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"残飯屋"というフードファイター

ずっと積読のままだった『日本の下層社会』は大学時代に何かの授業で引用されていたはず。最近ようやく読破して明治、大正期の仕事に俄然興味を持った。たくさんの職業が紹介されていた中で目に留まったのがこの残飯屋だ。

残飯屋とは何か

日清戦争期(1894年 明治27年)ごろより始まり、日露戦争期(1904年 明治37年)にかけて最も繁盛したとされる。貧民街の住民に対して、安価で仕入れた軍隊や病院、学校で残された食事を売りさばく商いだ。当時残飯屋があったエリアは下記の「☆」マークで位置された場所だそう。引用書物によると、15~17軒は都内にあったと思われる。いずれもその日暮らしの住民が集うエリアであり、大学(学習院)や軍隊の士官学校があった地区にほど近いところにあった。

残飯屋の商い

残飯屋は朝食、昼食、夕食の時間帯ごとにそれぞれ大八車を引っ張って、残飯を仕入れて販売するを毎日3回を繰り返す。労働時間はゆうに12時間を超えたはず。一日中ご飯と闘っていたフードファイターだ。

残飯屋の商品は2つに大分される。①上飯(汁茶などのかからぬもの)②下飯(粥食、汁茶のかかったもの)だ。当時の斤量単位である「貫目」は、1貫目≒3.75kg。明治期の1円の価値は現在の1,490円程度の価値とされ、大正期の1円は1,080円程度の価値があったとされる。

①上飯:1貫目10銭 ≒ 3.75kgを現在の価格にして約108円で仕入れた
②下飯:1貫目5銭 ≒ 3.75㎏を現在の価格にして約54円で仕入れた

そして、上記①・②には含まれない、いわゆる”おかず”として「お菜、沢庵、野菜の屑、魚類の屑は付属品」とされ、

残菜は其役得として無代償にて掃いさぐる

ようは【タダで】もらえたということになる。「兵隊飯」とも称され、百食十八銭が相場とされた。百人分の兵隊の残飯が18銭ということであり、その時々の兵隊さんの残し具合により供給量は変動したそうだ。

真偽は不明であるが、引用した書物『無産階級の生活百態』では、以下のように記されている。当時もある階級は飽食真っ只中だったようだ。

「日露戦争当時は、兵隊の氣が荒立つて居て、真面目に七分三分の麦飯など喰つて居る者はなく、毎日酒浸しになつて居たので、炊いた飯は悉く残飯を造るやうなものであつたそうだ」

気になる売価は以下の通り。安く仕入れ、高く売る。商売の基本が反映されている。

・上飯:1貫目20~25銭
・沢庵:一掴み1銭
・汁: 5合尺1杯(900ml程度か)1銭

一つの店で10~14,15人ほどの人を雇い、月4~5円の手間賃が支給されていた。且つ飲食はかからない(”炊事場で御馳走になつて来る”)。経費を抑えながら、残飯が供給されなくならない限り回り続けるビジネスだったといえる。

それでも売れ残った残飯の行方

残飯を提供する人、その残飯を売る人、買う人。需要と供給がバランスとれていれば問題ないが、それでも【余る】ことはあったそうだ。その行き先はどこか。

売れ残った上飯は、いまの上野1~3丁目周辺に菓子種屋があり、”相當の代価”=相応の価格で売りさばけたそうだ。この菓子種屋で加工され、大福餅やおこしの原料となった。食品リサイクルのはしりかもしれない。

売れ残った下飯は「豚餌」と称して、4斗樽にて24~25銭程度で豚を飼う家に売りに行ったそうだ。4斗は60kgであるから、これを郊外に売りに行くのも重労働であったはず。しかし、ほぼ仕入れコストゼロで24~25銭の売上があがるのであれば、万々歳だったと思われる。ロスを極力生まず、売り切る商売魂ここにありと言える。

残飯屋を商売としてみる

所詮インターネットで分かることなどはたかが知れている。「残飯屋」というワードでググると、当時の貧困状況を証左する資料が主で、商いとしてどうだったかこれっぽっち分からない。残飯屋を生業に当時を生き抜いた人がいるとすると、それ相応の可能性があって生計を立てていたはず。どこかで別の資料があるのだろうか。

【参照文献】

トップのイラストは『最暗黒の東京』81頁から引用した。”残物屋にて貧民飯を買ふ”とリード文も入っている。

『日本之下層社会』、横山源之助著、明32.11

『無産階級の生活百態』、深海豊二 著、大正8

『最暗黒の東京』、松原岩五郎 (乾坤一布衣) 著、明26.11