上野公園史跡巡り|西郷隆盛銅像と彰義隊戦死之碑
上野公園には、上野東照宮があり、旧寛永寺五重塔があり、上野大仏や清水観音堂があり、そして西郷隆盛の銅像と彰義隊戦死之碑がある。
江戸時代から幕末、明治維新にかけての歴史が凝縮された史跡の宝庫。最近史跡巡りというものをする機会がなかったので、たまには往時を偲ぶ歴史の痕跡を生で体感しようと思い、上野公園に足を運んだ。
JR上野駅「不忍口」を出て不忍池方面に向かって歩くと大きな横断歩道にぶつかり、そこを越えた先に園内へと続く階段が見える。
階段を上がってすぐ右手にある「壁の泉」。ここはかつて寛永寺の総門「黒門」があった場所。
黒門は、彰義隊が立て籠もる境内に官軍が攻め込んだ「上野戦争」の最大の激戦地。今はこの壁泉が黒門を表現するモニュメントになっている。門そのものは東京都荒川区の円通寺に移築されているそうだ。
この黒門右側の階段を上がり、右側にあるのが西郷隆盛の銅像。
西郷隆盛像は公園南東の隅っこに位置し、上野駅の方面を見据えるように建っている。
さすがに生で見る西郷隆盛像は大きく、迫力満点で、銅像とは思えないほどの威厳を感じる。
顔はそのまま大仏のご尊顔にしても通用しそうなくらい、崇高で荘重な趣。
ちなみに西郷隆盛像の目線の先はどうなっているかというと、
真っ正面にヨドバシカメラ。もちろん建立時はこんなのなかったわけで。
西郷さんが見据える先には何が映るのか、個人的に気になったので撮ったまで。
上野に西郷隆盛の銅像を建てようとの話が持ち上がったのは、明治22年頃。この年大日本帝国憲法が発布され、それを機に西郷に着せられた賊軍の汚名も消え名誉が回復した。西南戦争から12年の月日が流れていた。名誉回復を機に西郷と特に親交の深かった薩摩藩出身の吉井友実が中心になり、西郷顕彰運動を盛り上げた。この運動には西郷を慕う多くの士族出身者が加わった。西郷を敬慕し、崇拝した者は薩摩藩出身の士族に限らず、全国に大勢いたのである。
その西郷隆盛像のほぼ真後ろに位置するのが、彰義隊戦死之碑。
彰義隊の墓碑はイチョウの木やクスノキに囲まれるようにひっそりと建つ。
彰義隊はもともと江戸市中を巡回・警護する巡邏隊で、徳川家に忠誠を誓う幕臣や義勇兵たちで結成された。新政府軍との対決を決意して上野山に屯集。大村益次郎指揮の討伐軍に鎮圧された。
彰義隊の墓碑から正面には、西郷隆盛像の背中が映る。
彰義隊の守備兵がこもる黒門には薩兵が殺到し、小銃や大砲による総攻撃を加えて一日でこれを陥落した。その薩兵を指揮したのが西郷隆盛である。彰義隊を壊滅させた張本人の西郷隆盛が、今こうして戦死者の墓碑に背を向けて建っている。実に微妙な両者の位置関係である。
上野公園の南側は、幕末維新に火花を散らした西郷隆盛像と彰義隊戦死之碑が並び立つ「勇武の聖域」の感がある。
この後に巡った史跡については次回の記事で。
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