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戦後日本人の国家観は司馬遼太郎の「上から目線」が育てた?

司馬遼太郎といえば、日本を代表する歴史小説作家。

国民的作家でもあるので、歴史好きに限らず多くの日本国民が彼の書いた小説を読んできたし、今も読まれている。

なかには、司馬遼太郎の小説を読んで日本の歴史や近現代史を学んだという人も少なくないだろう。

かくいう自分も司馬遼太郎の小説は何冊か読んでいる。具体的なタイトルを挙げれば『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『峠』など。

今は、司馬作品の代表作とも言える『坂の上の雲』の読破に挑戦中。

その司馬遼太郎の小説だけど、自分は率直に言って苦手。そんな感想を持っている。

確かに大衆小説として完成度は高く、読ませる文章で勉強となる歴史の知識や雑学も多い。けど、苦手。

何が苦手かといえば、その当時の日本人や日本国家に対する見方が冷めていて、どこか上から目線で見下すような調子を含むところ。

たとえば『坂の上の雲』に出てくる「ついでながら秋山好古の結婚観は、いかにもこの時代の日本人らしい気負いだちが基盤になっている」とか「好古のころの日本は、いわばおもちゃのような小国で」とかの文章表現、皮肉を言うにしてもちょっと容赦がないというか、ドライ感が強くてちょっと引く。

祖国に対する思い入れや愛情がないわけじゃないだろうけど、どこか他人風を吹かすというか、日本と自分との間に戦を引いてまったく隔絶した場所から言葉を投げつける、そんな姿勢に違和感を覚えてしまうのだ。

実際、司馬遼太郎は近代国家日本の歩みに対して辛辣な意見を持っていた。とくに欧米や中国と激しく争うことになる昭和以降の日本に対しては「坂道を転がり落ちるようにダメになった」とこき下ろしている。そんな司馬遼太郎の歴史観は戦勝国史観と相性抜群だったこともあり、戦後の言論界やジャーナリズムに広く受け入れられ、国民の間にも深く根を下ろし「司馬史観」なる言葉も生まれた。

しかし、司馬遼太郎の文章を読むと、その史観というものは自己の体験や感想に基づく極めて主観的なものだということがわかる。必ずしもファクトベースで語られたものではなく、ひどい事実誤認や歪曲だってある。なのに司馬史観と持ち上げてこれがあたかも史実というふうに拡散されてきた。きわめて危険な現象だと思うけど、当たり前のように定着してしまった。司馬史観のずさんさや悪影響を指摘しても大量拡散の構造の前に埋もれ、ほとんど国民には届かない状況は今も続いている。

何となく祖国や祖国の歴史に対して「上から目線」で語ってしまう日本人は、司馬遼太郎の小説が育てたものか? それともそんな国民性は最初から存在していて、そことマッチしたからこそ司馬遼太郎の小説は広く受け入れられてきたのか? ともかく、これからも自分は、心に引っかかるものを感じながら『坂の上の雲』を読むことになるのだろう。






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