観光とは、国の「光を観る」こと
ー観光とは、国の「光を観る」ことであるー
これは、昔お世話になった方から教わった。
調べてみると、中国の古典の『易経(周易)』に
「六四 観国之光 利用賓于王(国の光を観る もって王に賓たるに利し[よろし])という文があるらしく、それが語源ではないかという説がある。
なんと含蓄のある言葉だと、胸に迫るものがあった。
ではこの「光」とは何を指すのだろう。
京都の今日この頃
私は「観光地」といえば思い出していただけるような観光都市、
京都に生まれ育った。
街自体に歴史があり、文化に即座にアクセスできる。
様々な分野の方が、観光したくなるポテンシャルのある場。
だからなのか、京都の人は、京都という街と自己との距離が近いように思う。それを巷で郷土愛というのかもしれないが、そのノスタルジックな感覚よりももっと「当事者意識」がある人が多いのだ。
2020年から3年間、新型コロナウイルスの影響で、
京都の名所といえる名所から、人が消えた。
だれも居ない伏見稲荷の千本鳥居、上賀茂神社、八坂神社。
東山の五重の塔も独り占めができた。
そして、3年後に、コロナが収束し、
国内旅行者だけでなく、海外旅行者も増えてきた今日この頃。
私たち個人も、リトリートもワーケーションなど、居場所が自由になったここ数年でもあった。
先日7月は、他府県や海外から友人がたくさん訪問してくれて、
伏見稲荷や鞍馬寺に行く機会があった。
ある日の友人とは、鞍馬と迷ったあげく、伏見稲荷に出かけた。
数年ぶりに降り立つと賑わっていた頃と同じく、
千本鳥居をバエるように写そうとする人で賑わう。
テーマパーク感のある『ザ日本』な風景。
千本鳥居をすこし登ると、鳥居のない道が続いている。
自然と「お邪魔します」という言葉が口から漏れる。
そこから数分歩くと、空気が代わり、神宝神社(かんだからじんじゃ)という神社に着いた。創祀は、平安期。天照大御神を主祭に祀られ、名前の由来となった十種の神宝(沖津鏡、辺津鏡 、八握剣、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼)が御守として奉安されているとのこと。末社として、八大龍王も祀ってあった。
普段は下の本堂がどれだけ混み合っていても、人の少ない静かな神社らしいが、その日は、土用の日で鎮魂大祭をしていて、たくさんの老若男女がお参りをしていた。
部外者は入れなさそうなので、お邪魔します、と手を合わせるだけで、その先の竹林へ向かう。
さらに空気が変わり、もはやここがあの賑わっている千本鳥居のある
伏見稲荷だったなんて、考えられないくらい、静かで神聖な雰囲気。
そのあたりを気の向くままに散策し、いくつかの祠をお参りさせていただいて、また鳥居のある下界へ戻ってきた。
私たちが旅で出会う光
私たちは、旅にでて何に出会うのだろうか、と想像する。
そこに住まう人々。その人たちの食文化。笑顔やエネルギー。
そしてそこに人が集うために作られた様々なもの。
それは居酒屋でもあるし、百貨店や、テーマパークでもある。
動植物たち。天然記念物。自然。
そして、ひっそりとそこにある、
その土地をまもる氏神さまや、神社、寺。
その場を作ってきた神聖な精霊たちでもある。
ふと手を合わせて「お邪魔します」と言いたくなるような
その気配。
光とは、
その場が発展した「栄光」でもあるだろうし、
「復興」かもしれない。
そこに住む人たちの文化や精神性でもあるのだなと、
思う。
栄光とは人の望みだ。
そういう「欲」が街をつくってきたし、生命エネルギーになってきた。
そこに人々の笑顔があった。
改めて、『国の光』を観に行くとはどういうことなのだろう。
私の店は、銀閣寺から5分くらいの場所に位置する。
いつも観光客で賑わうような場所だ。
そこには、昔ながらのお蕎麦屋さんやうどん屋さん、
観光客向けのソフトクリーム屋さん。
長く住まわれている地主の方々。文化的な場所。
一人で運営している個性のある店。
その店の裏側にある人間の気配。
切り盛りする店主。店主の家族たち。
そして大文字の送り火で知られる如意ヶ嶽。
その麓にある、八神社。神様の気配。
そっとそこにある。
見えないものも見えるものも含めて、
そこに、ずっと在り続けてきたもの。
それこそが、「光」なのではないか、と思う。
だから、私たちは、昔からある光を思い出し、尊重し、
そして、光を共に創りつづけなければならない。
リトリートもワーケーションも、きっと同じ。
あなたは、そこに降りたち、何をみたか。
いつもいる場から抜け出し、新しい場の光を自分にインストールする。
そうすることによって、自己が拡張していく。
みなさんの故郷の「光」とはなんだろう?
世界中のそれを、私はこれから見にいきたいなあと思う。
そして、私の持つ場の「光」を探したいし
それを一緒に見てくれる人をこれから募集する。
ということで、沖縄の久高島に改めて行きたくなった。
今行ったとして、あの島に受け入れてもらえるのだろうか。
いささか不安ではあるが、それも含めて楽しみである。
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