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『私はゴースト』ネタバレと考察

アマプラで映画『私はゴースト』を観ました。

映画自体の説明はヤボになるのでしません。実際に視聴してみてください。特にこの映画は謎が解けていく系ですから、ネタバレは命取りです。
以下は観たという前提での個人的な考察ですので、まだ観てないという人は絶対に読まないでください。

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この映画は「幽霊の除霊」を「除霊される幽霊側」の視点から描いています。

幽霊はエミリー
そして、エミリーを除霊すべく雇われたのがシルヴィアという霊媒師です。

シルヴィアの除霊はカウンセリングのように幽霊と対話していくというスタイル。幽霊自身も忘れてしまっているような過去を思い出させ、自分自身で自分を縛り付けるものに気付かせていくわけです。
シルヴィア自身も「自分には幽霊と会話が出来るという取り柄しかない」と言っている通り、本当にそれしか出来ないようです。

幽霊が自分自身の過去に気付いていき、それを客観視出来るようになることで成仏出来る、ということらしいです。(字幕では成仏と出てたけど、天国にいけるとかそういう意味で使われてるみたい。本来の成仏はそういうもんじゃないんですけど、まあここは映画に合わせておきましょう)

エミリーもシルヴィアと対話していくことで少しずつ自分の過去を客観視出来るようになっていきます。
そして、自分自身の過去や、自分が知らない自分とも出あっていく、というのが前半部分。

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で、私が「ここは重要な伏線だな~」と想うのは、エミリーが家の外を初めて見たときのシーンです。

光の差し込むドアを開けると、そこには果てしない無があるだけでした。
「おぞましい虚無」と表現されているように、完全に何もない世界。
エミリーはそれに恐怖しシルヴィアにそれを告げます。

しかし、シルヴィアはエミリーが明かりのない暗さや夜を怖がっていると勘違いしてしまいます。
エミリーは必死に恐怖を伝えますが、シルヴィアには伝わりません。

つまり、シルヴィアは虚無については知らないわけです。
ここではエミリーとシルヴィアは理解しあえません。

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そして、問題のラストシーンです。

真実を知り、エミリーと怪物は自分自身がした過去を客観視出来るようになります。
除霊の最終地点までいったのです。

これでシルヴィアの除霊は完了し終わるはずで、本来はここで光が見えてエミリーは成仏出来るはずなのです。

しかし、エミリーと怪物には光が見えません。
むしろ、家の外に満ちていた完全な無が家を飲み込んでいきます。

その間もシルヴィアの「光にすすめ」という声が響き渡ります。
そして、エミリーと怪物は完全に虚無に飲み込まれて、消滅してしまいます。

シルヴィアの言う成仏や天界などは、存在しなかったのです。

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エミリーと怪物は、二人とも怒りや悲しみや嫉妬などの負の感情によって、なんとか存在することが出来ていました。
その「存在することが出来る条件」をシルヴィアは断ち切ってしまったわけです。よかれと思ってした除霊によって、エミリーの存在自体を完全に打ち消してしまったのです。

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ここで、視点をかえてみて、シルヴィアと依頼主の側から除霊シーンを見てみるとどうでしょうか。
依頼者の前でエミリーと会話し、客観視出来る状態にまでエミリーと怪物をもっていったシルヴィアは、仕上げとして「光にいけ」と唱え続けます。

しだいにエミリーと怪物の声は消え失せ、家からも怪奇現象がなくなります。
依頼者は満足し、シルヴィアもまた、エミリーと怪物の成仏を疑いません。

ああ、良かったね、これでみんな救われたね。
で除霊してるサイドは終了です。

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この映画のおそろしいところは、依頼者もシルヴィアも結果的に無に帰したエミリーと同じ道をたどるということです。
そして、この映画を視聴している人、つまり私もまたあのおぞましい虚無に飲み込まれる。
死の先にはなにもない。
誰もがエミリーが恐怖したあの暗闇に飲み込まれていくということが暗示されておわるというところです。

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つまり、幽霊とかモンスターとかの恐怖とは全く別種の、存在自体の恐怖に陥れるというところが、この映画の凄いところ。唯一無二のアイデアです。
熱狂的にこの映画が好きという人が居るのも、そこらへんが全く新しいからじゃないでしょうか。

無というものが持つ薄ら寒いおそろしさ。
誰しもが、子供のころに「死んだらどうなるんだろう?」と思い、その後放置してきた底知れない恐怖、次第に目を瞑り鈍感になり、忘れさってしまっていた存在自体への恐怖を思い出させるのがこの映画のテーマだと言っても良いのではないでしょうか。

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死は無だと気軽に言う人って、この映画で表現されている虚無が自分の人生の先にある、と言っているのと同じなんですよね。
それって、結構こわくないですか??

エミリーと同じ道ですよ。

それならまだ地獄とかの方がマシな気がします。
エミリーとか怪物も、負の感情をいだきながらだけど、彼らなりに存在していたんですもんね。
それは地獄とか、餓鬼とかの世界かもしれないけど、彼らには彼らの世界があったんです。
実際、エミリーは虚無を見たとき、めちゃくちゃ怖がっていました。
そして、ラストシーンでの怪物もまた怖がっていた。
彼らが繰り返した嫌~な日常から見ても、虚無への恐怖は底なしだったわけです。

死んだ後は何もないって言う人は、この底なしが私の往く先だと言っているわけですね。それで良いんでしょうか?
私は嫌だなあ…

この映画を見て、信仰というのは大切だなあとより一層思いました。
私にとってはお浄土があってよかった。
南無阿弥陀仏

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