喜びの種は、満たしたり満たされるものではなく、満ちるもの 後編
このnoteは、「未開を灯す」をミッションにしている逍遥学派が、「自分自身と向き合い、新たな可能性を見つける。」ことを目的に、オンラインでインタビューや話したいテーマについて雑談を行い、記事にしたものです。
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前半では、はせさんのこれまでの人生についてとアートとの出会いについて伺ってきました。
後半では、「 Joyが満ちる場をつくっていきたい」というお話から、はせさんがこれからやっていきたいことや、今抱えている想いについて、インタビューをしている逍遥学派の大橋と福崎も含めた3人での鼎談の形で伺いました。
前半はこちら☟
話し手:はせさん
聞き手:逍遥学派
ハセランドでJoyが満ちる場をつくる
はせ:昨年は自分がおもろいと思ったことを全部やる!っていうのをやっていました。今年は、応援してくれる人も出てきたから、それを商品化して収入を得る1年かなと思っています。
具体的には、「ハセランド(仮)」というのを作ろうと思っていて、その構想をいくつか実現したいなって思っています。あと、そろそろ海外旅行に行きたいなっていうか、先週やったワークショップが英語でやったんよね、外国人と日本人に来てもらって。海外旅行に行きながら、現地マネーをゲットして、それで遊びたいみたいな野望もあったりする。
逍遥:ハセランド構想の中でこれはやらないというものはあるんですか?
はせ:例えば、完全にレクチャーする人の一方的なもの。ギブとテイクしかない関係の研修ってあるじゃないですか。知識を与えてそれをもらうっていう。それはやりたくないよね。理想的なのはインタラクティブな関係を作ったり、アイデアの交換だったり、その場がこうふわふわっと上がっていくようなイメージなんだけど。
逍遥:参加者の方と一緒に作り上げていく感覚があるんですかね。
はせ:まあそうやな、なんかできちゃったみたいな感じかな。あんまり作り上げようと思ってやると、空振りすることが多い気がするから、終わった後に、あれ、なんかできちゃってたみたいなのが最高かな。
逍遥:そういう時は何がうまくいってる時なんですか。
はせ:誰かがめっちゃ引っ張って一致団結みたいな感じで集約しているとか。その中にヒエラルキーがあるとかではなくて、個々がちゃんと独立してハッピーな状態で、それぞれが有機的に繋がってる。もにょもにょしてるって感じで、決まった形はないんだけど。適した形って、その場にしかないと思っているから、それが出来上がった時かな。
逍遥:アトリエがそういう場所だったなと思っていて、課題のテーマがあってそのテーマに向かって、みんな制作を共にしているんだけれども、絵を描いてる人もいれば、段ボールをちぎってる人がいたり、緩やかに共通の目的を共にしてるから、隣の人が自分がわからないことをやってても全然問題ない空間というか。
はせ:アトリエっていう表現はすごくぴったりかもしれませんね。お互い違う価値観だけど、違って当たり前だよねみたいなことがあって、お互い、より良いものを作ろうとしている集団ってbeingが共通してるというかね。
はせ:昨年いろんなことやったんだけど、 全部おもろかったんよね。だから何かに絞ってマネタイズするというよりかは、ハセランドを作って、そこに参加してたらなんか面白いことできるよみたいなプラットフォームを作って、情報発信だったり、イベントに参加できます、みたいなのができないかなと思ってて。
ディズニーランドも、ただビッグサンダーマウンテンに乗りたいから行ってるわけじゃないじゃん。みんな楽しみ方が違うよね。キャラクターが好きだったり、場所が好きだったり。行けば何かおもろいことがあるっていう、ジョイが満ちるっていうのをbeingにしていこうって思ってます。
ワークショップの振り返りをすると、みんな楽しかったって言ってくれるんだよね。で、楽しいってなんだと考えた時に、英語にしたらfunだよね。 でも、funって自分の外の楽しさだから、じゃあワークショップした時の「『楽しい』ってなるって何?」という問いが湧いて。『楽しい』ってenjoyとも言うなぁ、みたいな感じで、joyっていう言葉を辞書で調べたら、『①楽しい』、の次に、『②喜びの種』って書いてあったんよね。
なるほど、自分の中にある種から出てくるものなんだ、joyって。
このjoyが満ちるってことを、たくさんやっていきたいなって。
逍遥:話を聞いていて思い浮かんだのが、ユーダイモニアとヘドニアっていう哲学用語があって、ヘドニアは外から来るような楽しさで、ユーダイモニアは内側から湧き上がるような喜び、幸福みたいな意味があるんですけど、何かをやっていくことで生まれる面白さとか、好奇心が湧き上がるような面白さって、確かにfunじゃなくて、enjoyから始まってるような、joyだっていうのは感じました。
ハセランド構想の世界観ってどういうトーンなんですか?
はせ:こんな感じ。この写真、「夕日が沈んでいくのをじっと見てるっていつぶりだろう。」みたいな会話が繰り広げられるわけよ。で、なんかこの時に、自分の「好き推し拘り」の話をするんだけどね、「そうだったんだ」、「こういうの好きだったんだ」、「そういうことがおもろいと感じるんだあなたは」、みたいな話をしたり。
逍遥:なるほど!先ほどワークショップで、作ることを目指しすぎると空回りするみたいなお話もありましたけど、満たすじゃなくて、「満ちる」っていうのがぴったりな表現だな。
はせ:自分で無理やり満たしてるわけでもないし、誰かに満たされるものでもなくて、なんか、満ちちゃったみたいな感じです。
逍遥:そういう場を共有すると、相手のことを知りたいと思える気がしますね。そういうところにアートだったり本みたいなものが手助けしてくれてるのかなと。ヘドニアっていうよりは、ユーダイモニアに近い感覚もあって、みんなで場を作り上げてる感じがしますね。
私の役割は、「種を見つけること」と「その根っこを生やすこと」
逍遥:JOYが満ちるために大切にしていることはありますか?
はせ:アート思考の花。私が提供するのは、「自分自身の種を見つけることとその根っこを生やすことです」って言って、そっからどう花が咲くかはあなた達次第や、っていうとこ。だから、こんな花にしたいんですけど、それをこう作ってくれませんか。っていうのは他にお願いしてくださいねってなるかもね。
逍遥:そこはすごく大切ですね。何に対して取り組んでいくのかみたいなところが明快に書かれているから。ハセランドについて人に説明するときに困ったこととかありますか。
はせ:基本的にはあまり理解されないです。アート思考とかもっとうまく言えないのかなみたいな。あのインスタ動画が、ようやく楽しげな感じが伝わる情報手段ができたなみたいな感じにはなるけど、やっぱり体験しないとよくわからん世界じゃん。私がこうやって喋ってる感じとかを受け取らないと、何が面白いかよくわかんない。そこについてはいつもすごく頭を悩ましてます。
「なんか、楽しんじゃったな。」という利害関係のない心地よさ
はせ:胡桃堂喫茶店っていう東京にある喫茶店に行って、月に1回か2回、「朝モヤ会」っていうのをやってて、それに参加してみたんですね。 土曜日の朝9時に開催してるって聞いて、5、6人しか来てないのかなと思って行ったら、40人ぐらい来てて。店長の影山さんっていう人が、みんなの話を聞いて、それこそアトリエ感というか、ただの喫茶店なはずなのにお互いは大事にされてる感がありつつ、私はこう思うとか、意見が飛び交う時間があるんよね。誰が来るか全くわかんないんだけど、これがいろんな人がここに来る理由ってことか。みたいなのがわかったというか。カフェって世の中にいっぱいあるのに、どうしてここが流行ってんだろうって理由を知った時だったかな。
逍遥:その空間で、心地いいみたいなのを感じたのってどの瞬間ですか。
はせ:終わった時に周りの人とおしゃべりして、なんか楽しかったよねみたいな話してる時かな。なんだったんだろうこの時間。なんか楽しんじゃったなって思った時かな。
逍遥:想像を超えてきた感じだったんですね。利害関係がない人と、関わる機会が少ないっていうお話をされてたと思うんですけど、この朝会の時間もそこに紐づいてる感覚はあるんですか。
はせ:それともまたちょっと違う…でも似た感じかな。内容はなんでもいいわけじゃん。自分の中から出てくるものをシェアし合うって、しかも、そういう利害関係のない人とっていうところをまとめ上げる、 まとめてるんでもないんだけど、場作りをできるっていうのは、すげえなって思ったかな。
あと、自分が棚主さんと企画した「焚き火×本」の会をした時の雑談って、めっちゃ面白いんよ。 なんか、もったいないなこれ。せっかくこの話、もっといろんな人が聞いたらいいのにみたいな話をすることが多くって、文字に起こして写真とともにリトルプレス化して、逍遥学派にデザインしてもらってそれを売るみたいなビジネスができたら、出版社の一部としてできたら面白いよなっていうふうには思ってました。
逍遥:ぜひぜひやりましょう。焚き火の時間って本当にいい時間が流れるけど、それを録音するのも野暮なような気持ちになっちゃうことも多いかと思うんですけど、絶対記録できたらいいと思いますし。僕たちも2019年から、週2くらいで2時間雑談するみたいなのを、3年半ずっとやってたんですよね。録音してて改めて聞くと、いいなっていう風に思うというか、表面に出てきてるような成果物だったりとか、デザインされたものもいいけれど、プロセスの中にある、ある種のブレなさや考え方の変化とかも見えてきたりもするので、そういう焚き火の時間も記録できたら、参加者の方にとってもいいムーブメントが起こりそうな気がしますね。
はせ:うん。半分ぐらいでも文字に起こして届けたいというか、その時の感情がまだちょっとくすぶってる時に、文字として返ってきたら、その人のものとして生き生きするかなと思ったりして。
みんなをアートの一部に引き込みたい
逍遥:ワークショップはどれくらい準備をするんですか?
はせ:だいたい直前に考えるんですよね。服を切るワークショップのやつも前日に思いついたりして。なんか、そういう献立を考えるのが面白いなって、常に考えてるというか。あと、インスタのリール作成みたいなのも、CANVAでずっと作ってるんだけど、作ること自体は好きだから、あー時間が経っちゃったなっていう。
逍遥:こういうふうに感じてほしいみたいなものを意識してシェアするんですか。それとも自分が感動した熱を届けるみたいなイメージですか。
はせ:「やば。」みたいなのを、同じように感じてほしい。まあ置いてけぼりにすることもあるんですけど、何回かやってたら、面白いねってなることがあるから、 同じ熱量で話すようにしてます。
はせ:「無言の前衛」という本で、千利休が出てきて、侘び寂びとか物静かな人っていうイメージがあったんだけど、 めちゃくちゃロックなんよねやってることが。最後、殺されるぐらいまでロックというか。あの切腹を命じる秀吉のダサいやり方に対しても、マジでダサいからなんもわかってへんやん。こういうのをイケてるっていうねんっていう、その示し方がもうえぐすぎるし、日本人の美意識とか、美的感覚みたいなもんが気高いし、崇高なものだなって、改めて気付かされて。みんな尖ってるよなって。
対話型アート鑑賞でも外国人を混ぜてやった時は、1600年ぐらいの西洋の絵と日本の絵を見比べるんよ、全然違うよね、みたいなんで、森林の絵をとってみても、日本の絵は、白い屏風に松が5本ぐらいしか書いてない。でも、その時のヨーロッパの絵って、まさに写真みたいに詳しく森が描かれていたりする。どっちがより、あなたが思う森林が描かれていますか?みたいな話をしてると、松林の奥に何かが見えますとか言ってくるんよ。「やっぱりこの余白の部分の奥には、モヤがかかってて、向こうにはマツバヤシが奥にたくさんあると思います」とかね、人の想像力が保管していくものっていう、日本人、日本美術の面白さがあるよね、みたいな話とか。
「大はしあたけの夕立」って、歌川広重の作品があって。同年代の、パリの雨の日を描いてるんのも、全く同じように見せるんだけど、 片や、歌川広重の方は影もないし、パースも狂ってるんだけど、1番やばいんが、雨が『黒い線』で描かれてる、でも同じ時代のヨーロッパの絵って、水は透明だし、雨自体は描かれてない。傘とか濡れた地面とかは描いてるんだけど。で、「どっちの絵が雨らしい絵だな、と思います?」って訊ねると、「雨が強いのは、この広重の絵だよな」って意見が出るんだけど、「じゃあ『黒い雨』って見たことありますか?」「 あ、ないわ。」みたいな。こんな感じで、わちゃわちゃしてます。
フルパワーで挑んだワークショップで見えたもの
はせ:Campsでやったワークショップがすごくはまったかなっていう。だんだん、参加者の「こいつ何言ってるんだ?」っていう顔が、「おお、マジでおもろいやんけ。」って変わっていく様子が2時間でわかったから。そういうことかみたいなんが、感じとってくれたら、めっちゃ嬉しいなっていう風には思うかなあと。棚主会とかそういう交流が進んで、普段なら絶対に出会わないだろうなっていう人が会って、仲良くなるとか見ると幸せだなって。
逍遥:Campsのワークショップは普段と一緒のことをされてたのか、違った要素があったのかっていうところで言うといかがでしたか。
はせ:自分の持ってるリソースを全部出さないとできないワークショップだったんですね。外国人も来てOKで、それに対して対話型で鑑賞することで、全員をアートの一部にしたかったから、皆さんを作品の担い手にさせる。 まあ、アートを選んで実行してみるっていうのが、実験的に全部をやるのは初めてだったから、フルパワーでやりきったっていう感じ。
逍遥:アートの知識と、ファシリテーションと、語学と、ある種ショーみたいなところも含めて、よくよく聞いてると、すごさが分かってきたというか。自分たちだと持っているものを全部繋げて上手く使いきれないっていうか。
コメディアン要素がありますね。あと未知の扉を開く感じで。参加者としては「とんでもないところに来ちゃったぞ」みたいな。
はせ:国際交流だから、1600年とか1700年代の森の絵とか、日本とフランスで違ったりするのよね。 浮世絵があったり、ピカソの絵があったり、でもお互い影響しあってて、ゴッホとかが日本のジャポニズムと、あの当時のフランスの絵を合体させたような絵を描いたりとかして、 みたいなのをみんなに紹介したら、「やば。」みたいになって。この服着てるのは、オノ・ヨーコさんの作品のサンプリングなんよね。彼女は、1960年代に美術館に座って、「Cut Piece」って言ってね、みんなに服を切って持って帰ってもらうっていうような パフォーマンスを行ったんだけど、それを見せて、「皆さんの切りたいものって何ですか?」って言って、このシャツに単語を書いてもらって、なんか、会社とか、いらない縁とか、割とそういう。
逍遥:めちゃめちゃ、現代アート的じゃないですか。
はせ:うん、ある種の社会性帯びてるっていうか、単語が。じゃあ切っていきましょうみたいな。やっぱみんな「やばっ」てなるよね。芸術作品ってこういうことかって。美術館に行って見るものだけじゃないんだって思ってくれたみたい。
自分の中にあるものというか、芸術的なものっていうか、アートの種とか、思考の問題っていうのは、美術館に行って並んでる絵を見ることではない。ていうので、なんとかみんなをアートの一部に引き込みたくて、そういうワークショップをやりましたね。
逍遥:なんか、美術館に行くと、感賞者と作品っていう構造でしか見れなくなってしまう感覚が強いから、 自分が内部にいる感覚っていうのが持てないっていうか。
はせ:そういう意味では自分は翻訳者かもね。芸術がなぜおもろいかみたいなことを、あなたにわかるやり方でお伝えしますみたいな。
逍遥:映像見させていただいてて、国境を越えられるっていうか。むしろその違いとか、そこに影響を受けた人たちを知るとか、バックグラウンドが違うからこそ、多分感想も変わってくると思うんですけど、でもなんかみんながそこに乗りながら体感していけるってめちゃめちゃ素敵だなと思いますね。
アナログを大切にしつつ、自分の残像があるような仕組みを作りたい
はせ:youtubeとかやっていこうかなとは思ってるんですけど、万人にわかられても嫌かなっていうのもちょっとあったり。やっぱり分かる人は分かるみたいなものがいいじゃん。
イメージとしては、駅前路上ライブみたいな感じでやるぐらいのアナログ感なんかなとも思ってる。
この前は、たまたまCampsでやったんだけど、Campsはあの場所に興味がある人が来ているから、「snsは全くやってないんですけどCampsから情報仕入れてきました」っていう人も何人かいて。そうだよなと思って、実はsnsの分母ってそんなに多くないのかなと思う。
逍遥:はせさんが作るアート思考のワークショップとか、プログラムのエッセンスが取り入れられてるものが、例えばCampsに置いてあって体験できると面白いなあと思いました。ついでにワークの感想とか残せたりすると、ハセさんがいなくてもインタラクティブな場になりそうな気がします。
もしくは、アート思考のワークショップで作ったものが展示されている展覧会は見てみたいです。に展示の仕方によっては、はせさんの残像が残るかもしれない。例えば、「Cut Piece」をテーマにしたワークで出来た服を額装するとか。
はせ:そう、私がいないとインタラクティブってすげえ難しいんですよね。だから、自分の残像がちょっとでも残るような何かがあればいいなとは思っているけどね。
インタビュー・編集:逍遥学派
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