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パラレルライン「終わり」

「少し休憩しないかい?」
「そうね」と言って岩瀬はゆっくりと歩き出した。近くの大きな公園に入って木陰のベンチを探した。園内にはアリーナや市民ミュージアムがあり、鉄鋼産業を支えたトーマス転炉や、浚渫船のカッターヘッドが屋外に展示されていた。休日の園内は子ども連れの家族やランニングをしている人などで賑わっていた。
 
 自販機でミネラルウォーターを買って渡すと「ありがとう」と言って受け取り、リュックからタオルを出して汗ばんだ体を拭き取った。ベンチに座り大きく背伸びをして疲れを解すと彼女もまた一緒に背伸びをした。
「動いたあとの水は美味しいよ」
 ぼくはペットボトルの水を一気に半分以上飲み干して言った。
「体の中がひんやりして気持ちいいわね」
 彼女は満足そうな顔をしている。ベンチの隣りには白毛の野良猫が昼寝をして、彼女は「猫もこの暑さには勝てないのね」と言って笑った。
「今日はありがとね。わたしのわがままに付き合ってくれて」
「いいよ。ぼくも楽しかったし何より普段見ないものを見れて面白かったよ」
「良かった。つまらなかったらどうしようって思ってた」
「その場合は最高級のウイスキーをボトルだな」
 そう言って二人して笑った。

「前にきみが電線の話しをしたとき、糸電話の話しを思い出しながら電線を眺めて帰ったんだ。そのときは暗くてよく見えなかったけどね」
「夜見えないのは当然よ」 
「でもね。きみがその糸の先には誰かがいるって、それがそのときなんとなく分かったような気がしたんだ」
「そう。良かった」
 彼女は微笑んで言う。先ほど飲んだはずの水分は、いつの間にか空気中に分散しひどく喉が乾いて、口内に残ったそれをすべて体内に押し込む。
「糸の先には顔も見えない誰かがいるって言ってたけど、きみはその先の人を探しているんじゃないのかい?」
 ぼくは彼女を見つめる。
「……小さい頃、猫を飼っていたの」
 彼女は隣りで寝ている野良猫を撫でながら言った。
「名前はムーン、三毛猫ですらりとした美人だったわ。でもある朝起きると、丸く冷たくなってたの。両親は医者だったからわたしは頼んだの。ムーンを生き返らせてほしいって泣きながらね」
 ぼくは目線を野良猫に落として彼女の言葉を想像する。
「そしたら父親が言ったの。生き物はいつか必ずお別れする日がやってくるんだって、だからその日のために精一杯生きていかなきゃいけないんだって」
 彼女は水を一口含む。
「わたしは納得がいかなかったわ。人だって救える医者が、猫一匹救えないのかって、どうしようもないことは分かっているのにね。でもね、それは人も同じだった」
「……人も?」
 
 ぼくは彼女の言葉の意味を理解できずに反復するようにつぶやく。
「だからね。忘れかけたときに、少しでもいいから思い出すの。懐かしい風景や思い出を辿って、両親のことやムーンのことを、滲んだキャンバスを修復するようにね」
「そのことを忘れないために?」
「そうね。それもある……」
 彼女は糸を解くようにやさしく話す。
「大きな地震があった。地球が壊れるのじゃないかってくらい揺れた。ついさっきまでそこにあったものが一瞬にしてなくなった。家も両親も思い出さえも破壊されて波にさらわれて、何が残ったのか理解できなかった……。避難所に向かって、わたしは両親を待ったわ。仕事ばかりの人で遊んでもらった記憶なんてほとんどない。でも大好きだった。思い出は持っていたこのデジタルカメラと、そのカメラだけで、こころの支えは写真の中にある風景と一枚の両親の写真だった」
 
 ぼくは瞬きも忘れて真っ直ぐに見る。あのとき何をしていた、映画を観ていた、家具が倒れるのかと思うくらいに揺れて、でも自分が死ぬなんて微塵も思わずに続きを観ていた。岩瀬に対して感じていた何かは、ぼくのすぐ隣りで起こった限りなく虚構に近い現実だった。ぼくはあのドキュメンタリー映画のようにその現実にいま素手で触れている。
 
 どんな言葉を掛ければいい? いま何を感じている? 目の前にある現実は決して映画のヒロインではなく、ぼくが拒否した現実だ。
「びっくりした?」
「いや……。」
 ぼくは蚊の鳴くような声でつぶやく。一時の沈黙が訪れる。当事者を前にして「大変だったね」「頑張ってきたんだね」そんな言葉を掛けることができるだろうか? 映像で見た被災地、美化された人々の絆に流した涙は偽物だ。そこに感動の物語なんて存在しない。苦しさや過酷さ、愛する人を失った涙は到底ぼくは流すことができない。できることはなんだ? ぼくにできること、ぼくには大金を寄付できるような経済力なんてない。雀の涙ほどの募金でもしないよりはマシだ。本当にできることはなんだ?
 
 瞼をそっと閉じる。広大無辺な宇宙にぽつりとぼくはいる。強く握りしめた拳をそっと開いてみると、いつかお土産で貰ったヘンテコなキーホルダーがあった。それを見て思い出す。あのときを、出会いを、バーで語り合った、いまこの瞬間を、忘れてはいけない。それがぼくと岩瀬との、強いては大きな世界との繋がりとなる。淡く溶け出していた意識がいつのまにか再構築されていく気がして辺りを見回すと、いままで見えなかった、いや、確かにそこにあったはずの星々が僅かながら輝きを取り戻していることに気付く。瞼をあけると八月の傾きかけた太陽が甚く瞳に焼き付いた。
 
 ぼくは再び彼女を見つめる。
「映像を見ても……。自分には関係がない世界だった。どこか遠い国の出来事で意識の浅い場所はこんなことは起こってないと、その先にある現実を見ない振りをしていた」
「普通の人はだいたいそんなものよ。わたしだってあんなことが起こる前はそうだった」
「でもね。気が付いたんだ。きみが言ったように」
 彼女は猫を抱き抱えると、初めは目を大きく開いてきょとんとしていたけれど、膝の上が気に入ったのか、また丸まり眠りついた。
「両親は結局来なかった。あれから何年経ってもまだ来ない。たぶんもう綺麗なお星様になってるんだと思うけど、その最後を見てないとやっぱりどこかで生きているんじゃないかなっていつも感じるの」
「電線は……」
 ぼくは彼女のこころを選ぶ。
「きみにとって帰る場所なんだ。どこにでもある一本の電柱はきみで、そのずっと先には温かなきみの家があって、そこには家族がいてムーンがいる。どんな場所に行ってもそれはある。それは想いなんだ。交差点で行き先を間違えないように進んで繋がりを確認する」
「そしてまた悲しくなるの。もう触れることの出来ないそれらを憶い出して、だからわたしは写真を撮るの。その場所に繋がるたくさんの始まりを、想い出に残すことで、忘れないためにね」
「忘れないこと”おもい出す”こと、それが本当の意味で繋がりなんだ」 
 
 夕暮れ前の温かい風が吹き抜ける。木漏れ日が揺れて蝉は指揮者の次の合図を待つように一瞬の静寂を迎えるが、振り下ろした指揮棒に合わせてまた一斉に鳴き始めた。その合図をきっかけに猫は何か思い出したのか、するりと彼女から抜け出して足早に去って行った。それを見た彼女は「またね」と言って手を振りその行き先を見守る。一時の休息を終えてまた新しい居場所を探すのか、あるいは、所定の寝床に帰るのかは分からないが、その後ろ姿は逞しく見えた。
「わたしたちも行きましょう」
 
 そう言ってぼくたちは立ち上がり、今度は西陽に伸びた電線の影を進む。見上げた交差点はまた違う表情を見せる。ぼくの始まりを探して、その先の似合わない麦わら帽子の後ろ姿を確認して微笑む。すると彼女はぼくの視線を感じたのか、くるりとこちらを見る。細い髪が一瞬、陽に透けて綺麗だと思った。
「楽しかった。あのときから一番充実した日を過ごせたわ」
「ぼくも楽しかったよ。きみといた時間、ぼくはたくさんの世界と関わりを持つことができた」
 ぼくは笑顔で言う。

 「やっぱり……。きみはどこかへ行ってしまうのかい?」
 こころの奥に仕舞っていた言葉を口に出した。
「なんでそう思うの?」
「なんとなくね。掴みどころのない旅人のような気がして」
「そうね。いまはたくさんの世界を見たいの、だからひとまずお別れかな」
「どうしても行くのかい?」
「ええ。でもこの街はわたしの大切な帰る場所になった。高木秋人と岩瀬智子は確かにこの街に存在して繋がることが出来た。でもね……」
 そう言って彼女は歩き出す。ぼくは立ち止まりずっとその背中を見つめていた。一つ先の電柱で彼女は止まり振り返って叫んだ。
「わたしたちのいる世界はこの場所なの! 一本分の距離、顔も小さくなって忘れそうになる。でもちゃんと声は届く距離で、そのわたしたちの間にこころがある。忘れないで! わたしたちの過ごした時間を”おもい出して”いなくなった人のことを!」
 
 電線にはこころがある。以前彼女は言った。そのときのぼくは、その意味が分からなかった。人と人がいて、こころがある。その場所は自分の中にあるのではなくて、世界と世界の中心にそれがあるのだと、いまはっきりと気付いた。
 河川敷の土手に腰掛けて夕暮れを眺めた。最高級のウイスキーの変わりに、ぼくは缶のハイボールを買ってもらった。なんだか申し訳ないと言っているが、これ以上の美味しいお酒は到底飲めないと乾杯した。
 東の空はオレンジに頬を染めて、またどこかが新しい朝を迎えようとしている。それを追い出すように西の空は夕やみに包まれてゆく。まだ明るい空にひと際光る二つ星は、ぼくたちが映し出したものだろう。幾光年離れた星はただ綺麗に輝いていた。

 数日して岩瀬はこの街を旅立って行った。心残りはハイボールだと笑っていた。電線や星を眺めては、ぼくは確かにそこにあるこころに話しかけた。
「きみはいまどこにいるんだい?」
「高木くんがいる街から、ずっと西にある街よ。もしかしたら海の向こうかもしれないわよ」と冗談を言う。
「海の向こうだと電線は繋がってないじゃないか」
「海底ケーブルは世界中繋がってるわよ」
「確かにそうだけど、でもきみは日本からは出てないと思うけどね」
「どうしてそう思うの?」
「どうしてって何となくだよ」
 ぼくは言う。
「今度はいつ帰ってくるんだい?」
「この前出て行ったばかりよ。そんなに簡単には帰れないわよ」
「ぼくが言うのもなんだけど、きみは強情だよ」
「お互い様ね」
「今度帰って来たときは、ホタルを観に行かないか?」
「そうね、観に行きましょう。不思議石も一緒にね」
「雨は降らないといいけどね」
「きっと大丈夫よ。そのときは美味しいウイスキーを奢るわ」
「ありがとう。きみと出会ってぼくの世界は変わったよ。あと……」
「まだあるの?」
「きみは冷たいな」 
 ぼくは笑う。
「披露宴の時はごめん、ありがとう」
「あら、まだ言うのね。そんなこといいわよ」
「それを言いたかったんだ」
「律儀な人ね」
「たまにだけど、きみの世界はぼくの世界の中心じゃないのかって思うことがあるんだ」
「人の世界を自分の中心にすることは辛いことよ」
「そうかもしれないね。でもきみと重なり合った世界と、そうでない世界を含めて、ぼくの世界なんだ」
「じゃあ、わたしはその世界をほんの少しだけ離れた場所から見てるわ。電線や星、そうね、あとはいつものバーのウイスキーから」
 
 そう言うと彼女の声は聞こえなくなった。郵便ポストから茶色の封筒を取り出してエレベーターを昇る。秋だというのに、まだ八月のようにかんかん照りで喉はからからだ。ウイスキーを注いだグラスの氷を人差し指で転がす。封筒を丁寧にハサミで切り写真を取り出す。その中から一枚を選びベランダに出るとウイスキーをゆっくり飲んだ。芳醇な香りに包まれて、ぼくはきみの世界を感じた。

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