「相手を理解すること」の本当の意味とは?
お疲れ様です。
そして久しぶりです。
今日のテーマのは相手を理解することとは、ということです。
私はこれまでの長期の海外生活、幾度の転校によって、知らない人とどう仲良くなるかということを頑張ってきました。そんな中で、相手を理解できるように尽くしてきました。
結論から言わせてもらって、「相手を理解することは不可能」だと考えています。
言い方を間違えました、相手を理解することは必要ないのです。
なぜなら、
相手を理解するまでの関係を作れるのは基本的に長い時間を共にした人、つまりとても少数の限られた「親友」とも呼ばれる存在だからです。
つまり、ついさっき出会った人と理解し合うなど不可能なのです。
ここで勘違いしてはいけないのは、
「仲良くなる」と「相手の理解」です。
仲良くなるとは、
趣味や共通点から話が合って、急に仲良くなることです。これはつまり、高校の初日に出会ったクラスメイトとサッカーという共通点を通じて盛り上がり、急にギュッと距離が近づくイメージです。
相手への理解とは、
長い年月を積み重ねて得た「信頼」が必要となってきます。つまり辛い時間や楽しい時間を多く共有した相手と「信頼」を通して、お互いの弱いところや秘密などを共有する仲になっていくことが必要です。その上で、その人の好みや、相手が嫌がることをプラスとマイナス両方で、「配慮」できるようになります。
この場合、じゃあ相手を理解することは無理なの?という疑問に陥ります。
しかし私はそうとも思いません。
生きていく上で、人間は浅く関わる人が無限にいます。それはつまり、高校の部活の先輩や、サークルの友達など、何回かは話したことはあるけど、対して仲良くない人のことです。
私ははそういう人に対して、理解ではなく「配慮」が必要だと思います。
理解するまでには時間がかかりますが、全ての人に理解をするには何百年あっても足りません。つまり必要なのは、「配慮」なのです。
配慮とは?
配慮することとは、寛容的に受け入れることだと私は考えています。その人がどこの誰であろうと同じ人間として平等に接することです。
生きてる上で、自分が合わない、自分のことを否定してくる人は必ずいます。それぞれの人が違う考えや価値観を持っているので、むしろそれをみんな統一しろというのが不可能なのです。自分と全く違う容姿や文化を持った人に対して、「自分が知らない」という理由だけで、否定や偏見を持って軽蔑される場面が多くあります。知らないことは恥ずかしいことではありません。むしろ自然なことで、時間を重ねることで、「こういう人もいるんだ」という寛容的な受け入れる心に繋がります。つまり、誰にでも等しく優しい人間になることが私は大切だと思います。
最後にも言いますが、相手を理解することはとても深い関係でなくてはできないことです。そして、人間基本的に深く関わる人はほんの一部の人間だけです。つまり、8割〜9割の状況で必要なのは、相手への「配慮」です。相手がどのような人でも、自分の偏見や固定概念から物事を否定してしまうことは一番してはいけないことです。しかし、人間とは自らの経験から偏見などを持つ傾向があります。しかし、それは間違いではなく、その人の外部環境の影響によるものも大きいです。
つまりこのように、自分が違和感だと感じること対して、ただ決めつけて否定や偏見を持つのではなく、まず客観的に考え、一般的な認識などを議論した上で、広い視野から自分の主体性や自分なりの考え持つことが大切だと思います。
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