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小説 ムジカ~合唱②

「声出し終わったら、次はパート練習」
と武藤が言うと、後輩たちがコピーした楽譜を八枚に渡って床に置いた。床から楽譜を取っていき、テノール、バリトン、バスといった三つのパートごとに散らばっていく。
「はて、自分のパートは何だったかな?」
と考えているうちに、バリトンのパートから手招きされ、そのままバリトンで歌うことになった。後で思い出した、私はバリトンだったのである。

 曲は昔、男声合唱をやった時に歌ったことのある曲だったので、思い出す作業をするだけだったのだが、上手く曲に集中できない。気があっちこっちに向いてしまう。そのせいか、曲をはっきりと思い出せないままに、パート練習が終わってしまった。

 一二時まで残り三〇分となったので、曲を合わせて、アンサンブル練習をしようということになった。「斎太郎節(さいたらぶし)」という宮城県の民謡を合唱向けにアレンジした曲だ。始めの音をキーボードで弾き、確認する。
「エンヤァー、エェ、エェエンヤァー」
この第一声から始まって曲は進む。指揮をするのは武藤。心地よく声を張り上げたので、分からないなりに気持ちよく歌い切れた。

 武藤も
「正直言って、久しぶりに歌ってここまでできるとは思ってなかったよ」
と驚きの顔を見せた。しかし、
「でも声を張り上げるだけじゃ駄目だ。それじゃ、自分たちが気持ちいいだけ。フォルテ一辺倒じゃなくて、表現を楽譜に忠実にやらなくちゃ」
と指摘も忘れなかった。一同、恐れ入ったという様子で辺りを見回す。すると、黒瀬が先陣を切って、
「はい、分かりました」
と言い、他のメンバーもそれに追随した。黒瀬は私に
「な、たまには歌うのもいいだろ?」
と囁いてくれたが、少々戸惑いつつ、
「うん、そうだな」
と返すのが、私の精一杯だった。

 わずかな練習時間であったが白熱した午前の練習が終了し、一旦外へ出て昼食を食べようということになった。疲れてへたり込んでいると、梓が私のところへやってきて、
「ちょっと話があるんだけど」
と話し掛けてきた。
「どうした?」
「最近、辛いことなかった?」

突然、梓に言われたので驚いた。何故、見抜かれたのか分からなかったが、場所を変えて、これまでの経緯を話した。
「やっぱり辛いことを抱えてたんだ。今日の様子を見ていても、ボーっとして虚ろで、集中力も散漫みたいに見えたからね。タナケンは昔から我慢強い性格だから、誰にも言えなかったんだね」
そういえば梓は会社勤めを突然辞めて、看護学校に入り直したのだったと今になって思い出した。看護師になった彼女は精神科の病院に勤務しているらしい。

 さらに梓は続ける。
「今すぐ、心療内科にかかって、診てもらって。そうしないと取り返しのつかないことになるから」
脅されたような気分になる。でも、取り返しがつかなくなる前に医者に診てもらおうと素直に思った。今までの異変はこれまでにないものだと感じていたからだ。

 昼食を摂っている時も、その後の練習でも気持ちは上の空で、食堂でコップを倒してしまったり、練習中に楽譜を逆さまに持ったりしてしまった。
「そこ、もっとピアノにして」
「伸ばすところの和音がずれてるよ」
武藤は次々と指示を出したり、注意を与えたりしている。少しずつ音楽が良くなってきたように感じたが、私にとっては小さなことに過ぎなかった。それでも、最後に曲を合わせる時にはハーモニーも良くなった。

 そうやって、初めての練習は雰囲気良く終わっていった。だが、私の頭の中では梓の言ったことがぐるぐるとしている。心療内科クリニックの受診、頭の片隅に選択肢として置いてあったが、極めて小さいものだった。その可能性が大きく膨れ上がってきたのである。動揺は大きかった。

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