的見地にもとづいて分析するはずの鑑定ですら、湯水のような球磨子叩きの報道の影響を受けて「偏った判定」を出してしまっていたのである。審判が下されるべきは、球磨子ではなく、勝手な思い込みで一人の人間を死刑台に送ろうした社会のほうであった。

映画が(松本清張が)描きたかったのは、たぶん毒婦ではないだろう。球磨子という一人の女性の反道徳的な振る舞いを通して、人間の心はどのように動くか、社会はどんな反応を示すか。一度凝り固まった先入観に、道義や正義感といった絶対的な価値観が加わると、歯止めが利かずどこまでも暴走してしまうという、避けがたい人間の業のようなものをあぶり出したかったのではないだろうか。

それ以外にも、「道義と法律は区別されるべき」という近代的な価値観を、社会全体で共有することがいかに難しいかを教えてくれる。

人間の過ちや至らぬ行為と、不法行為との間は、明確な線で区切られるべきである。「目には目を 歯には歯を」や「かたき討ち」「不貞行為」などの法的な価値観は、古代近世社会なら通用したが、近代では通用しない。だから、「嘘をついてはいけない」「不倫や浮気をしてはいけない」などは道義的に責められる行為であっても、法律で裁くレベルのものではないのは、現代人なら感覚的に理解できるはず。これをいちいち法制化して罰則を設けるなどすれば、社会はたちまち混乱に陥るのが目に見えているからだ。

それでも、正義や道義の価値基準で判断すると、嘘も不倫も許される行為でない。だから、芸能人の不倫は炎上騒ぎになるし、政治家の嘘(記憶違いや勘違いも含む)も糾弾される。もちろん一般人レベルでも許されない行為だが、あくまで道義的なレベルのものであり、これをやらかしたからといって即座に警察にしょっぴかれるような暗黒社会を望む人など現代ではほとんど皆無に近いはずだ。

しかし実際の日本の政治では、道義的な問題点ばかりやたらフォーカスして糾弾する姿が目立つ。マスコミも世間も。それで溜飲が下がるのかもしれないが、道義的な問題性と法的な問題性はまったく区別されるべきである。そこのところをごっちゃにしてやりあうから「いや法的には問題ないですよ」「それでも国民感情ガー 国民の理解ガー」といつまでもかみ合わない。結果、情緒に流されるばかりになって政治はどんどん停滞し課題は棚上げされていく。そのしわ寄せは確実に国民生活にくる。国民感情とかファジーなことを持ち出しすぎだし、それはつまり批判カードとして道義ばかり使うからだ。このカードは大変便利である。マスコミはただ楽しているだけなのだが。


物事には何でも度合いがある。嘘や不倫は気にしなくて済むくらいの微小なレベルだが、この「違法ではいが道義的にはアウト」の極致が、「戦争」ではないだろうか。

現代の日本人に、「戦争は合法ですか? それとも違法ですか?」という質問を投げて返ってくる答えのほとんどは、「違法」になるかもしれない。いや理屈では「合法」だとわかっても、感情的にとても合法など答えられないという人も少なからずいるだろう。

だが、国際的な常識に照らして考えると、戦争は合法である。反戦派と呼ばれる人たちが信奉する国際法でも、「自衛戦争」まで法的に否定するのは不可能だ。自衛戦争か侵略戦争かを決めるのは、究極的には「戦争に勝った者」であり、法律で決めてすべての国の戦争行為を抑止するのは極めて難しい問題なのだ。

おそらく現代日本人は、先人たちが苦渋の末に決断して起こした「大東亜戦争」(太平洋戦争)について、合法か違法かのどちらかと聞かれれば、ほとんどの日本人は違法と答えるだろう。しかしそれは、法的なレベルではなく、あくまで戦勝国の論理で決められた価値観をありがたく頂戴しているだけという「歴史的事実」に過ぎないことを自覚する人も、残念ながらほとんどいないのが事実だろう。

現代人が「正義」「道義的に正しい」と信じる反戦という価値観も、戦勝国の論理で決められたーそれは「反戦」が戦後民主主義的な価値判断に保証された自己陶酔的で現実を無視した幼稚な判断基準に基づくものであることに気づくことすらなくー価値基準である自覚もなく、アメリカが行った「占領統治のための洗脳政策」は、戦後80年近く経っても現代の若者の間ですら深く深く浸透するほどの圧倒的な効果を発揮している。

ほとんどの人は、「戦争はどこまでも絶対的によくない」という戦後に吹き込まれた価値観で理解しているだけに過ぎず、道義的によくないか法的によくないかの区別もつかないまま、宗教の信仰レベルといっていい考えで、絶対的反戦主義は正しいと理解している。戦争決断は道義的によくない、韓国併合は道義的によくない、慰安婦はもちろん道義的によくない。では法的には? 法的には問題なかったといえば「反道義的」ですか?

しかしこのように日本人が道義ばかりを振りかざして自虐の殻に閉じこもっている状態は、どこかの他国からすればまことに都合がよい。日本を骨抜きにするための占領政策は見事に成功したわけだけど、当のアメリカはここまで成功するとは思ってもいなかっただろう。(この成功体験が利きすぎるあまりイスラム圏でも使えるだろうと勘違いして失敗したけど)

戦争がよくないということは道義的な価値観で判断しているだけで、法的に正しいかどうかの判断基準など弁護士や裁判官ですら持てないのが現代日本人の病理だと言える。戦争はコロナや地震や台風や雷と一緒で、人間の価値観や意思とは無関係に起こるときは起こるものなのだ。法律レベルで支配できない事象だからこそ、憲法でも国際法でも規制できないということがなぜわからないのか。その厳しい現実から目を背けたままの日本人で居続けるなら、占領統治を託されて横須賀に上陸したマッカーサーが「鬼畜米英からギブミーチョコレート」に豹変した日本人を目の当たりにして言い放った、「日本人の思考レベルは12歳以下」の屈辱的な言葉を受け入れるしかない。

もうすぐ真珠湾攻撃を断行して日米開戦の火ぶたを切った12月8日がやってくる。今年は開戦の日から80年の節目の年である。アメリカでは『フーバー回顧録』が発禁の解除が受け、日米開戦に対する認識も米国では変わりつつある。どんな分野の歴史でも、年月が生んだ研究成果や新たに発見された資料によってアップデートは行われるものだが、日本ではいまだ、戦勝国史観や東京裁判史観を否定するような言説や新資料を持ち出してくると、「歴史修正主義」だの「ネトウヨ」だのと罵倒されるのが現状だ。自分たちこそは戦後民主主義、戦後平和主義の絶対的価値観を守り抜く信徒だと言いたいのだろうが、力によって正義も道徳も支配できると信じる輩どもの先兵になっている事実に、いい加減気づいたほうがいい。























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