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小説 ありふれた罠②

 妻が出て行ってから、4日が過ぎた。そのうち、帰ってくるだろうと高を括っていたが、どうやらそういうことでもないらしい。本当に1週間帰ってこないのだろうか?そんなことを考えていると、携帯の着信音が鳴った。ディスプレイには義父の名前が表示されている。

「もしもし、大輔君か?」
「もしもし、はいそうです。すみません、美咲がお世話になってます」
「いやいや、いいんだよ。それよりも今度の土曜日は空いてるかな?」

義父はワントーン下げて、ヒソヒソ話をするように話した。

「はい、空いてますが」
「そうか、実は美咲を連れて、そちらに行こうと思っているんだが。まあ、君にも思うところがあるだろうから、話を聞こうと思ってな」

 妻はともかくとして、義父、あるいは義母もついてくる。彼らは妻を溺愛していて、もし何かあったら少々厄介だと思った。

 義父が以前から冗談交じりに
「美咲を泣かせるようなことがあったら、ただじゃ済まないぞ、ハハハ」
と話していたのを思い出した。とはいえ、俺には妻を泣かせるような要素は思い浮かばない。確かにキツく当たったこともあるが、むしろ、ちょっとしたことを指摘すると、こっちがいつも反撃に遭い、泣かされそうになるくらいだ。そう思いながら、

「分かりました、今度の土曜日ですね」

と義父の最後の声を聞いて、電話を切った。そして、多少散らかった部屋を眺めて、呆然とした。
「片付けなきゃな」
と呟いて、今度は窓の外に目をやった。やたらと大きな満月が浮かんでいた。


 土曜日はあっという間にやってきた。義父からの電話でなし崩し的に話し合いの場が持たれることになってから、2日。

 俺は食欲が落ち、眠りも浅くなった。その証拠に、夜中に起きるようになってしまった。部屋は、早朝に起きてから急いでゴミ袋を広げて、ありとあらゆるゴミを取り除いてある。さらに、掃除機もかけた。また客用のコーヒーカップを棚の奥から取り出して、洗っておいた。準備は万端である。

 万端なはずなのだが、俺の心中は穏やかではなかった。何しろ、実家に帰った妻の親が我が家にやってくるのである。小さな城に数百万の兵士が襲いかかるようなものだと、虚しくひとりで例えて呟いた。


 落ち着かない午前中を過ごし、約束の1時になった。部屋のチャイムが鳴ったのは、それから10分ばかり過ぎた頃だった。

 ドアを開けると、義父と義母がいて、その後ろに隠れるように妻が付いてきている。

「やあ、こんにちは」
「こんにちは、お待ちしていました」
その会話が空虚に聞こえる。向こうは内心、こちらに向けて火花を散らしているのだろうか。

「では、早速上がらせてもらいますよ」
と義父が言うと、義父と義母が妻を連れてズカズカと家の中に入っていく。それからしばらく沈黙が流れた。とても気まずく、体が鉛のように重く感じられた。

 妻が
「私が準備するわ」
と言ってくれたが、断っておいた。とにかく早く湯を沸かして、コーヒーを入れたかった。そうしないと、気持ちが折れそうだ。妻はずっと落ち着かず、キョロキョロしているが、俺の方に目を合わせなかった。

「大輔君、早速なんだが、君と美咲の間に何があったんだ?」
義父が鋭い眼光を放つ。俺は怖じけずかないように息を一つ吐いた。
「何がと言いますと…」
「いや、難しく考えなくていい。怒ってるわけじゃないんだ。この子が君と上手くやっていけないって言うから気になってな」

 怒っているわけじゃない…言葉とは裏腹にその表情は硬く、般若の面に限りなく近いように見えた。

「美咲がそう言ってるんですか?だとしたら、お恥ずかしい限りです。彼女を幸せにするって約束したのに」
「まあ、そう自分を責めずに」
「この子にも行き過ぎたところがあるかもしれないからね」

 今まで黙っていた義母もようやく会話に参加した。地蔵のように見えた義母の顔に生気が戻った。
「いや、僕が悪いんです。僕が未熟だから、こんな風に彼女を困らせる」

 俺は棚から、いざという時のために用意していた物を出した。それは大判の封筒に入っていて、緑色で印刷された申請用紙。離婚届だ。

「それは何だ。そんな物しまいなさい」
義父が動揺を見せる。
「そうよ、まだ早いわよ」
義母も甲高い声を上げて、慌てている。
「いえ、これが僕の考えた責任の取り方です。彼女を泣かせてしまって申し訳ありませんでした」
俺はほぼ反射で土下座をした。

「おい、こんな責任の取り方があるか。むしろ無責任だぞ。頭を上げなさい」
「ダメです。僕にとって美咲は不釣り合いなんです」
瞬間に涙が出てきた。視界が海に潜った時のようにグニャっと歪む。

「いいから、頭を上げろ」
義父と義母が俺の手から、離婚届を奪おうとする。取られまいとして、俺も必死になって離婚届を掴む。そういった小競り合いが2、3分続き、
「やめてよ!」
と妻が叫んだ。

「もういいから。私、大輔と一緒に生きていくから。ずっと一緒にいたいから、喧嘩はやめてよ」

 そう言うと、妻は離婚届を取り上げて、その場で破り捨てた。そして、蹲り嗚咽を漏らした。義母も声を上げて泣き出した。俺は動揺し、
「それでいいのか?俺なんかと一緒でいいのか?」と繰り返し問う。
「それでいいよ。本当は、私がいないとダメなんでしょ?強がらなくていいよ」
俺はほぼ反射的に「うん」と答えた。


 そこから先は、動く気力を削がれた人間が4人呆然と立ち尽くす状態が続いた。そうしているうちに、いつの間にか日が傾き始めていた。義父は
「そろそろ帰ろうか。美咲、お前もだ」
と言ったが、妻は
「私、今日はここに泊まってくわ。大輔に今までのお詫びしないといけないからね」
と言った。今日はマンションに泊まることになったようだ。実家に置いてある荷物は明日、取りに行くらしい。

 義父母が帰ると、
「お義父さんとお義母さんに悪いことしちゃったな」
「いいの、またお詫びに実家に行けばいいし」
「それもそうだな」
そう言い合い、俺と妻は抱き合った。

これで美咲は俺の物だ。そう思うとニヤケを堪えることができなかった。


抱き合った後、私は激しい後悔に襲われた。また同じ手に引っかかってしまった。もう何度目だろうか?
「部屋片付けないとね」
と言い、夫から離れると片付けをしながら、「チッ」とまた舌打ちをした。直さなきゃいけない癖なのに。

#小説 #短編小説 #モラハラ #夫婦関係  

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