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近現代史「木を見て森を見ない」のススメ

「木を見て森を見ない」は本来、悪い意味で使われる。視野が狭くなっては細部しか見えず全体までを見通せない。正しく行動したり判断したりするには、俯瞰して全体を見渡す大きな視野が大事だ、という戒めの意味が込められた格言だと言っていい。

確かに近視眼的になるのは困るが、では「森を見て木を見ない」振る舞いはどうなのか。これはこれで「ざっくり全体像だけつかんでわかったような気になり、実際は何もわかっていない」弊害が生まれはしないかと考えたりする。

実はこれ、日本における近現代史への振る舞いで言えることではないかと思うのである。

「森を見て木を見ない」もっと突っ込んで言うなら、「森という全体だけを見て分かったような気になって、それがどのように構成されたものであるかに一切関心を向けない」ということだ。

日本での近現代史への振る舞いで問題だと思うのは、ある一つの大きな答えが先にあり、それがすべてであるかのように喧伝する風潮が強いところだ。学校教育の場でも、アカデミックの現場でも、マスメディアの論調でも、それがやたらと目立つ。歴史に対する真摯な姿勢とはとうてい思えない。ただのイデオロギーや思想教育だろうと思うのである。

近代化なら「西洋のすぐれた技術と文物を導入した成果」という大きな森、日中戦争なら「日本軍が暴走してはじめた侵略戦争」という大きな森、太平洋戦争なら「何百万人という無辜の民が犠牲になった無謀で愚かな戦争」という大きな森、軍部なら「日本を間違った戦争に向かわせた諸悪の根源」という大きな森。

それらは確かに動かしがたい歴史の事実かもしれない。重く受け止めるべき歴史の見方かもしれない。が、それがすべてなのか。それだけですべてわかったような顔をしてよいのか。それ以外の見方は一切許されないのか。そうだと言うなら思考の放棄であり、言論の自殺である。

「軍部は悪かった」というだけでは、ぼんやりと森の暗さを指摘しているだけにすぎず、軍部のことをきちんと理解してい言っているわけじゃないのだ。外側から森の印象をとやかく言うだけじゃなく、そこから茂みの奥へと入っていき、根を下ろす木の一本一本に直接触れてみる。そこにはいろんな木があって、それぞれ幹の太さや形状、枝葉の伸ばし方が異なることがわかるはず。匂いや手触り、季節に咲させる花や付ける実の種類も違う。そのように細かく観察する振る舞いこそ、歴史と向き合うということじゃないのか。

軍部について知るのであれば、大きな森から入らずそれを構成する木、つまり「人」から入ってみるのもいいだろう。歴史とは人の行動の結果である。戦争を起こした直接のきっかけが軍人だというなら、戦争を理解する前に軍人の理解から入るのが筋道でもある。

軍人といっても人間である。性格や考え方、判断や行動、生き様は一人ひとり違う。当然だ。その当然がわかっていなかったことにも気づく。軍人を一括りにして判断することがいかに危険で間違いか。大きすぎる視野では見落とすものあるのだ。

これから近現代史を勉強したい人へ。まずは思いっきり視野を狭くしてぶつかってみるのもいい。最初から全体像を理解しようと思ってもできるものじゃない。小さな視野がたくさん集まって生まれる大きな視野もあるのだから。








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