小説 ケア・ドリフト⑥
休憩中に、葛西が入院するとの知らせが入った。ちょうど、丹野と一緒に休憩していた東野介護主任の携帯電話に連絡が入ってきたのだ。東野はどうにも不機嫌で、常にムスッとしながら食事を摂っていた。急いで食事を済ませて、喫煙所に逃げ込もうと丹野が画策していたところで電話がかかってきたのだ。
「葛西さん、入院するんだって。家族さんが必要な荷物を取りに来られるから、対応よろしくね」
電話を終えると、東野はそういい残し、休憩室から出ていった。東野の醸し出す雰囲気からはピリピリ感と疲労感とが感じられるのだった。
喫煙所に向かった丹野は、遅番の職員と他愛もない話で盛り上がった。女性の職員が多いからか、大抵は他の職員の陰口だったり、芸能人のゴシップだったりするわけなのだが。そんな中でも、丹野はタバコを吸うことに陰鬱な思いを抱くようになった。それは最近の禁煙ファシズムのような、世間の圧力に屈している訳ではない。電子タバコを吸ううちに、ある種の気持ち悪さを覚えるようになった。結局、一本も満足に吸うことができず、途中でタバコを消した。
休憩が終わり仕事に戻ると、すぐに葛西の家族がユニットにやってきた。何か文句を言われるのではと、丹野も君子も警戒し、慎重に対応した。本当は施設長とか、介護主任が対応して然るべきではないのか、そういう思いを抱きながら。
「本当にすみませんでした」
丹野はそう言うのが精いっぱいだった。頭を上げることも叶わなかった。
「いえ、頭を上げてください」
恐る恐る頭を上げた丹野は少し油断をしていたのかもしれない。その後、丹野に向かって、葛西の家族は
「あなたが謝っても、何にもなりませんから」
と言い放った。そう言うと、再び頭を下げる丹野を無視するように、入院に必要な荷物をまとめていった。ユニットを去っていく時も、全く無言のままであった。
家族からしたら、当然の仕打ちなのかもしれない。丹野は自分の親を傷つけた施設の職員なのだ。憎んでも憎み切れないことだろう。入居者の就寝準備を終え、君子も帰って、一人になった丹野はそのような考えが頭を巡った。眠前薬を飲ませたり、排泄介助を行ったりしている時は、青嶋のことを考えずに済んだから、いつもは面倒に思っていることでも、気が紛れるような気がした。眠前薬を飲ませに行ったら、入居者の女性に
「兄ちゃん、いつもと違うよ。考え事してるんじゃないの?」
と勘付かれそうになったので、慌てて取り繕って、
「そんなことない。いつもと変わらないよ」
とたじろぎながら言ったこともあった。あまりにも、冗談もなく否定したので、その入居者はきっと怪しんでいたのかもしれないが。
こんな時にこそ、青嶋と話がしたい。何があったのか、どうして暴力沙汰を起こしたのか、知りたかった。物事の真相に迫り、彼を裁きたいわけではない。ただ単に興味があって、必要があれば彼を守ってやれると勘案してのことだった。仕事が終わってから、メールを打とうと思い、終業時間が過ぎるのを待った。トイレの掃除をして、ごみを集め、明日の朝食の準備を行った。その間も、青嶋のことが頭から離れなかった。仕事は正直言って、できる方ではなかったかもしれない。しかし百歩譲っても、入居者を傷つけるような人ではないはずだ。確固とした根拠はない。ただ、これまで人を傷つけるような言動を職員の前でも発したことはなかった。ましてや、入居者の前でそのようなことをするとは、とても思えなかった。
そんなことを一人で堂々巡りに考えていたら、夜勤の児玉若菜が出勤してきた。
「お疲れ様です。どうしたんですか?顔怖いですよ」
若菜にそう言われると、丹野は驚いたように洗面台の鏡を見た。
「お疲れ様。あっ、ホントだ。顔が怖い」
(笑)と付けたくなるような丹野の台詞だった。今までの張り裂けるほどの緊張感が一気に萎んでいくようだった。
「ほら、リラックスして。顔のマッサージをしないといけませんよ」
そういうと若菜は、ペンを取り出して、棚にカバンを置いた。そうして、丹野から一通り申し送りを聞いた。もちろん、葛西の入院のことも。
「葛西さん、かわいそうですね。こんな言い方するのは抵抗あるけど」
と抵抗なさげに若菜が言うと、
「確かにかわいそうだ。葛西さんの入院は家族さんの意向らしいよ。本当は入院しなくても十分治療できるらしい。そりゃこんなところには帰りたくはないだろうからね。俺でもそうしてるよ」
と丹野も思いの丈をぶちまけた。
「それにしても、青嶋さんは最悪ですよ。使えないと思ってたけど、ここまで迷惑かけてフェードアウトってなくないですか?私、すっごいムカついてるんですけど」
「そうだな、あれだけ迷惑かけて、入居者にケガまで負わせてしまったからな。解雇もありうるんじゃないか」
「”カイコ”ってクビってことですよね。ぶっちゃけ、そうしてもらった方が嬉しいくらいです」
会話から、若菜が青嶋のことを目の上のたん瘤のように思っていたのがありありと伝わってくる。それから、一五分ほど若菜と話し込み、ユニットを後にした。
着替えてから、喫煙室に寄って、青嶋にメールを打つことにした。普段、青嶋とは付き合いがないので、後輩とは言え、年上の人にメールを打つのに文面をどうするか、悩んだ。青嶋は人付き合いがいいとは言えない。よく言えば、仕事とプライベートを分けているとも言えるが、裏を返せば、職場の人間で友達がいないということになる。丹野も電話番号は知っているが、ラインまでは交換していなかった。そのせいで、字数に制限のあるメールしか打てない。考えて、結局三〇分かけてメールの本文を作り、送信した。職場を去るころには、夜の一〇時を回っていた。
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