見出し画像

宗教コミュニティのためのシェアリングプラットフォーム

「松本さんは、やっぱり原始仏教に戻るのが良いと考えているんですか?」と聞かれることがある。超宗派の活動をしたり、Post-religionとか言っているので、そう感じられるのかもしれない。どうだろう。僕は原始仏教に戻ろうとしているのだろうか。少なくとも、自分ではそう意識することはない。だいたい、原始仏教がどうだったのか、知らない。「原始仏教はこうでした」と確定的に語るには、2500年前のお釈迦様の時代は、昔すぎる。生きる時代が違えば、人間の生活も違うし、悩みも違う。すでに今とは前提がすっかり変わってしまった過去を、想像して感傷に浸る楽しみを否定する気は全くないけど、そこへ本気で戻ろうとすることには僕はあまり意味がないと思っている。

とはいえ、限られた情報源から原始仏教の様子を推察するに、通信も社会制度も整っていない大昔のインドで行われていたらしい、仏道修行者たちの自律分散型ネットワークのあり方は、時代を経て何周かして今、とても今っぽいなと感じる。まったく時代背景も環境も違うから、決して「戻る」ではないけれど、でもやはり過去から学べることはある。

Local to Local

某自治体の首長勉強会シリーズ、今回は内田樹先生。オンラインとはいえ、超少人数でお話を伺える貴重な機会。ツイートでも紹介いただいた(某自治体の名前が出てるけど笑)。

内田先生のお話は、いつも含蓄に富み、時代をしっかり捉えている。武道で身体を使っているから、頭でっかちの人が頭からひねり出すお話とは違うなと思う。今回も知事による問題提起から始まって、ポストコロナの社会について1時間の議論で色々と論点があった。

まず、「先は読めないけど、考えるなら、思い切り幅を広げて考えたほうがいい」という提言に始まり、モノと人が移動できなくなってグローバル資本主義が終りを迎えること、slack(余裕)のないジャストインタイム社会の限界、食料やエネルギーの自給自足が重要になること、「必要なものはカネで買えばいい」新自由主義の終焉、”効率の悪い”中央集権から地方分権へ、対話の重要性、新しいビジョンを何も出せない日本の危機的状況・・・など。

この勉強会シリーズに登場される先生方に共通する論点も多く、今後僕たちがどこへ向かっていけばいいのかは、すでにずいぶんはっきりしているようにも思う。けれど問題は、目的地がいくらクリアになったところで、そこに辿り着ける道がなければ、結局はゲームオーバーになってしまうということ。

目的地へたどり着くためのアプローチとして、間違いなく大事になってくるのが、ローカルの視点。これまで数人の先生方の議論にも、必ず登場するキーワードだ。もはや国任せ、エリート任せ、トップダウン任せといった「お上(おかみ)意識」では、変化の早い時代を乗り越えることはできない。内田先生は、能力の高い(と皆が信じているけど劣化再生産され続けている)中央のエリートに任せるのではなく、行政であれビジネスであれ現場を持つ人たちに権限委譲することにより全体が学習してレベルアップしていくほうが良いと、指摘されていた。

その流れから、議論の中で"Local to Local”というキーワードが登場し、自分にもとても腑に落ちるところがあった。

「全員ブッダ」のティール社会は、現実には難しい

人間は、放っておくと同質性の高いムラ社会を作ってその中で群れ、安心のためにムラの外の異邦人を排斥するものだ。そんな人間が人間を超えていく(ブッダになる)ために釈尊が説いたのが、「自灯明法灯明」、つまり自らを灯火とし法を灯火とせよという「自立の教え」だったのだと思う。

では、現代人はどうか。確かに、社会は複雑化して多様性が増し、ムラの論理に個人の論理が優っているように、一見思える。しかし、それはムラの構造がわかりにくくなっただけで、相変わらず自分とは異なる人を排斥しようとするエネルギーはうねっているし、人間がより自立したティール社会に向かっているようには、ただちには思えない。SNSムラでの煽りによって殺人も起これば、村八分によって自死者も出る。ムラの範囲が物理的な地理を超えて複雑化し、構成員の匿名化も進んで目に見えにくくなった分、以前より自らのムラ意識を自覚しにくくなっている。

「全員ブッダ」のティール社会は、理念的には素晴らしい。大きな方向としては、これから社会のあらゆる分野でティール化が進んでいくだろう。

けれど、それを徹底することは、現実には難しい。だからこそ生まれたのが、大乗仏教だ。「ムラ社会」という一点において仏教を論じるなら、オリジナルブッダである釈尊の教えは「あらゆるムラから自立して自由に生きる道」を説いた一方、誰もが救われる道を説いた大乗仏教は「ムラ意識から完全に脱することなどできない私たちが、それでもよりよく生きる道」を説いた。

ムラ意識から完全に脱することなどできない私たちが、それでもよりよく生きる道

では、「ムラ意識から完全に脱することなどできない私たちが、それでもよりよく生きる道」とはどういうものだろうか。まず、そこから脱することができないまでも、自分がムラ意識の中に閉じ込められていることを自覚することが、何より大事だ。正気に戻り、正気を保つこと。その点において、ムラの存在が隠されている現代は、かつてのわかりやすいムラ社会よりもタチが悪いとも言える。

ムラの中で生きていることを自覚するためには、拡散し匿名化する複雑で目に見えないムラから距離を置き、顔の見えるわかりやすいムラに居場所を持つことが第一歩となるだろう。それはなんでもいい。職場であれ、家族であれ、学校であれ、サークルであれ、ご近所づきあいであれ、自分が匿名化せず手触りのある関係性を持てるムラの一員としての居場所を持ち、それをいつもより少しだけ意識してみるといい。そしてそのムラは、単一ではなく複数あったほうがいいし、人生のステージによってポートフォリオの中身を組み替えることも良いと思う。世界にはいろんなムラがあることを知ることが、人生を豊かにすることであるとも思う。熊谷晋一郎先生の言う「自立とは、たくさんの依存先を持つこと」は、真理をついている。

さて、その先に何をすべきかといえば、今度は自分のムラの勢力拡大ではない。昔と違って今は、地理的制約なしで情報の拡散ができるプラットフォームがほぼ無料で使い放題なので、技術的には、ムラの勢力拡大が無限に可能な時代だ。だからこそ、やりようによっては簡単にムラが膨張することもある。ではそれがすべからく良いことかといえば、どうだろう。膨張すれば、あっという間に顔が見えなくあって、ムラが安心の居場所では無くなってしまう。そうなれば、また振り出しからやり直しだ。

コミュニティは、規模より鮮度が重要だと思う。メンバー数は、コミュニティの鮮度には関係ないどころか、多すぎると弊害のほうが大きい。だから、大事なことは、「顔の見えるちょうど良いムラ」を活きの良い状態で保ちながら、同じく活きの良い他のムラと交流し、対話を持つことだ。

中央集権から地方分権へ

知事は、コロナ禍の中で、県(ローカル)と国(中央)とのやりとりもたくさんあったけれど、それとは別に、自分の県(ローカル)と他国の州や県(ローカル)との直接的なやりとりの中で支え合いの関係を育むできた経験について、熱くお話をされていた。local to local。顔の見えるちょうど良いムラ同士の、活きの良い対話。直感的に、これからの社会にはここにこそ可能性があると感じた。

日本は社会構造的に、東京一極集中が進んで中央=東京(+かろうじて大阪・愛知)とローカル=それ以外、との対比がきつい。法整備的にも中央集権を前提に作られているので、ローカルから一度中央を経てのローカルという階層構造がガッチリとしており、local to localがやりにくい。隣の部屋と交流するのに、一度、上の階へ上がって事務局へお伺いを立てなければいけないようなものだ。

しかし、分散型の情報プラットフォームが安価でいくらでも使える今、ローカルが他のローカルとつながるために一度中央を介さなければならない理由は何もない。都道府県同士、市区町村同士、相互補完できる良きパートナーがあるなら、間を飛ばしてダイレクトに顔の見える交流をしていくことで、まったく新しいダイナミックな世界が開けていくだろう。

今回のコロナを機に、「効率の良い中央集権の仕組み」という幻想は吹っ飛んだ。危機管理は現場に近いところで素早く対応しなければうまくいかない。今後、地方分権は、東京一極集中への不満に対するガス抜きのために掲げられるものではなく、合理的な思考の結果にある既定路線として識者たちに語られるようになることは間違いない。

この変化は当然、ビジネス界にこそいち早く出てくるだろうし、やがて遅ればせながら宗教界にも波及する。ローカルのお寺が宗派組織(包括宗教法人)にぶら下がる時代は完全に終わる。大きい組織ほど、そうだ。包括・被包括という宗教法人のあり方そのものが変わっていくのも、時間の問題。今の枠組みで将来を考えることは、やめたほうがいいだろう。

では、すべてがバラバラになっていくかといえばそうではなく、ここでもlocal to localだ。お寺の中でも顔の見える人同士の生き生きとしたつながりが大事になるし、お寺同士も同じく生き生きとしたコミュニティを持つ他のお寺との交流が大事になってくる。いたずらに規模を追い求めるのは、時代の求めにそぐわない。

「宗教の開疎化」記事にも書いたが、一人一人のつながりを大事にして、「ちょうど良い」密度のコミュニティを保ちたい。

宗教コミュニティのためのシェアリングプラットフォーム

先日、「未来の住職塾、コンテンツか、プラットフォームか」という記事を書いた。塾という枠組みを超えて宗教者がリソースをシェアするプラットフォームが必要という問題意識だ。

このプラットフォームは、顔の見える元気なコミュニティ同士が、相互に交流して刺激しあい、お金や時間や知識といった資源を交換したり、その他の足りないものを補い合ったり、宗教コミュニティにおけるシェアリングエコノミーを促進するものだ。

中央集権型の宗教組織の時代は終わった。それは一部の権力者の専制から民衆へ力を取り戻す民主化運動の結果などではなく、主には社会のデジタル・トランスフォーメーションの波がもたらした変化だ。権力主体の問題ではなくて、様々なデジタル・プラットフォームの普及によって、中央の司令塔は、シンプルに、無駄でしかなくなった。

「考えるなら、思い切り幅を広げて考えたほうがいい」という内田先生の言葉に従えば、コロナによって社会のデジタル・トランスフォーメーションが加速した後に宗教に起こるのは、中央集権的な構造の崩壊だ。それがはっきり見えているのであれば、今のうちからアフター宗派、アフター教団型宗教、というのを考えて、準備しておいたほうがいい。それはすでにゆっくりと起こってきたことで、もう建物は朽ちているし、最後に看板が落ちるだけだから、実質にはあまり影響がない。とはいえ、看板だけを頼りにしてきた人にとっては、それが最後の瞬間となることも確かだろう。

日本人はどうも、起こってほしくないことについては、実際に起こってみるまでそのことを考えたり準備したりするのが苦手みたいだ。でも、必ず起こることには、火事のための避難訓練のように、今のうちから計画を作ったり、「練習」してみることは必要じゃないかと思う。僕が期待するこれからの宗教コミュニティのためのシェアリングプラットフォームには、そんな役割も担ってほしいなと思う。

それもPost-religionの流れから必然的に出てくる動きの一つだ。

ここから先は

0字

当マガジンは「松本紹圭の方丈庵」マガジン内のコンテンツの一部を配信してお届けしてきましたが、7/31をもって停止させていただくことになりま…

このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

"Spiritual but not religious"な感覚の人が増えています。Post-religion時代、人と社会と宗教のこれからを一緒に考えてみませんか? 活動へのご賛同、応援、ご参加いただけると、とても嬉しいです!