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歴史×創作|渋沢栄一の生まれ変わりを主張する男と、私|短編小説

妻が欲しがる人気のマタニティシューズは、いっこうにみつからなかった。

何でもそれは世界的なバレエダンサーも愛用する妊婦用のパンプスで、検索すれば必ず取り扱うECサイトが二つか三つは出てくるはずだから、買い物から帰ってくるまでに見つけてほしいと妻に言い渡されたのに、これ以上ブルーライトを浴びながら検索に励んでも釣果は期待できそうにない。それより私は新しいタブを開くたびにブックマークバーの四角い赤の再生マークが気になり出していた。マウスポインタ―をそこに近づけては引っ込める落ち着きのない動作を先ほどから繰り返している。ポインターを当ててクリックすれば、私の妻に立てた誓いは無に帰すことになる。

もし探せなかったら今月残りのゴミ出しぜんぶ友久にやってもらうから。出かけ際に彼女が口にした言葉を思い出し、そんなことでこの張りつめていた神経をゆるめることができるならかわいいものだと半ば開き直ると、羽根が生えた気分になってYouTubeサイトを開いた。

画面にはこれまでの視聴履歴に基づく関連コンテンツの窓がひしめき合い、一個人の公私をつまびらかにする内幕と化している。司法書士試験の解き方を解説した動画や、妊娠中の妻との接し方を教えてくれるコンテンツなどのラインナップは、私の嗜好と用途の観察記録といっていい。YouTubeは妻の次に原田友久という人間をよく知っていた。

何も考えずぼんやりしたまま楽しめる動画は落ちていないかと下へ下へとスクロールしていたところへ、いつもは出てこない社労士関連の動画に目が留まった。

司法書士試験関連の動画はお金を払ってもいいくらいに視聴しているから、士業つながりで社労士関連の動画が浮上してきたのだろう。最初に一瞥したときはその程度の認識だった。が、よくよくサムネイルに映し出されたアップ主の顔を見ると、どうも知り合いのような気がしならなかった。いや、どう見てもそれは知った顔だった。

星川光洋だった。

子どものような丸っこい瞳をしていて、少し媚びを売るように笑みを浮かべる様は、3年前と少しも変わっていない。陽気の仮面で心に負った傷を隠し、自らを「渋沢栄一の生まれ変わり」と信じていた旧友は、ユーチューバーになっていた。

***

星川光洋と出会ったのは、3年前の長い梅雨の終わりかけだったと記憶する。会社をやめて暇を持て余していた頃に、転生サークル「彼岸の会」に入会した。そこで同じように社会の片隅で小さく息をする彼と引き合った。

当時の私は人生の迷子だった。

大学を中退してそのままフリーターになり、有機野菜を宅配する配送会社にはじめて就職するも、二年足らずで退職した。完全なブラック体質の会社だった。休めないし、残業代もろくに払ってくれない。そんな腐った会社に将来性などあるはずもないと見切りをつけるのが正解だと思った。「あなたの健康を届けます」退職日の帰り際、トラックの荷台ボディに躍る文字入れにバナナの皮を投げつけてやったのが、あのとき私ができるせいいっぱいのレジスタンスだった。

落ちこぼれていく姿が目に見えてはっきりすると、自虐と自責は止まらなくなり、だんだんと心もふやけていって、何のために生まれてきたのか、生きる価値はあるのか、根本のところがぐらつきはじめた。

こんなダメな人間が生まれてきてよいのかという不信もあるし、自分に生きる価値があるのかという疑念も消えない。この世に人を誕生させたのが神や宇宙だとしたら、その意志を問いたくなった。教えてくれるものなら教えてほしかった。「私はどこからきて、何のために生まれたのですか?」

最初はこの世に生を受けた意味を否定していたのが、いつしか自分が生を受けた意味がどこかにあるはずだという根源探しの旅になっていた。それは今思うと、意味がないように見えて仕方のなかった自分の人生に、少しでも意味を見出そうとする悪あがきの抵抗だったと言えなくもない。

広大な情報の海であるインターネットの世界にアクセスすると、何でもわかるような尊大な気分になる。前世の記憶を持つ人がたくさんいることも、ネットでたやすくわかった。そして、転生や生まれ変わり、前世という概念に何かを託し、期待して生きている人たちがこんなにもたくさんいると知り、それが今の自分を慰めてくれるようで心強かった。

そんな私が「転生サークル」の存在を知り、入会するのはごく自然の流れだったに違いない。「彼岸の会」の入会条件は転生に興味を持つ人ならだれでも問題なく、前世の記憶がない自分でも大丈夫だと分かれば、もう仲間に入るしかなかった。

19世紀オランダで両替商をしていた商人、沖縄戦で戦死したひめゆり部隊の看護婦、歴史に残っていない徳川家康の隠し子。普通の人たちが普通の顔で、すごいことを話していた。不思議な雰囲気をまとった人たちに混じる星川光洋は、「渋沢栄一の生まれ変わり」を名乗り、最初の自己紹介から、他の人たちと比べてやや押しが強い印象を与えた。

「わたしの前世は渋沢栄一でした。会社でひとり居残って残業し、一瞬でしたがうたた寝したときに見た夢で、それが分かったんです。その男は死んで三途の川をわたっていました。途中に小さな中洲があり、男は舟を着岸して少し盛り上がったところの小さな建物に入っていきます。背後にはものすごい勢いで炎を噴きあげる活火山があって、黒い灰やけむりが立ち込めてそれこそ地獄のような場所でした。男を待っていたのは時代劇に出てくるお侍さんのような恰好をした調査官で、対面するやいなや“お前は渋沢栄一だな、ご苦労であった”といいます。そして、“次は何に生まれ変わりたい?”と質問し、渋沢栄一は、“ごく普通に働く一般人でいい”と答えます。そこではっと目を覚まし、たまらずインターネットで渋沢栄一を検索しました。歴史にうとい私はそれまでこのような人物がいることすら知らなかったのですが、果たして画像を確かめてみると私が夢で見た男そのものじゃないですか。これはもう神様が自分の正体を気づかせてくれたのだと思うよりほかにありませんでした」

星川の話に限らず、どの転生者の人の話でも、正直それが真実かどうかなんてわかりようがなかった。少なくとも彼ら彼女らはそう信じている。真実を言うならばその姿そのものだった。私にとっては、まとわりついて離れない現実のうっとおしい重さをほんの少し忘れさせてくれるだけでよかったのだのかもしれない。それは現実の世界から遠ければ遠いような場所にあることほど、その効果が高く、安心させてくれるものがあった。

よくしゃべる人や引っ込み思案でなかなか自分を出さない人など、いろいろな人がいる中で、星川はどちらかというと饒舌で自分のことをよくしゃべる人間だった。職業を聞いたとき営業マンと答えたのにも納得した。どちらかというと話を聞くのが好きな私とは何となくかみ合うところがあった。年が近く、私自身歴史に興味があり渋沢栄一が好きだったことも、星川とつながる材料を与えてくれた。

「渋沢栄一のことが好きという人にはじめて会ったから、とてもうれしいです」

「彼の本読んでますし、記念館を見学したことあります」

「もっと知られてほしいんだよなあ、渋沢栄一のこと。彼のような人間が今日本にいちばん必要だと思うから。渋沢栄一みたいな経営者が百人もいれば、日本の企業はガラリと変わって、ずっとよくなります」

「熱いですね。よかったら今度メシでも行きません?」

「いいね、行きましょう」

星川はとにかく陽気だった。そしてよくしゃべった。出されたお酒やおつまみには手をつけず、ずっとしゃべっているときもあった。思いがあふれているというより、口から生まれる言葉で埋め尽くさないと気が済まない、そんなあわただしい余裕のなさが流れていた。

それからちょくちょく2人だけで会うようになり、サークルの会合の場が必要ないほど仲が深まってきたとき、星川は他の会員には話さないプライベートなことも私に打ち明けるようになっていた。

「実はいまちょっとね、会社のほう休んでいるんだ」

表情をやや曇らせて言うものだから、何か事情があって休職中だということはすぐにわかった。

「メンタルのほう崩してね。人材派遣会社なんだけど、超ブラックでさ、当たり前のように残業あるし、みんな体育会系のイケイケで、ヘマしたらすぐお叱りが飛んでくる」

「ああ、それはメンタル壊しますわ。ぼくも実は前の会社がブラックでやめた身です」

「本当に多いね、問題だよ日本の企業は」

話を大きくしているが、その憤懣が彼の自分の体験に根があることは明らかだった。

「じゃあ、上司とかのパワハラもすごかったんですか」

「……まあね」

星川はビールをあおり、ジョッキグラスを乱暴に置いた。その衝撃は小皿が音を立て宙に浮くほどの強さだった。何か癇に障ったのかと私は少しだけ気まずくなったが、「上司なんてほんとくだらねえ、あいつら何様なんだ、オレより仕事できないのに偉そうに」と彼が言ったことで、自分をあこぎに扱った上司への浅からぬ憎悪が噴き出したと理解できた。

そこで星川はまた例のごとく、渋沢栄一のような優良経営で鳴らした人物が日本に必要であることを熱く語った。彼の並々ならぬ渋沢への想いは、自身がブラック企業でさんざん痛い思いをした経験が肥しになっているのか、黒くたぎるものがあった。日本の働き方に強い関心を示すだけでなく、この悪しき習慣を是正するための活動をしなければならない意気込みすらちらつかせる姿に圧倒されつつ、そこまで情熱を傾ける対象があることが羨ましくもあった。

「じゃあ星川さんは政治家を目指してるんですか?」

「そんなことはしないよ。もっと簡単に民間でもできることを目指したいね。ほら、たとえばユーチューバーになって渋沢のすばらしさを広く発信するとか」

そんなふうに語るときの星川は、前世だ転生だと語っていた岸辺の会のときとはまるで違い、純粋に素朴に渋沢栄一という人物に心酔しているようだった。

相手は休職中で、私は転職希望者という名の無職の身。お互い暇を持て余していることもあり、いつでも好きなときに会える気楽さがあった。そのときの私には月10万円程度の失業手当と、手付かずに貯めてきた貯金があったので、とりあえず生活する分には困らず、スーツを着て外回りするサラリーマンをわき目に昼間から酒を飲んでは、星川と転生や宇宙、渋沢栄一といった現実感のない話に没頭した。自分でも身分違いのぜいたくな暮らしをしていたものだと思うが、当時はただ現実から逃げたいだけの途方に暮れる羊だったと自分で思う。

「これまでさんざんこき使われていたから、こんな休みもらうくらいじゃ物足りないけどね」と星川はこぼす。その横顔にはどこかやりきれなさもにじませる。彼が会社に複雑な想いを抱えていることは言葉の端々にみられた。

転生サークルの会合には最初の2、3回しか顔を出さず、その後は星川とふたりだけで好き勝手に語る会合を重ねるようになっていた。気の置けない友人と語り合う日々に生活の充足を感じたとき、前世や転生に没頭していた自分はどこかへ行ってしまったことに気づいた。お前はただ理解し合える者同士が楽しく飲み食いする空間が欲しかったのか。天からそうお叱りを受けても反論できない。しょせんは現実の世界から逃げる口実だったのだ。

どう考えても自分は渋沢栄一と因縁があると主張したかと思えば、急に神妙な顔つきになって会社の体制を批判し、ボルテージが上がると上司の罵倒に進んでいく。私は適当に合いの手を打ち、ときに前職の悪口を言って調子を合わせたが、星川の存在に対面すると自分の現実感が薄まるようで、それが癒しとなって彼との時間をつないでいたような気がする。

私が主に話を聞いて星川が語る構図はずっと一緒だった。星川が渋沢栄一について語るときは特にそれが固定化される。歴史好きを自認し、知識にもそれなりに自信を持つ私としては、不満がないわけではなかった。一応こちらが年下だし、彼岸の会にも遅れて入会した後輩、相手を立てるのが筋だとの意識で遠慮していたのだったが、いい加減聞いているっだけの役回りにもあきてくる。

自分のことを渋沢栄一の生まれ変わりというくらいだから、思い入れたっぷりの感情論になりやすく、それは神格化しているのとほとんど変わらない。渋沢栄一はエライ、彼こそリーダーの鏡、経営者はみな習え。そう熱弁するさまは子どものように純粋で憎めないが、信仰になってはダメだろうと思うのである。

「渋沢栄一と岩崎弥太郎はよくライバル同士って言われてますね」と私が口を挟んでも、「岩崎なんて銭ゲバだよ、渋沢の足もとにも及ばないし、そんなのと比べたら渋沢に失礼だ」とにべもなくはねつける。こんな調子に意見を聞き入れられないことへの反発も多少あり、前に読んだ渋沢栄一の伝記に書かれたことを紹介し、渋沢のあまり知られていない一面を教えてやることにした。

それは、渋沢栄一が大阪紡績工場を設立して大きな収益を上げていた頃、苛酷な労働環境と低い賃金体系の改善を盛り込んだ工場法制定が国会で取り沙汰されたときの渋沢の対応についてだった。

深夜の長時間残業や労働時間を厳しく規制する内容が盛り込まれていたものだから、紡績業界は強く反発した。人件費が圧迫して利益の足かせとなるからだ。渋沢栄一は資本家代表として政府の諮問会議に出席したとき、工場法制定に反対の意見を唱えたらしい。そこから見える一面は、ブラック企業に肩入れするリアリストの素顔だったといえないか。

渋沢栄一の本性に迫るエピソードはそれだけではない。彼は人並みの欲情を持った男でもあった。

渋沢に複数の愛人がいたことは有名な話で、当時の時代の価値観であればただの色恋話として重大視されなかったに違いない。だが現代の感覚でいえば別で、毛嫌いされてもおかしくない好色家の顔は、まかり通る渋沢評とかけ離れたものになる。そんな渋沢のマイナス面をあげつらってみたたら、星川の表情がみるみる曇るのがわかった。私のことを蛇でも見るような険しい目つきになったものだから、正直だじろぐしかなかった。

星川はその後急に無口となった。そこには大切なものに傷を入れられて心を痛める繊細な人間の一面があった。

悪いことは単独では起こらず、同類の仲間を引き連れてやってくる。スピリチュアルが教える真理を生かじりして覚えたことだ。数日後、私は街中で彼岸の会の会員である下田さんにばったり会った。下田さんは自分のことを沖縄ひめゆり部隊の生まれ変わりだと主張していた。会ではあまり話たことがなく、向こうから声をかけられたときも一瞬顔が浮かばなかった。

「星川さんと仲良くやっているみたいだね」あいさつとともに彼女は私と星川の近況をたずねてきた。私たち2人だけ特別に仲が良かったものだから、興味の的になってもおかしくない。話を交わすうちに下田さんの興味はそこではなく、星川光洋個人の人間性にあると分かってきた。

「あの人の話どう思う? 渋沢栄一の生まれ変わりって、本当なのかしら?」

言いにくそうな顔で声をひそめてくる彼女に、私は「どうしてそう思うんですか?」と返すのがせいいっぱいだった。「だって、あの人の場合ただ夢に出てきたからという理由だけでしょ? 他に霊感があるとか、巫女さんとか霊能力者に直接言われたとか、信じられるような根拠がないじゃない、あなたどう思う?」と続けて追及してくる。面倒になった私は「本人がそう言うんだから、そう受け止めてますけど」と軽く答えた。なお彼女は「ぜんぜん知らなかった渋沢栄一が夢で出てきたことを、さも神秘めいて言うじゃない? でもそれってただ覚えていなかっただけじゃないの。夢って記憶の奥の奥にあるカケラでも拾ってビジュアル化されるもんだしさ、それにしてもちょっと変わった人よねえ」と星川を批評した。世間からみれば彼岸の会もじゅうぶん異端だが、その中でも星川は異端児扱いだったわけである。

星川自身、下田さんのことが何となく苦手といっていたから、これは単にふたりの相性の問題だったかもしれない。私はそうはとらえず、星川との間で感情のもつれが起こった後の出来事だけに、何かが崩れていく悪い予兆のような気がして仕方なかった。下田さんの登場もただの愚痴のように受け取れず、これからさらに起こるであろうマイナス現象のしっぽを見せているような気がしてならなかった。

そしてそれは現実に起こった。

私は前回のことで機嫌を悪くした星川をなだめる目的もあって、ガード脇の横丁にある居酒屋に連れ出した。もうそこでは小難しい話は一切やめて、最初みたいにただ食事と酒を楽しむだけの飲み合いをやろうとさりげなく切り出した。私としては労りと融和の態度を見せたつもりだったが、彼はこの場を雪辱を晴らす絶好の機会ととらえ、頼まれもしない本人の弁護をやっきになってはじめたのだった。

星川がこだわったのは渋沢の工場法の制定に対する態度の是非で、渋沢が最初反対の姿勢を示したのは確かだと言った。が、後に渋沢は賛成に回っている、最初に彼が反対したのは時期尚早とみたからで、決して法律の意義を軽んじたわけではない。“大きな変革を成し遂げるにはタイミングが重要で、辛抱強く待つことも必要だ”渋沢の名著である「論語と算盤」の言葉を引用してその裏付けに心を砕いた。渋沢は渋沢なりの考えたあって反対したのであって、断じて労働者を切り捨てたわけじゃない。そう抗弁する星川はかたくなで、傍から見れば喧嘩しているかのように見えたのか、隣の席の大学生らしき男がちらちらと視線を向けるほどだった。

私はその見解に反対するつもりはないし、おそらく真実でもあるだろう。それよりも、彼が必死になって弁護する渋沢と、一度批判めいたことを述べただけの私がまるで対立するかのように論じ、鬼気迫る勢いでまくし立てるのには、さすがに閉口するしかなかった。私としては議論するつもりなど毛頭なく、ただうんうんとうなずいて理解の態度を表明したが、並べられた小皿群にさほど箸をつけてないにもかかわらずのどが食べ物の通過を拒みだし、どっと疲れた気分になって早く帰りたい気持ちになっていた。

とてもこれ以上星川の講義を聞く気分にはなれず、ここでお開きにしようと言ったものの、星川のほうは水を得た魚のごとく元気になり、はしご酒を要求してきた。ここで私が強い態度に出て断わるべきだったと、今でも後悔するときがある。どうしても次に行こうと言って聞かなかった彼を、悪夢のような展開が待ち受けていた。

ガード脇の横丁から国道筋を歩き、派手な電飾と明るい看板がひしめき合うアーケードに入ってほどなくの頃合いで、「星川じゃん」とはじけた声が肩越しに響いてきた。振り返ると顔を赤らませたサラリーマンの一団がこっちに獲物でも見つけたような視線を送っている。直接目が合った男の目はハイエナのように見えた。「久しぶりじゃん」「お前元気になったのかよ」陽気に遠慮なく絡んでくる彼らの振る舞いから、星川の会社の人たちだとすぐに察しがついた。

「一緒に飲もうよ」なかでももっと大柄でたくましそうな男が、半袖越しに見せつける太い腕を星川の肩に巻きつけ、後輩との再会を乱暴に祝った。戸惑いを隠そうと必死に薄ら笑いを浮かべる星川の表情は今思い返しても痛々しい。「営業マンなんてみんな体育会系だから、野蛮ったらありゃしない」酒の席で星川から何度となく聞かされた愚痴をこうして目の当たりにするとは思いもしなかった。

浅黒く灼けた小麦肌の猛者に混じり、長い髪の落ち着き払った若い女性がひとり立っているのは、この集団に出くわしたときから抱いていた強い違和感だった。「池田さんも、いいっすよね」星川と肩を組んで離そうとしない大柄の男の声に、池田さんと呼ばれた女性は眼を細めて「いいわよ、行きましょう」と答えた。彼女が暴風域の縁のほうで立ち尽くす連れの存在を見落とさないほどに気の利いた性格の持ち主であることは、わざわざこちらに歩み寄って名刺を渡してきた行為でわかった。ただそれ以上に強い印象を誘ったのが、彼女の肩書と部署名だった。それを拝見して彼女こそ星川の上司だとわかった。

上司のことを勝手に男性だと思い違いをしていた私も悪かったが、なにゆえ星川が上司の性別を分かるように説明しなかったのか。彼のほうを振り返ってみたら、羞恥と狼狽が一緒くたになったような苦い顔つきをして突っ立っていた。

体育会系の営業部員らしい突き抜けたノリのペースにすっかり巻き込まれ、私はその集団の尾っぽになってついて仕方なくついて行く。星川は相変わらず大柄の男に密着されて自由を失い、無言のSOSをその背中の全面から感じた。

小汚い雑居ビルの上階にある居酒屋に連れてこられ、喧嘩しているのかと思うほどの騒々しい怒声と品のない笑い声が交錯する店内を歩きながら、一番奥の十人くらい座れる個室に通された。星川は相変わらず捕まったままで先輩たちに酒を飲まされていたが、遠くの隅の席にいた私はいつの間にか無き者のごとく扱われ、無言のまま差し出されたビールジョッキを傾けるしかなかった。斜め遠方にいる友が必死に無理な作り笑いを演じる姿は、足の届かないプールで手足をバタバタさせてもがくみたいで、その光景をなるべく見ないようにつくろうのがあの時できたせいいっぱいの努力だった。

トイレのため席を立ち、用を済ませて責め苦の場に戻る途中、喫煙ルームにいた星川の上司である池田さんに呼び止められた。白い煙が立ち込める中でタバコをくゆらせるその姿は美しく、あの猛者たちを従えるたけの強さが納得するほど凛とした雰囲気に詰め込まれていた。彼女が私を傍に引き寄せた理由は星川のここ最近の行状について聞くという職務上のことに過ぎない。「星川くんだけどさ、大丈夫?」顔を傾けて聞くその姿勢に気おされつつ、私は「どうなんでしょう。今の職場が合ってないみたいなこと言ってましたが」となるべく濁して彼の気持ちを代弁した。

煙草の灰を落としながら「私のせいかもね」とこぼす池田さんのうっすらとした陰りをみて、はじめて彼女のパワハラを疑う芽が吹き出してきた。私は思わず正面を見据え、半開きになった個室の扉から同僚先輩に絡まれて必死の歓談を演じる星川の背中から、彼の奥底にある心中を探ろうとした。

「私、星川くんにコクられたんだけどさ、付き合えませんって正直に言うしかなかったんだよね」

不意を突いた告白をこめかみあたりで受けた瞬間、それまで星川の背中にへばりついていた視線を慌ててはがした。それでも甲高い笑い声と歓声だけが耳をつんざいてくる。池田さんは微笑を浮かべながら、「それから会社来なくなっちゃった」それだけ言ってけむりを吐ききると、タバコをもみ消して喫煙室を出てしまう。ちょうどトイレに向かう星川が個室を出たところだった。ふたりは目も合わせずすれ違った。見なければよかったと後悔しても意味はなく、にらみつけてきた星川の鋭い視線を受けて二重に苦み走った気持ちに苛まれた。

何とか口実をつけてこの暴風域からの解放を許してもらい、私たちは線路と住宅地に挟まれた細い道をとぼとぼを歩きながら終電近い駅へと向かった。星川は終始うつむいて口を開こうとしない。私も口を閉ざすしかなかった。西の空にかかったきれいな月が目に飛び込んできても、気の利いた言葉は何一つ出てこない。それより正面の雑居ビルの壁面にかかった「包茎手術はお任せください」のバカでかい看板だけが視界と思考を支配するほどの印象を残し、澄ました表情の時の流れに呼応するような冷めた現実を突きつけていた。

「死んでやる!」ケモノのようなうめき声を認めたときには、星川がフェンスにつかみかかり、よじ登ろうとしていた。私は咄嗟に星川を引っ張り下ろそうとポロシャツの裾を掴んだ。「死んでやる」二回目のうわごとは電車の走り去る鉄の反響音にむなしく吸い込まれる。「おい、落ち着け」何が何だかわからず私はただ星川をなだめることしかできない。しまいには地べたに座り込んで地蔵のように動かなくなり、「笑えよ」と力なく発した強がりは野良犬のいきった咆哮のようで、今でも耳にこびりついている。

星川の悲惨な姿は埒外に置いて、その時の私は自分の置かれた状況に追い立てられるような焦りを強く感じていた。「包茎手術はお任せください」の看板の下でいい年した大人が泣き崩れる姿を見ながら、「こうはなりたくない」と怯える。

その後、星川が連絡してこなかったのをいいことに、私からも連絡を控えた。そのほうが彼に対する親切だと言えなくもないけど、限りなくウソに近い感じもする。人生のゆくべき進路を真剣に考えるようになった私は、大学法学部時代の友人の勧めもあり、司法書士事務所の補助者として働く口を見つけ、現在は有資格者への道を目指して勉学に励んでいる。それと並行して結婚相談所にも足しげく通い、婚活プロによる細やかな手ほどきと数十万規模の投資を経て今の妻と出会った。自分が背を向けても、現実は何食わぬ顔で迫ってくる。その切実さが私を駆り立ててくれたとも言える。今の築き上げた現実がなかったら、もしかすると私は星川に再びコンタクトをとり、後ろ向きに歩くコースを選んでいたかもしれない。

***

「人がこの世に生まれてきた理由。それは神様が課した宿題をこなすためです」スピリチュアルの世界に足を踏み入れたとき、最初に学んだこの言葉も、心に響くまでずいぶん時間がかかった。今では唯一の心に残った言葉となっている。あれほどこだわった肩書を消し去り、今は本名を名乗って社労士ユーチューバーとして活動する星川もきっと、課せられた宿題をこなそうと自分の人生を生きている。同じ労働問題を熱く語る姿でも、あの時と今見る動画越しの姿とでは、声の張りも目の輝きも違っていた。

星川の動画を漁っていたら、妻からの「もうすぐ帰るよ。見つかった?」のLINEに今さら気づいた。私はYouTubeを消して、妻への言い訳の言葉を探しはじめた。

























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