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非常事態の仏教

落ち着かない日々が続きますね。世界を見れば死者数も日に日に増えていて、それに対して祈ることしかできない自分があり。予定がことごとくキャンセルとなりますが、キャンセルするにも労力はかかるので、自由時間が増えるわけでもなく。焦りが募るばかりで、まがりなりにも宗教者としてこのままでいいのだろうかと、自問自答する日々が続きます。みなさんいかがおすごしでしょうか。

こんな時、仏教ではどう考えればいいのか。法然院の梶田住職からお話しの機会をいただいたので、「非常事態の仏教」と題して自分なりにあれこれ考えてみました。

加速する檀家制度の崩壊

すでに終わったものに対して「崩壊」という言葉を使うのも今更感が拭えませんが、小見出しとしてわかりやすいので許してください。檀家制度(寺請制度)は江戸時代で終わっていますが、その後も社会慣習として生き延びてきたお寺と檀家の関係性を、お寺側の論理では「檀家制度」と呼んできました。慣習として残ってきた、というところが今回のポイントです。

個人の習慣が集団に広がって定着し、世代を超えて継承されるようになると、社会の慣習となります。人間は習慣の生き物なので、生まれた時から染み付いた慣習は、なかなか抜けない強さを持ちます。「檀家制度」は三世代同居が当たり前の時代には、祖父母から子や孫へ世代を超えて受け継がれてきましたが、三世代同居などお寺の家族ですら見かけることが稀有になった今、慣習としての継承の力がかなり弱まっていました。

そこへ来ての、コロナショック。日常がストップし、今まであり得なかったことが当たり前になります。コロナショックに見舞われているからといって、地震の確率が下がったわけではないし、もともと自然災害の多い日本では、非常事態が慢性化する時代に入ったといって良いでしょう。感染症危機の特徴は、影響が長期化すること。自然災害であれば非日常から日常へ戻ろうとする力学も働きやすいですが、今回のような場合は、非日常が新しい日常として定着する場面がたくさん見られるでしょう。

特に、高齢者との関わりが多いお寺は、感染症リスクを理由に、葬儀の簡素化、法事の延期や中止、月参りの停止、墓参り控えなど、慣習が途切れる機会に事欠きません。特に、そのことが単に慣習としてのみ継続していたものであったとしたら、人によっては「世間体があるから面倒でも続けてきたけど、終わらせるのにちょうどいい口実ができた」と、これを機に動くことも十分に考えられます。

今回の危機に際して、テレワークや行政手続きの電子化の推進など、今まで先進国でダントツの生産性の低さを保ってきた慣習依存度の高い日本人の性質に否が応でも変革を迫り、新しい習慣を定着させる良い機会としてポジティブに捉える向きもあります。それはその通りだと思いますし、同じことが宗教にも当てはまります。

宗教は不要不急か

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