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【近現代史の情報】一次情報の確認だけじゃ足りない。「比較」もする。

コロナウイルスが流行ってから、「一次情報」という言葉がさかんに使われるようになりました。

コロナやワクチンを巡っては、巷に流れる情報量が膨大かつ煩雑すぎるうえ、虚偽と思われる情報も少なからず含まれるため、まずは厚生労働省や首相官邸などの公的機関の情報を参照することが推奨されています。

ちなみに「一次情報」とは、実際に体験した人の体験談や、研究や実験に直接携わった人が発表する研究内容・調査結果などを指します。つまり当事者が発信する「オリジナルの生情報」です。公的情報が一次情報とほぼ同義の意味で扱われるのは、その情報が極めて信頼性が高いものとみなされるからでしょう。

それはさておき、一次情報(一次史料)をまず確認する姿勢というのは、歴史研究でも重視されます。戦国時代における一次史料とは、戦国時代を生きた当時の人々の書き残したものだとわかる文字資料(書状や書簡、社寺が保管する記録など)などです。大東亜戦争(太平洋戦争)に関する一次史料と呼べるものには、陸海軍が公式に発行した書類や文書(作戦記録に関するものや戦闘報告書、法令、命令通達に関するものなど)、戦争当事者が書き残した陣中日誌や手記、証言、あるいは当時の外交記録や会議メモ、政府閣僚関係者が発表した回顧録などが該当します。

一次情報や一次史料と呼ばれる情報は、「いつ・誰が・どこで」といった基本情報がはっきりしており、出所も確かなため、正確な研究や検証ではまず第一に優先されるわけです。

この一次情報が何より重視されるのは間違いないのですが、では、一次情報を確認すれば万事問題なしと言えるのか、それが絶対的に正しい情報かというと、必ずしもそうとは言い切れない部分もあります。

当事者の手記や証言の中にも、記憶違いや勘違い、不確実性の高い「又聞き」情報、感情や思い込みの入り混じる主観的意見なども含まれるため、安易に鵜呑みすると不確かな「事実」が定説として流布される危険性に注意sなければなりません。

信頼性の高い一次史料でもそのような不安定要素があるため、異なる見方を提示する別の一次史料と突き合わせながら検証を進め、多角的・総合的な観点から史実の正当性を見極めていく緻密さが求められます。 

歴史は科学と異なり、確固たる正解というものが存在しない世界です。一次情報を発信する人間個人の思想や価値観もときとして大きく左右します。一つの同じ事実や体験をどう捉えるか、何を「事実」と規定するかは、当事者が十人いれば十の異なる「真実」が発信される可能性だってあるわけです。

いわゆる専門家と呼ばれる歴史学者たちの学術的研究でも、一体何が正解で真実はどれかかといった論争は常に巻き起こるものです。第一次世界大戦に対する見解、第二次世界大戦に対する見解、ヴェルサイユ条約に対する見解、満州事変に対する見解、韓国併合に対する見解、日米開戦に対する見解など、どれも一次史料研究に基づく素晴らしいものであっても、それが唯一無二の「正解」というわけではなく、あるのは正統か非正統か、主流か非主流かの違いだけです。「正統=正解」とは限らず、時代が変わって正統と非正統がひっくり返るなんてこともままあります。学説の権威性も今の時代の価値観が規定しているというだけで、何が事実で何が真実かといった問題とはまた別次元の話です。

歴史にしろ、コロナ問題にしろ、ただ一次情報を参考にするだけでは足らず、異なる見方を提示する一次情報同士を「比較」し、どちらが腑に落ちるか、自分でちゃんと確かめる作業までしてはじめて、実相に近づけるのではないでしょうか。

そんなことは当たり前で言われなくてもわかっている、と思われるかもしれません。が、実際に比較している人はどれだけいるのでしょうか。そもそも、仕事や日常のことに追われ忙しい一般国民が、情報を比較して正しく判断できるような状況にあると言えるでしょうか? この問題提起を共有したいのです。

物の見方を変えれば「事実」などいくらでも出てくるのに、あたかも「事実」は最初からそれ一つしかない、それ以外を事実とするのは邪道であるといわんばかりの論調は、近現代史でもコロナ問題でも見られる現象です。そうなってしまうのは、「権威性のある情報が正解」「公的情報が発する情報が真実」という思い込みが強いせいではないでしょうか。

権威ある学者の言うことがすべて正しいとは限りませんし、公的機関が常に本当のことを発表するかといえば、残念ながら「NO」と言わなければなりません。それこそ近現代史を振り返ってみればわかることです。無謀な作戦を強行させた大本営参謀本部の作戦課は高度教育を受けたエリートぞろいでした。デタラメばかりの情報を集めて日米戦争の甘い見通しを立てた企画院の官僚たちは東大出身の最高の頭脳集団でした。そして何より、負け戦を勝ち戦だと言い張った悪名高き「大本営発表」は、れっきとした公的機関の情報でした。当時の日本人は、これらを「頭のよい専門家の先生たちが言うことだから」「偉い軍人さんの中でもエリートと呼ばれる立派な人たちが考えていることだから」「ちゃんと物事がわかっているお上が発表するものだから」と信頼していたのです。「一次情報」を無謬なきものと信じる今の私たちのように。

一方的で横並びの情報発信しかしないメディア、画一的で考える機会を与えない学校の歴史教育。これらに権威や同調圧力に弱い国民性が加わり、日本の言論空間はなかなか広がりを見せず窮屈で息苦しい状況が続きます。せめて、利用するお店選びやサービスの選択など、普段の生活でやっているような「比較する」ということを、多くの人がとり入れれば、歴史や政治の情報で変に流されずに済むのかなと思います。これらは「自分ごと化」しなくてもすでに「自分ごと」のはずなので。













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