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もう10年くらい前になりますが、「プリンセス トヨトミ」という映画がありました。大阪が実は「大阪国」という「国」で、そこに豊臣秀吉の末裔が(自分がそうとは知らずに)生き延びていて、その子を大阪のみんなが連綿と守ってきている・・・的なストーリーでした。

今日はその映画の話をするわけではなく、豊臣秀吉の血筋は本当に途絶えてしまったのか、という話です。

史実では、「断絶」ということになってます。

豊臣秀吉は、無精子症に近い状態であったのではないかと言われています。
無類の女好きで、側室は多数いましたが、子をなしたのは長浜時代に一人だけいて、石松丸と言いましたが、五歳で亡くなりました。
その他記録に残っているのは、淀殿との子が二人だけ。そのうちの一人は鶴松と言いましたが、やはり早逝しています(三歳没)。成人した子どもは、後の豊臣秀頼だけということになります。

この豊臣秀頼という人物、高身長でたいへん利発、カリスマ性もあり、会見した徳川家康は「こいつを生かしとくとやばいかもしれんわ」と思ったそうです。

その秀頼には、側室との間に男の子(国松)と女の子(名は不詳)がいました。かの有名な大坂冬の陣→大坂夏の陣で大坂城落城時、国松は八歳でしたが、落ち延びて潜伏していたところを捕まり処刑されました。
女の子は、尼になるという条件で許され、縁切寺として有名な極めて格式の高い尼寺であった「鎌倉東慶寺」の住職・天秀尼として生涯を終えます。正保2年(1645年)、大坂城落城から30年後のことです。豊臣の血筋はこれで途絶えたことになります。

徳川方に国松を識別できる者がいなかったという事実。

秀頼の子の国松は、大坂城落城後、市中に潜伏していたところを探し出されて処刑されたのですが、それは別人だったという説があります。

国松は、側室の子、いわゆる妾腹でしたので、正室・千姫に遠慮して、普段はそもそも大阪城内では育てられていなかったこともあって、追手である徳川方には国松を識別できる者が誰一人いませんでした。
そこで、国松と仲の良かった子どもを使って、本人確認をしたと言われています。ということは「仲の良かった子ども」が国松をかばって嘘をつく可能性は十分にあり得たということになります。その子は「国松がどういう子であったか」を十分に理解していたはずですし…。

その時大坂城にいた国松が脱出したとされる時期から発見されるまで、かなりの時間を要したと言われています。なおかつほとんど人相を知られていないという条件も加味すれば、逃げ延びたと言う説もあながち荒唐無稽な話とは思えません。

木下家の、とある一子相伝の言い伝え。

秀吉の正妻・北政所(ねね)の兄であった木下家定の三男・木下延俊を初代とする豊後(大分県)日出藩・木下家の19代当主・木下崇俊氏による「国松生存説」があります。

木下家には「国松は薩摩に落ち延びた」という一子相伝の言い伝えがあります。
「木下延俊が大坂の陣の際に陣取っていた備中島には、大坂城につながる抜け道があり、それを使って国松は真田信繁の子・真田幸昌とともに逃げ、薩摩藩の船で薩摩の伊集院へ落ち延びた後、日出藩に身を寄せ、延俊の死後、領地五千石を分け与えられて立石藩主・木下延由となった」のだそうです。

位牌に刻まれた意味深な二文字。

この木下延由の位牌には「木下縫殿助豊臣延由」と刻んであります。「羽柴」の姓さえも幕府が嫌い、後に禁じたほどの時代背景を考えると、わざわざあえて「豊臣」と記述したことに相当の「意味」や「含み」を感じます。もしことことが幕府に知られたら、たったこのことだけでも藩はお取り潰しとなったはずです。そのくらいのことを、わざわざしたわけです。

立石藩主・木下延由の子孫は「豊臣」に改姓。

立石藩主・木下延由の子孫は、徳川の時代が幕を引いた明治維新後に姓を「豊臣」と改め、現在も豊臣姓を名乗ってらっしゃるそうです。

豊臣家が滅亡後、高台院(かつての秀吉の正室・ねね)は、徳川家康の許可を得て実兄の木下利房の孫の利次を養子として迎え、豊臣ゆかりの姓である羽柴利次として育てました。
しかし、高台院が亡くなると、幕府は豊臣姓羽柴姓を名乗る事を禁じたため、再び木下利次へと戻りました。
この系統は、幕府公認の「豊臣家祭祀を守る家」として、三千石の旗本として、存続を許されました。


明智光秀が実は生きていて、後の天海となって徳川家康を支えた説なんてのもありますが、こういう話は結構いろいろあるんでしょうね。で、それなりに説得力もリアリティもある。この光秀=天海説なんてのは、特に…。
いまさら確かめようもないから、むしろいいんでしょうね(笑)。

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