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愛と承認欲求

愛と承認欲求について。
この題においてわかりやすく、密接な関係のあるエッチというものを考慮して書いていきます。

まず、エッチってどうすることかを考えると、相手の存在をより確かに認識すること。
触れる、言葉をかけたりする、気遣う。それらの行為は、ただ相手が生きていることを知ってるってだけの状態から、「そこに確かに存在していて、自分と関係している」ということをお互いに強く確かめていく作業でもある。
そうして「生きていること」を知られると嬉しいと感じる。その気持ちが承認欲求。だからエッチで承認欲求が満たされる。生きていることを強く確かめ合う行為だから。
逆を言えば、承認欲求とは、「自分が生きていることを認めたい(誰かに認められることで自分を認められる)」という欲望。生きてていいとか考える余地がないほど、当たり前に自分を認められるから生きていられる。
なので、「生きてていいか」を疑い出した時点で承認欲求が満たされてないと言える。

話は少し逸れるけど、そういう理由から、「知りたいという欲求もまた愛」と言える。
知りたいって、ようは感じたい。より感じたい。より感じたい=より認識を深めていきたい=認識を確かにしたい=自分の中でその存在をより確かにしたい。これ、エッチと一緒でしょ?だから愛。
愛があるから存在できる。愛がなければ存在できない。なので、存在している時点で少なからず愛を受け取ってる。
だから愛とは「その存在を確信していること」とも言える。目の前に何かがある。それは「あると信じている」から。「そんなの当たり前」と疑わないほどに信じてる。
つまり、「それが存在しててもいい」と、疑いようのないほど思ってる。だから存在してる。
もし存在することを信じてなかったら、それは認識にも上がってこないわけで、認識にも上がってこないということは「認知できない」ということ。認知できないものはなんの評価もできない。
「あひんたーはか」っていう物質を知ってる?認知できないはず。だって今テキトーに打って作ったから。認識できない、つまりそれはまっっっったくの無関心であること。
おれ「イスタンブール」って知ってる。もうその時点で存在してる。
全く興味がなくても、認識にある時点でそこには愛がある。あとは強度の問題。

ということなので、愛とは「存在を疑いの余地もなく信じていること」と言える。そして承認欲求とは、「存在することを当たり前に感じたい」という欲求。これがかみ合うことで、人は生きていける。

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