落語界の上下関係~先輩が後輩をおごる噺家文化

噺家文化において「先輩が後輩をおごる」という文化が存在します。
一見、ごく当たり前な日本的風習な気はしますが、本日は、

・落語界が芸歴順なのはなぜか?
・先輩がおごる文化は、なぜ落語界に存在するのか?
・この文化を支える価値観・生活様式が、今変化している!

という話を記事にします。

落語界の上下関係=芸歴順

プロ野球界の上下関係は「プロに入った順」ではなく、「年齢順」だと聞きます(参照>YouTube・今浪隆博のスポーツメンタルTV「プロ野球の上下関係。ややこしいケースもあるよ」)。
噺家は「芸歴順」です。その違いは何でしょうか?

結局、会社が「役職順」ということから逆算すれば、理由は明らかです(笑)

プロ野球は監督やコーチと言う役職以外において「選手同士」は互いに尊重しあう同じ立場です。ある意味、「真打」なので、同格なので、その他のことは年齢的な日本ルールになってるという事かもしれません(今は知りませんし、野球選手やないので、聞きかじりですいません・・・何かあればここは削除しておきます)

しかし、落語界は、少なくとも芸歴によって「落語会や寄席で行う作業の内容」が変化するのです。
もっとこれを先鋭化させてるのが東京の真打制度(前座・二つ目・真打の階級制度)です。

「真打の効果」でも書きましたが、東京では下記のような3つの階級があります。

前座:楽屋の用事をする
二つ目:楽屋の用事をしないが、真打興行の「番頭」的役割などはする
真打:師匠と呼ばれる

その違いは「社員・バイトリーダー・新人バイト」ぐらいの違い・・・、いや「管理職、社員、バイト」みたいな違いでしょうか。

特に「前座」の間は、”基本的な楽屋作業の習熟度が芸歴の長さに比例しやすい”です。
「二つ目」なら、”この世界全体の理解度が芸歴の長さに比例しやすい”です。
「真打」になれば、同格であり、その力量は「個の違い」です。ただし、それまでお世話になった関係性の尊重をこめて「芸歴的なリスペクト」は存在しますが、経済的な優劣は別になります。経済的優劣は個の違いだからこそ、同格なのです。

つまり、東京の真打制度を見てわかるように、寄席や落語会を運営するために最も必要なのは、「芸人の階級」=「芸人役割分担」なのです。

大阪では、この真打制度がないので、現場での「芸歴順」に応じて、落語会の「運営上の役割」をこなしていくということになります。
大阪では、よく「アイツは修行をしていない!」という言葉を誰かに言う噺家がいますが、その時の「修行」とは、大概この「運営上の役割分担を把握できているか」ということを指していることが多いです。この役割分担を理解していれば、寄席や落語会・組織の運営にトラブルは起きませんので。

大阪には「寄席」というものがなかったので、明確な階級が必要にならなかったので、「芸歴順に臨機応変にその場の役割を各人が対応する」というシステムで長らく来ました。今は、だいぶ東京のスタイルに近い雰囲気になって来ましたが、それでも大阪の落語家は「いつまでも先輩の着物をたたみ、楽屋の用事をする」みたいな雰囲気があるのはこのためです。

結局、東京大阪ともに、落語会や寄席の運営を維持するためには、芸歴順の上下関係が必要なのです。

先輩がおごる必要性

この芸歴順による「上下関係」(先輩後輩関係)により、新人は「今存在する落語界のルールと技術」を学んでいくことができます。
どんなに才能があろうが、「まずは運営上のルール」を理解してもらわないと、落語会や寄席は成立しませんので、基本は学ぶ必要があります。

先輩は後輩に指導することで後輩は学んでいけるのですが、先輩が後輩に何かを教えなくても実は「学び」は存在します。
そもそも、先輩が存在していること自体が「直接的or間接的に、後輩が学ぶべき何か」が保存されている状況になっています。
ですから存在自体が「ありがたい」のです。先輩という存在が、修行において「学ぶための素材」ですから、存在が貴重なのです。つまり、先輩とは集客力や芸の力とは無関係に「存在自体に価値がある」ということです。
いわば、先輩は「指導してくれる教師的側面(インストラクター)」と「自分が見て学ぶ実験素材的側面(モルモット?)」の両方があるということです。

もちろん先輩は後輩をおごり、食事をしたりしながら、多くの情報を後輩に伝承していくのですが、それとは別に「おごる」というのは儀式的側面もあります。
「学び」は無形ですので、先輩が後輩に何かを与えた「証」は見えません。また後輩から先輩に、教えてもらうたびに、感謝を述べにくかったりします。
ですから、「食事をおごる」というのは、「先輩が後輩に何かを与えた」「後輩は先輩にお礼を言った」というのを「見える化」するための儀式でもあります。つまり、「先輩が後輩におごる」ことは、「学びの関係性(上下関係)を共有し合う」という儀式でもあります。

(まとめ)
落語会や寄席を運営するために必要なルールが「芸歴順」であり、それを支える儀式として存在するのが「先輩が後輩をおごる」という文化だと思います

修行は必要か?そもそも修行とは?

落語会や寄席の運営には「修行(業界ルールを把握すること)」が基本であり、それを支えるのが「芸歴順」「先輩が後輩をおごる文化」と書きましたが、大阪ではたまに「アイツは修行してない!」というセリフを聞くことがあります。いわゆる「基本ルールを理解していない噺家」のことです。しかし、これは”問題であって、問題ではない”のです(笑)
なぜなら、そういう人も、芸歴10~15年ぐらい経ったら、周囲から「もうええ(かまわない)」と言われますから。さらに、芸歴10~15年以上の噺家については、実は先輩も後輩も「誰がルールを理解していないのか」わからなくなっていくのです・・・(素人さんには、そんなことが起こるのか疑問に思う人もいるかもしれませんが、実際起こるのです)。

これは東京の真打制度から逆算(類推)するとわかります。

芸歴15年までの噺家で「前座的な役割・二つ目的な役割をしない人」は、落語会の運営にとって邪魔でしかないです。しかし、真打になると何もしなくて良いです。大阪なら、その人は、マジシャンや曲芸の人などと一緒で「ゲスト」扱いです。ゲストは何も用事をしなくて良いです。その人に求められることは、「お客様を集めること」や「お客様を喜ばせること」です。ですから、鳴り物が下手くそでも、楽屋の用事ができなくても、風習やルールを理解していなくても、問題ないのです。

ただ「前座や二つ目ぐらいの芸歴」において、全く落語会の用事が出来ない人には当然、仕事は他の人より供給されにくくなります。だから普通は廃業しやすくなります。しかし、廃業せずに真打の芸歴まで生存できれば、その人は一気に「舞台の実力や集客力」だけの評価に変ります。なぜなら真打の価値とは、それが全てだからです…。だから芸歴10~15年経つと、他の噺家全員が「アイツは修行してこなかったけど、もうええ!」ということになります(笑) 
噺家の感覚としては、

「掟破りみたいな人でも、真打クラスまで落語家を続けられた」
=「周囲に迷惑をかけて来たので仕事があまり無いはずなのに、生存できた」
=「自力で落語家として活動を続けていた」
=「それはそれで、落語家としての能力があったという証明だ」

ということなので、東京の真打クラス(芸歴10~15年頃)には、誰も批判はしなくなります。

結局、落語界は「相互扶助のコミュニティ」なので、若いうちは「舞台裏の用事をすることで、先輩含めた他の人達を助ける」ことが重要です。しかし、芸歴を重ねると「お客様を沢山集めたり、舞台の上でお客様を喜ばせることで、他の人達を助ける」ことのほうが重要になります。
ですから、芸歴の浅い時に「周りを助けない」というデメリットが目につくと、周りの噺家から批判されますが、真打クラスになっていると「面白くないこと」や「お客を集められないこと」の方が問題になります(笑) 

落語家は、

「芸歴が浅い間は、修行が出来ている噺家の方が、噺家社会の役に立つ」
のですが、
「芸歴を重ねた時には、集客力や芸の力がある噺家の方が、噺家社会の役に立つ(修行したかどうかは問われない)

ということなのかもしれません。

そうなると、噺家個人の利益の追求としては、「修行をするかどうか(寄席や落語会のルールを理解するかどうか)」はどっちでも良く、個人の判断に委ねられてしまいます。
しかし、表立って「最終的に面白かったらええんやから、鳴り物や用事なんか全員が覚えなくて良い」とは言えません。「大多数の人が運営の基本ルールを理解する」ことで、寄席や落語会は成立しているのです。落語界という「社会」を維持するためには、公式ルールとして「修行が大事!」という建前は崩せないのです。修行がないと社会が無茶苦茶になりますから。

※「修行」とはマニュアルみたいなものなので、修行をした方が落語はウケやすくはなります。また落語家として生計も立てやすいとは思います。しかし、「修行」が噺家としての成功や幸せを保証するものではありません。残念ながらそう言うもんです。
噺家社会の建前=「修行が大事!」と、噺家社会の本音=「最後は、お客を集めて笑わせてる奴がエライ!」という落語界の自己矛盾によって、色んな波風が定期的に起るのが落語界です。

余談ですが・・・、落語会の風習を理解していない人が芸歴数十年を経て「かなりの大師匠」になって、おかしな弟子を育てたり、組織の重職となってトンチンカンなルールを作ろうとすると、それはそれで「あの師匠は修行をしてないからな!」という話はまた出て来ます。この「アイツは修行をしていない」というセリフは、前座&二つ目ぐらいの芸歴の人に言われ、真打になると一旦言われなくなるのですが、大ベテランになるとまた言われるというセリフのようです(笑) 
ただ、大ベテランに対してこのセリフが言われる時は「修行してないからダメなんだけど、あの師匠の存在自体にはメリットがあるので仕方がない(あきらめる)」みたいな感じです。
このように、噺家社会は「ムラ全体にとっての効果(相互扶助の観点としての評価)」が何より重要なんやなと思いました(笑)
ちなみに東京は「寄席」があり、それが必須事項なのでそのモヤモヤ(トラブル?)は起きないかと思います。

話は戻しまして、落語会や寄席の運営には「修行(業界ルールを把握すること)」が基本であり、それを支えるのが「芸歴順」「先輩が後輩をおごる文化」と書きました。
しかし、「芸歴順・先輩が後輩におごる文化」は、「後輩が修行をする」ための仕組みであって、「修行ができているかどうか」は本人次第です。また「修行」とはあくまで「本人自らが業界ルールを学ぶ」ことです。先輩が何かをさせるのは「課題」や「仕事」であって、本来は「修行」ではありません。
ただ、周りの人間が「●●という噺家が修行をしたかどうか」を判断するためには、目に見える形にしないといけません。その「目に見える形」が「用事が出来ている・鳴り物が出来ている」となり、その用事や鳴り物の達成状況を見て、「噺家社会のルールを知っているかどうか」を周りが判別しているのです。それをもって「アイツは修行している!(していない!)」と言うのです。

※「修行」の定義は、噺家ごとによって違うと思いますが、「アイツは修行してない!(してる!)」と噺家が言うときの意味から、今回私が「修行の意味」を逆算しました。

(まとめ)
「芸歴順・先輩が後輩をおごる文化」は、落語家の「修行(業界ルールを把握すること)」の土台だが、あくまで土台でしかない。
→「芸歴順や先輩がおごる文化」は表面的なものであって、「修行が出来ているかどうか」とは別物である。後輩をおごってるからと言ってその人が修行出来てることにはならない(笑)
・修行は、寄席や落語会運営にとって必要不可欠だが、修行をしていないからといってその個人が噺家社会にとって不要とはならない。

価値観・生活様式の変化

①個人の物理的豊かさの変化→ありがたみの変化

もちろん「先輩が後輩をおごる文化」は今も存在します。
しかし、今と昔では、その「ありがたみ」は全く違うような気はします。
昔は噺家全員が貧乏だったので「(金銭的・物理的に)奢ってもらって嬉しい」という気持ちが存在していましたが、2000年代以降は社会全体が豊かなので「物理的に奢ってもらうこと自体はそんなに嬉しくない」という気持ちが存在しています(笑) 

今の方が昔よりも「翌日に電話やメールで感謝を伝える」などのマナーが徹底されており、表面的にはどんどん丁寧になっていってるのですが、昔の人間よりも今の若い人達は「おごってもらう行為」自体には、明らかに嬉しがっていないです(笑)
もちろん嬉しがってる人もいるですが、今や後輩もそれぞれ忙しいですし、そもそも先輩におごってもらわなくても、自分で飲み食いできます。ですので「その先輩と話せて嬉しい」はあるとは思いますが、そこに「物理的な食事をさせてもらえることで嬉しい」は無いということです。今や、先輩側は、自分が「食事が一緒に出来て嬉しい先輩と思われてるのか・そうでないのか」ということが運命の分かれ道になる状況です・・・。ホンマ恐ろしい時代です。

②後輩の作業量が昔より今の方が多い!

昔と違って、今は、若い噺家ほど、落語に費やさなければならない時間や仕事量が増えています(ここは東京はわからないのですが、少なくとも大阪はそうです)。
昔の大阪は寄席もありませんし、噺家の人数も少ないですし、メディアに出ることの方が重要視されやすい状況でした(もっと古くは「下座専用の鳴り物師」もいました)。ですので、落語家が「鳴り物」をそんなに勉強しなくて良い時代でした。またネタ数もそんなに多くを求められない時代でした。
昔の芸人は、各自が「芸人らしさ(個性・タレント性)」や「自分の芸」を磨いて、チャンスをものにしていくことが大事な時代でした。鳴り物を勉強するとしても、もっと「自分の芸そのものの向上」に直結する感じです。

しかし、今は違います。大阪では寄席(繁昌亭)があり、噺家の人数も多いです。ということは、今の若い噺家のスタンダードは「持ちネタの数が多い」「鳴り物はできる」「楽屋の用事が出来る」ということです。寄席を運営するためには、後輩のほぼ全員が楽屋の用事をして鳴物を打てるようにならないと、毎日公演を続けられません。落語会では先輩方から「番組に適したネタ」を求めらますし、その数が昔より多いので、後輩の持ちネタは必然的に多くなります。
そして先輩方から仕事をより多く貰うためには更に「笛が吹ける」「打ち上げで愛想ができる」みたいな要素が必要になり、お客様から自分の落語会を選んでもらうためには「落語に自分独自の工夫ができる」「新作ができる」みたいな要求にこたえる必要が出ます。
・・・どんだけ大変やねん!です(汗) 
※そら、こんだけ頑張ってたらお客様も若い噺家を応援しますよね・・・実際、落語ファンは今は若い噺家さんを観に行く人が多いです。(参考>笑福亭たまYouTube「落語ファンが若手噺家を見に行く理由」)

今の芸歴15年以下の噺家は、そもそもの作業量が膨大なのです。そして昔と違い、圧倒的に落語会が多いので、高座数が昔より多いです。さらに前座さんでも同じネタばかりしていると先輩から「勉強していない!」と言われますので、ネタのバリエーションを”先輩が”求めます。また平成以降に入門した噺家の方が、ベテランの師匠方より自主公演をする回数は多いです。自主公演では大ネタを口演するでしょうから、新しいネタをドンドン覚えないといけなくなります。ということは物理的に今の噺家は、昔より稽古量が多くなっているはずです。
(ひょっとすると、上方落語家の人口を芸歴順で半分にわけると、古典落語の持ちネタは、若い世代の方が沢山覚えてる可能性すらあります…)

また自主公演は、自分で会場押さえをして、チラシ作成やDMを出し、事務作業を自分で全て行います。それを今の若手噺家は頻繁に開催しているのです。一方、昔の噺家は所属事務所やイベント会社や余興先から依頼を受け、芸をしに行くことがメインで、自主公演は年1回の独演会がほとんどだったと思います。そういう意味で、昔の噺家は、鳴り物や用事だけでなく、落語会運営の事務作業などは、あまりしなくても良かった時代です(もちろん、別の苦労はあるのですが、苦労と作業量は別です)。その時代に比べると、今は「後輩の用事の量・稽古量・事務作業量」は膨大だと思います。ですから「後輩が打ち上げを断ることもある」というのは自然なことだと私個人は思います。

「打ち上げ」=「先輩が後輩をおごる文化」で、これが落語界の仕組みの土台になっているのは変わりませんが、これを支える価値観は、恐ろしいほど変化しました。今や、私が前述した「儀式の真の意味」になって来ているとも言えます。
「この先輩と食事をすることが、自分にとって本当に有益かどうか」を後輩が判断するのですから・・・(怖!)。
つまり、打ち上げが、稽古や準備・休暇を含めた自分の時間より貴重な時間かどうかを後輩が判断します(笑)
「打ち上げに誘っていただいて光栄です」と後輩に思ってもらえるか、先輩はドキドキしないといけない時代です。
(※しかも、先輩は、システム上、誘わないわけにはいきません(笑) なぜなら打ち上げをしないと、落語会の運営システムは成立しませんから)

それこそ、バブル時代の「2次会・3次会は当たり前」だったころの打ち上げは、後輩は「豪遊させてもらう喜び」「御馳走してもらう喜び」の意味が結構あったと思いますが、今の豊かな若者達は、あまり喜ばないということでしょう。それに実際「経験したことないような場所に若者を連れて行く」ということも今は少ない気がしますし・・・。
昔は「お茶屋へ」「新地のクラブへ」とか色々あったのかもしれませんが、そういうこともほぼ無いです。基本は居酒屋です(私もよう連れていきません…)。
後輩の価値観や生活様式が変わっただけでなく、実は、先輩の行動様式も変化しています(それを忘れています)。ただ、居酒屋であれ、打ち上げでみんなで話すこと、それこそが「噺家社会にとって重要」なのは変わりません。儀式的な意味でも本質的な意味でも価値があることだとは思います。ただ、ケースバイケースで、「毎回後輩は参加すべき」という儀式では無くなったという事だと思います。


③先輩方が「後輩の生活様式の変化」に気付きにくかった理由

このような時代的な生活様式自体の変化は、大阪では、私が入門したころ(西暦2000年ぐらい)から2010年ぐらいまでに起きた感じです。
さすがに最近は、先輩方も「後輩たちの価値観・生活様式の変化」にうっすら気づき出してるような気はしますが、少し前までは、サッパリ気づいてはりませんでした(笑)

ここ最近(2018~2019年以降ぐらい?)、時代の変化に気づき出す師匠方が大阪では増えて来た気はします。

その理由を人類学的に少し詳しく解説すると、人間が「コミュニティ(仲間・ムラ)」と感じるのは、大体100~150人ぐらいと言われています(※参照>wikipedia「ダンバー数」)。 私が入門した時の上方落語界は、180人ぐらいでした。ですので、大阪の落語家全員が、噺家全体を「ピラミッド的な階級で固定」して認識して、150番目以降は何人入門して来ようが、何年経とうが、先輩にしてみれば、我々世代以下は、ずっと「若い前座の人」という認識でした。
(※実際、2019年ぐらいまで私は落語会で普通に前座の出番があります)

先輩方は、自分が認識している上位150人ぐらいが「最重要な仲間」であり、それ以外の後輩は「いつまでも若い前座の人(多くのうちの1人)」という感じです。ですから先輩たちは「後輩たちの用事が加速度的に増えている」のに気付かなかったようです。さすがに、上方落語四天王が全員いなくなり、「自分が覚えてる150人のムラ社会」の人口が減って来ると、後輩を認識しだしますので、その活躍や変化に気付き出します。
昔は先輩方の認識がアップデートしていませんでしたが、今は上位のピラミッドの人数が減って来ましたので、ここ数年で先輩方の認識が一気にアップデートされたように思います。
わかりやすい例で言うと、繁昌亭昼席のトリは、原則が「芸歴25年以上」の噺家であり、例外としては「芸歴25年以下の場合は繁昌亭大賞・繁昌亭奨励賞を獲得した人だけ(特に近年は受賞した時のみ)」というルール・慣習(?)がありました。しかし、2021年桂二葉さんがNHK新人落語大賞を受賞し(芸歴10年)、その翌年2022年繁昌亭番組編成委員会の決定で「繁昌亭昼席のトリ」を桂二葉さんは1週間飾りました。ちなみに、私は同年2021年「繁昌亭大賞」を芸歴23年で受賞し、2022年「繁昌亭昼席で初めて1週間のトリ」をさせてもらいましたが、その週は、二葉さんよりも後でした(笑) それまで私はいっぱい賞をもらってますが、繁昌亭昼席のトリを1週間はしていません・・・これがまさに「時代の変わり目」です!
(そうじゃないなら、NHKの賞が他に比べてよっぽど凄いということになりますが・・・)

なんとなく、今、先輩方が一気に「後輩をまとめて認め出す」という機運が生まれて来ている気がします。「昔のピラミッドでトコロテン式に徐々に認める」のではなく、「後輩のかたまりを一気に認める」状況です(笑) しかも、今まではピラミッドの下が増えていくだけで、ピラミッドの下層の人間は長らく「上昇不可」の状況でした。にもかかわらず、今度は、自分より下の人間と一緒に「まとめて繰り上げ」という形です。

それは事実上、繰り上げではなく、一気に「戦国時代・自由競争社会として、お前らやれ!」みたいな雰囲気を感じます。まあ、それのわかりやすい例が前述の「繁昌亭昼席のトリ」の話だと思います。
つまり、ベテランの師匠方は当然「格上」なのですが、我々世代以下の大きな集団を「真打扱いの同格(その内部では年功序列を気にしない同格グループ)」として扱う感じです。「お前ら後輩は、真打同士やから同格として競争しろ!将来の上方落語のために、上下関係とか気にせず、競争せぇ!」みたいなことです(笑) もちろん、それでええんですが、これが我々世代=「ロスジェネ世代あるある」なんやなと思いました。

脱線しますが、私は上方落語協会は「日本社会の縮図」と言っています。
つまり、私は「第2次ベビーブーム(ロスジェネ)世代」で、社会の変化が発生し出すのは我々世代であり、その変化に従来のシステムではドンドン対応できなくなっていきます。そして問題が発生していくのですが、年配世代がそれを認識するのには、かなり時間がかかるのです。そして「ロスジェネ世代」が「従来システムの旨味」を得る寸前に、先輩方が問題や変化に気づくか、システムが破綻します。ですから、ロスジェネ世代は上の世代と違って「従来システムの年功序列による旨味」を得られないのです。実際、我々世代以前は「絶対的上下関係」ですが、我々世代以降は「東京の真打的な同格関係」が後輩に対しては既に発生します。
(参照>笑福亭たまYouTube「上方落語の世代分析(後編)、なぜ笑福亭たまは後輩にナメられるのか?」)

東京は、大阪よりも早くに資本主義が成立し、噺家も観客も多く、「真打制度」と「寄席システム」があります。ですから、東京は、そういう世代間の認識のズレが発生しても、大阪よりは割と是正できている気がします。また、たとえ認識のズレを持つベテランの師匠方がいても、東京はシステム的に対応できてることが多いように思います。

その顕著な例が「芸歴へのこだわり」だと思います。
以下で詳しく説明しますが、、、
東京より大阪の落語家の方が「芸歴のこだわり」が強くなります。
それは東京の噺家は認識のズレがあまり起きていないということの現れだと思います。また大阪の方が「認識のズレ」が発生しやすいのですが、それを是正することは結構難しい気がします。

ここから「ナイーブな話」なので有料とさせて頂きます。
(※センシティブと書くと暴力的や性的と勘違いされますので(笑))

オマケとして、「TV業界で、芸歴にこだわるお笑い芸人の謎」みたいな話も、ちょうどこのテーマと同じなので、全くの素人ながら「原因を勝手に解説」させて頂きます。

芸歴へのこだわり:東京と大阪の違い

東京と大阪では「芸歴へのこだわり」が大阪の方が強くなります。

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