小説 ケア・ドリフト⑨
「どういうことですか?ちゃんと説明してください」
丹野や若菜など施設に勤める職員たちは施設長に詰め寄っていた。その先頭に立っていたのは、国本看護主任と東野介護主任である。
「だから、落ち着いてください。ちゃんと説明しますから」
「だったら、詳しく説明してくださいよ。全員の給料を二割削減するってどういうことですか!」
丹野はこのところ頭痛がひどく、半分程度の理解で話を聞いていた。結衣のお見合いの件があって、断るまでやきもきしていたこともあった。そのせいだと思うが、お見合いが終わってからも解消の兆しは見当たらなかった。特に夜勤明けに急に呼び出されたので、尚更理解が進まなかった。給料の二割削減、重大な問題のはずなのだが、他人事のように思えてくる。
どうやら、施設長は理事長に呼び出されたようで、そこで給料削減の話が持ち出されたというのだ。何故、給料削減の話が出てきたのかと聞くと、葛西への虐待事案の和解案として、これまで払った施設利用料を返還し、更に示談金を支払うことで、決着させようとしていることが影響しいていると施設長は話した。
「何で、関係のない私たちまで巻き込まれなきゃいけないんですか?」
「どうして和解金が給料を削って、出されなきゃいけないんだ?」
疑問や怒りの声があちこちから上がる。施設長は
「私だって、抵抗しなかったわけじゃない。怒りを覚えたよ。だけど、理事長はこうも言ったよ。『この状況が生まれたのは、社内環境にも問題があるんじゃないかな』ってね。そう言われると、こっちとしてはぐうの音も出なくなる。この気持ちも分かってくれないか」
と目を赤くして言った。それでも、抗議の声が鳴りやむことはなかった。施設長はそれらの声に押されるように、
「分かった。後日改めて、理事長に会って、再考してもらえないか、頼んでみる」
と言った。
「それなら、今すぐ理事長にアポを取ってください!」
若菜が声を上げる。彼女の顔は紅潮していた。理事長に電話をかけると、どうやら秘書が電話に出たようで、本人が不在であることを告げられたらしい。
「アポイントメントは必ず取りますから。今日はここまでです」
施設長に詰め寄っていた職員は全員、事務室から追い出されていった。
頭痛の中、丹野はタバコを吸うために喫煙室に入っていった。電子タバコを取り出し、スイッチを押す。ここしばらく、タバコを吸うことがなかったので、むせかえってしまった。それから、何度も吸ってみたが、うまいと感じることはない。結局、電子タバコはポケットにしまうことにした。そこへ今村が声を掛けた。
「まったくひどいこと宣告してくるね、あの施設長」
「ああ、うちのユニットの職員のせいで、皆が迷惑を受けようとしているなんて、やりきれないよ。申し訳ない気持ちでいっぱいだ」
怒りを通り越して、あきれたといった風の今村の言葉に対して、丹野は申し訳ないという思いを全面に押し出そうとする。
「青嶋君はクビになったのにね。示談金なんて理事長のポケットマネーから出せばいいんだ。上は職員に対して責任を取るという気持ちがないんじゃないの?保身ばっかりでさ」
「そうだって威勢よく言いたいところだけど、今回はうちのユニットの職員がやったことだから、そうもいかないよ」
今村は吸っていたタバコを携帯用灰皿に押しつぶし、スマホに目をやった。タバコの煙と微かに残るメンソールの香りに丹野の頭痛はますますひどくなりそうだったが、「タバコをやめてほしい」とも言えず、ただただ耐えるしかなかった。
「そうだ。私、もうすぐここ辞めるんだ。もう退職願も提出してきたし、来月の締日いっぱいまでだね」
「えっ、そうなんですか。なんで今まで教えてくれなかったんですか?もしかして、ハブられてた?」
動揺して、敬語をすっ飛ばしてしまうくらいの衝撃があった。
「そんなんじゃないけど、一年くらい前から転職を考えてて、あんまり早くから言っちゃうと変な目で見られるから、困るかなっていうだけの話。悪い意味じゃないからね」
「それはそうなんだろうけど、次の仕事は決まってるの?」
「次の仕事は決まってるよ。保険の営業」
淡々と話す今村に、全身から安堵感を感じずにはいられなかった。今村は、丹野の持つ頭痛を気にせず、タバコを取り出し、火を付ける。
「いつの間に、決めたの?夜勤もフルにあって、家事もして、いつ就活する時間があったの?」
丹野はいつの間にか質問を重ねていた。まるで、鉱石か何かを見つけて興味津々な子どもみたいであった。
「友達の紹介よ。保険の営業も人手が不足していて、募集かけても人が集まらないんだって。あんたも辞めるんだったら、紹介してあげるわよ」
丹野は少しドキッとした。自分のことを見透かされているようで、今村に対して警戒心を抱いた。
「ところで、あんたはどうするの?この調子だと、何人も退職者が出るわよ。早くしないと置いてきぼりを食らうに違いないよ」
「俺は慎重に考えたいっすね。勢いで辞めても、その後、職がなかったら、意味ないと思ってますし」
喫煙室の外は日が傾いてきて、室内にも日の光が差し込んできた。喫煙室は暑く、窓を開けていても風は入ってこない。そんな中でも、二人は喫煙室を出ようとしなかった。
「あんたは慎重すぎる。このままここに残っても、一人の仕事量が増えていって、ドミノ式に潰れていくだけじゃないかな。そうは思わない?そそのかすわけじゃないけど」
丹野の頭痛はますますひどくなってきて、我慢も限界になってきた。
「うーん、また考えとく。今日はもう帰るわ」
そう言って喫煙室を後にした。喫煙室を出た瞬間に、体中から汗が流れ落ちてきた。汗まみれになった顔に風が当たり、少しだけ涼感を得られた。
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