パラレルライン「6」
岩瀬が電話をしてきた。
「久しぶりに会わない?」
「そうだね、飲みに行こうか。ここ最近の話しをしたい」
「そうね。私も話したいことがあるから」
例のバーで待ち合わせをした。ぼくが到着した時、岩瀬は前回と同じソファ席に座っていた。バーテンはにこりとお辞儀をして、大学生らしきアルバイトは今日休みなのか、辞めたのかは知らないがいなかった。
キープしたウイスキーボトルとフルーツの盛り合わせをバーテンに頼むと、にこにこしてお辞儀をする。
「元気だった?」
「ぼくは元気だったよ。きみはどうだったかい? じめじめした季節だったから、空を見上げられなかったんじゃないか?」
少しだけ意地悪く言った。
「そんなことないわよ。雨の日は好きなんだ。きれいな空は見えないけど、お気に入りの長靴で水たまりを歩く。木造の喫茶店に入って、おじいちゃんのパスタを頼む。窓辺で石畳が奏でる雨音を聞きながらコーヒーを飲む」
「日本じゃ想像できない風景だね」
「そうね。たぶんロンドン辺り、知らない風景を想像したから」
彼女は笑って言った。
「でも、雨の日が好きなのは本当よ。流れる雲に止みそうもない雨を眺める。雲の上はどんな風景が広がってるんだろうって、地球が出来た時期も雲は変わらない姿をしてたのかなって、同じように雨が降っていたのかなって。きっと何もかわらない素敵な風景だったのかなって」
「きみに聞くと、どんな天気の日だって、理由をつけて好きって言いそうだね」
「高木くんはどんな天気が好きなの?」
バーテンがボトルとグラス、フルーツの盛り合わせを持ってきた。失礼しますと言ってグラスにとくとく注ぐと、氷がグラスの中で回転して風鈴のように涼しげな音を奏でる。マリア様の蝋燭を灯す。にこにこ一礼してカウンターに戻る。
「ぼくは雨よりは晴れがいいかな。この季節だとホタルを観ることできるからね。この間もホタルを観に行ってきたんだ」
「ホタルか……。いいね」と彼女はウイスキーを口に含む。
「でも高木くんがホタルだなんて意外だな」
「ただ習慣になってるだけなんだ」
ぼくはここ数年、同じ季節にホタルを観に行くこと、牛乳ソフトのこと、不思議石のこと、そしてガールフレンドと行った日しか雨が降らなかったことを話した。
「その子は残念だったね」
グラスの氷を人差し指で転がしながら彼女は言った。
「せっかくホタル楽しみにしてたのに。それで雨の中歌いながらタップダンスでもして楽しませたわけね」
「きみはそんな冗談を言う人だったのかい?」
「あら、雨の日は好きって言ったはずよ」
「そうだね。でもぼくはジーン・ケリーにはなれないよ」
そんなくだらないやりとりをしながら、グラスにウイスキーは注がれた。
「ホタルか」彼女はどこか遠くを見るような目で、蝋燭の炎を見て言った。
「記憶の中で最後にホタルを観たのはわたしがまだ小さい時だったと思う。どこか忘れた場所でホタルはたくさん飛んでいた。父親か母親か忘れちゃったけど、大事そうにホタルを捕まえて、私の前で手をそっと開いて見せてくれた。それが数少ない両親の思い出かな」
今までの付き合いの中で、岩瀬が自分のことを話したことはなかった。星や電線の話しばかりだったが、それだけでもぼくは彼女の言葉に惹き込まれた。嬉しかった。でも、それ以上は聞かなかった。
「それで、きみも何か話したいことがあるって言ってなかったか?」
ぼくは口直しにフルーツの盛り合わせの中から、グレープフルーツを食べながら言った。彼女はパイナップルを少しだけ酸っぱそうに食べた。
「来月、八月の日曜日は予定入ってる?」
「アルバイトは今のところ入れてないよ」
「わたしの頼まれごとを聞いて欲しいんだ」
彼女はいつになく真剣な目をしていた。
「いいけど、どんなこと?」
「わたしの趣味に付き合って欲しいだけなの」
そう言って彼女はウイスキーを口に含ませた。
「写真を取って欲しいの」
「写真?」
「そう写真。いつか話したよね。お陽様が沈みかけた頃に、電線を見ながら散歩することが趣味だって。わたしと一緒に電線の写真を撮ってもらいたいの」
ぼくは岩瀬の言うことにもう驚くことはなかった。黙って話しを聞きながら、考えていることは検討も付かなかったが好奇心をそそられた。
「具体的には、私が撮った場所で一緒の写真を撮ってもらいたいの。カメラは用意するから」
「わかった。いいよ」
ぼくは答える。
「面白そうだから手伝うよ。ウイスキーをグラス一杯でどうだい?」
「最高に美味しいウイスキーをおごるわよ」
彼女は微笑みながら言った。
「それで、いつの日曜日にするの?」
「そうね。最後の日曜日はどう?」
「了解。その日は空けとくよ。雨が降らなきゃいいけどね」
「大丈夫よ。私はガールフレンドじゃないから」
そう言ってぼくたちは笑った。キープしたボトルもちょうど空になったのでカウンターに向かうと、いつの間にかアルバイトらしき大学生がいた。会計を済ませると、バーテンとアルバイトはにこやかに見送ってくれた。詳細はまた連絡すると言って別れた。
マンションに帰ると、ぼくは冷蔵庫からビールを取り出してベランダへ向かった。夜空を見上げてひとくち、喉を潤す。
ぼくの両親は五十代で仕事を早期リタイアして、バッグパッカーの真似事のように海外を放浪している。ぼくが大学を卒業した年に「人生は一度きりだ」と言い残して旅に行ってしまった。それからというもの、3LDKの家に一人で暮らし熱心にアルバイトをした。やりたいこともなく、この生活が好きになった。
二ヶ月に一度くらいは両親から写真付きの手紙が送られてくる。世界遺産やランドマークを背景に撮った写真だ。有名な観光地を背景にして両親が映っていることに、本当にこの場所に行ってるのだろうか? と少しだけ疑った。
暇さえあれば釣りに出かけ家では常にお酒を飲んでいる父と、料理とベランダ菜園が趣味の母。そんなイメージの二人が、いまは世界を旅していることが不思議でたまらなかった。最新の情報は東南アジアのある宮殿前で撮影された写真だった。向かって左に父がいて隣に母がいる。二人とも真っ直ぐにカメラを見て寄添い手を組んでいる。いつもこの構図で変わるのは背景だけだった。それが尚更違和感を覚えさせるきっかけにもなった。
手紙には「この宮殿は雲の上という意味があるそうです。住まわれていた王様は、雲の上から国や国民を眺めていたのでしょうか? そこから眺める風景はどんなものだったのかな?」と母の字で書いてあった。岩瀬なら「いまと何も変わらない素敵な風景」と言うだろうと思った。
何十枚も送られてきた写真。両親とは格言を残して出て行ったきり会ってない。それでも写真を見ると二人のいまを確認することができる。思い出は古くなるというが、あの時より若く逞しい顔つきになった二人は、色あせることなく鮮やかな日々を送っているに違いないと思った。
部屋の中には両親が残したものがそこら中にある。本棚には料理本や釣り専門の月刊誌、ブームに乗るために父が買ってきたベストセラー作家の小説は、一度も読んでいたところを見たことがない。玄関には釣り道具があり、ベランダにはプランターがある。いまのところ釣りには全く興味が湧かないが、ベランダ菜園は面白いことに気が付いた。トマトや貝割れを育てた。特にトマトはスーパーで売り出しても遜色ないと思うほど美味しかった。最近は葉ネギの種を蒔いたばかりで、まだ芽は出てないが収穫を楽しみにしている。そう思うと、ぼくは母親似なのかも知れない。小さい頃や思春期の頃も「お母さんにそっくりですね」とよく言われた。最近になって趣味まで似てきている。
クローゼットの中からおもむろにアルバムを取り出して『成長期』と題させたアルバムは、ぼくが産まれたときから大学を卒業するまでを両親と写った歴史だ。一ページずつプロジェクターでスライドさせるようにめくる度、いまのぼくへ近づいてくる。それは細かな神経を通して脳髄に伝達され、星を投影している舞台とはまた別の舞台で、大きなスポットライトを浴びた被写体は動き出した。そしてなんの脈絡もなく、色調の異なる映像は数秒で切り替わっていく。躍動する被写体はさしずめスクリーン俳優のように、その時々の役回りを迫真の演技で果たしている。観客席から眺めていたぼくは、スポットライトに当てられた俳優の影がまた別の動きをしていることに気付いた。
笑っているのに影は泣いていたり、怒っているのに喜んでいたりした。その度にぼくは脳髄のどこかに隠れていた自分を探し出した。
それからたくさんの写真を上映させた。『ぼく』という映画があれば主演男優賞を獲得出来るのではと思った。そうすればもちろん助演賞は両親だろう。
ベランダに出て葉ネギに水をまく。岩瀬は「数少ない両親との思い出」と言っていた。それ以上聞くことはなかったが、ぼくは久しぶりに両親のことを思い出すことができた。温くなったビールを一口だけ飲んで、遠い西の空を眺めた。
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