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外国人に生け花を(6)

今回は外国人に生け花を教える難しさの根本原因、そして、その難しさをどのように克服すべきかについて、考えてみましょう。「外国人に生け花を」シリーズの最重要ポイントの章にしたいと思います。

何度もお断りしていますが、外国人の中にはとても生け花が上手な方がいらっしゃいます。それはまずきちんと確認しておきたいと思います。それに、日本人の中にもなかなか生け花がうまく作れないという方がいらしゃるでしょう。

ですから日本人対外国人という対比構図は、ナショナリスティックであると批判されても仕方ないでしょう。それは覚悟の上で、話を分かりやすくするための便宜上の区別とご容赦ください。一般的な日本人の傾向対一般的な外国人の傾向といったあたりの話です。

実は、この日本人対外国人という対比構図、学術論文で私は安易には、使ったことがないと思います。また、そんな構図を使う議論などいかなる学会であれ、問題にされないでしょう。ただ、ここではとても便利なのです。


非生け花作品の特徴

「これは外国人の作品だな。自由花でも日本人はこういう作品は作らないな」と思うことがよくあります。生け花と呼べるほどには「花が生きていない」のです。

ゴテゴテと造花を寄せ集めたようなもの。失礼ではあるのですが、「非生け花」としか言いようがない。その作者が、たまたま私の生徒であった場合、どのように指導したらいいのだろう、と大いに悩むことになります。

悩み続けると、私の場合、新しい指導方法を考えついたり、オンラインコースができたり、生け花フェスティバルを企画するところまで発展していくのですが、それらについては別の機会にお話しさせていただきます。

ともかく、「非生け花」の特徴のひとつは、線の硬さ。まあ、例えば、直立不動(気をつけ!)のままダンスを踊っている感じです。不自然で、硬いなあと感じます。詩性も楽しさも感じられません。

そして、最も根本的なところでは、生命感がないのです。

生け花で自己表現?

もしかすると、「生け花は自己表現」だという教えを勘違いしているのではないでしょうか?「生け花は自由な自己表現」だという主張は1920年代頃から日本の生け花の世界でなされているものです。生け花は芸術だ、自由花という芸術を広めようという動きがありました。西洋芸術のモダニズムの影響でしょう。つまり、西洋の考え方を生け花の世界に導入しようという主張です。

しかし、日本においては、生け花とは自然素材を尊重しつつ、自然の美しさや生命感を表現するものという「大前提」があって、それを踏まえて、そこに若干自己主張も加えてみませんか、という程度の理解で受けとられたのかもしれません。

というのは、初心者はともかく、熟練の華道家には、とことん自己表現だけの(素材の自然性を完全否定した)生け花作品はあまり存在しないように思うからです。基本的に自然素材の持っている面白さ、美しさを発見したなら、それをあえて壊すようなことはしないだろうと思うのです(例外もありますが)。華道を極めるにつれ、自己が後退し、自然が前面に出てくるということかもしれません。

自然を尊重しつつ自己表現する日本人

自己といっても、日本人と西洋人とで、同じ意味でしょうか?自由に自己を表現した生け花、と日本人が言う場合、そこに表現された自己とは、自然の一部としての自己かもしれません。自分も自然の一部だと認識しつつ、自然素材の持つ味(生命感そのもの)、線、動きを尊重しつつ、制作していくわけで、人と自然の共同作業のようなもの。

おそらくその創造過程の理想は無私の境地ではないでしょうか。深い瞑想状態とも言えるでしょう。生け花の創造体験の一番深いところですが、皆さん、いろいろな表現でそれを説明してくださっています。
「花と話しつついけていく」
「花と一体になっていけるのだ」
「自分を優先させるのではなく、花を優先し、花に従うのだ」とか。
私なら「頭で作るな、無意識で作ろう」とでも言うかもしれません。

華道史上、稀有の華道家であった山根翠堂(本文付記参照)は次のように書いています。
「花をいける人の心が、花の心に同化して、花のように美しい心にならなければ、決して、その本来の使命に忠実な、真に芸術的な『いけ花』はできません」(「花に生きる人たちへ」中央公論美術出版)

花の心に「同化」する、という言葉の意味は深いと思います。「花」という視覚の対象ではなく、目には見えない、その「心」を感受せよ、そこに同化せよ、ということです。花は素材という客観的対象以上の存在になるのです。

客観的な素材としての自然

ところが、ことに戦後、海外にも生け花学習者が増えていきます。そこで「生花は自己表現だ」という自由花の教えを伝えた場合、どうなるでしょう?

自分たち本来の考え方が戻ってきているわけです。「日本文化だと思って生け花を始めてみたら、中身は西洋文化じゃないか」「いけ花なんて西洋フラワーアレンジメントと同じじゃないか」と。自然は制作のための客観的な素材でしかない、ということがそのまま受け取られます。

日本では前提としてあった自然観がないわけです。

自分は自分、自然は客観的な対象としての素材。人と自然は断絶しています。この指摘は多くの著名な方々が、日本人の自然観対西洋人の自然観として書いていることと共通しています。おそらくそのような日本人論を読んだことがあるという方も多いでしょう。

実は、それはあまりに紋切り型で、単純すぎる対比です。前述の通り、日本国外で、あるいはまともな学会で、そんな話をしたら、「カンベンしてよー、日本人特殊論」と誰にも相手にされませんね。

しかし、こと「生け花は自己表現だ」という主張の解釈について考えていく際には、この紋切り型の比較が参考になるように思います。

提案1:外国人に対しては別の教え方を

では、外国人にどう教えていくべきか。まず、外国人には「生け花は自己表現だ」などということは、「あえて」言わない方がいいでしょう。自然尊重ということをもっぱらとしてもらうといいと思います。そして、自然を尊重する表現ができた後で、ゆっくり自己表現について考えて貰えばいいのです。

「花を愛さなくても生け花はできるんだぜ」というようなアホな本を出している外国人がいます。こういう勘違いが生じないようにするためにも、これは大切なことだと思います。こういう生け花教師を輩出している流派はその指導に検討すべき点があるのかもしれません。反省して下さい。

提案2:瞑想としての生け花

次に、もっと花を見つめなさい、瞑想しなさい、ということを強調して指導していくことかな、と思います。最近、その趣旨で英語であれこれ書いてみました。そういう指導ができないと、海外では私たちはまともな生け花を教え、伝えていくことができないように思うからです。Shimbo, S. (2021). Ikebana: A Flower Arrangement in Search of Poetry. Garland Magazine.

フラワーアレンジメントの中の、西洋式に対する日本式アレンジメントを生け花というわけではありません。多くの外国人はそのように考えているのかもしれませんが。生け花は西洋フラワーアレンジメントとは異なる文化体系です。両者の相互影響があったことは確かですが、思想的にも歴史的にも別の文化です。生け花は西洋文化でいう、芸術、デザインの要素は持っていても、その中におさまってしまうものではありません。ひとつの重要な点は、作品という制作結果と同じ位、制作過程を重視することでしょう。その過程での作者の心のあり方を重視します。

つまり、生け花を教えるということの本質は、生け花が瞑想だということを教えることだと思います。

おそらくこれは日本国内ではそれほど意識しなくてもいいことだと思います。説明しなくても生徒は自然に瞑想体験を身につけていくのではないでしょうか。生け花とは「本来そういうもの」だからです。しかし、外国人に生け花を教える際には、最大の障壁になるように思います。

瞑想ができない故の障壁

最近、ある生徒から、もっと別な方法で指導してくれとあれこれ言われました。この障壁の手前で迷い、フラストレーションを抱えている生徒です。

彼女の希望をよく聞いてみたところ、彼女の生け花理解がわかってきました。いろいろなデザインの型を覚え、花という材料をそれに当てはめて生け花を作るのだと考えているようなのです。まず、最初に自分の頭にある型がある。それを表現するために花を選んで素材(客観的な対象)として使う。そのためにいろいろな効果的な型を教えてくれという要望なのです。花(自然)に従おうというのではなく、人に自然を従わせようということです。

先に書いた西洋人的自然観による生け花理解の典型です。基本型の勉強(そして、様式化された古典花の制作なども)はそのような態度で始めることになるでしょうが、自由型に移って、数年したならば(ましてや師範をとったならば)、そのような、頭だけで作ろうという態度ではいけません。生け花の本質に至ることはできません。

花を客観視することをやめられないのか

生け花のデザインは自分の頭から捻り出すのではなく、むしろ無私の境地で素材から(あるいは自分の無意識から)抽出するものだと教えたいものです。そこには、花との共同作業、一体化、同化、といった瞑想体験が必要です。花の生命感を感受し、それを大切に表現してあげるということでもあります。花を客観的対象として見ているだけでは到達できない境地です。

生徒がそこを理解し、体得できるかどうか。そこがポイントのような気がします。デザインという結果ばかりをみていてはいけない。過程を重視しなさい。生け花はデザインじゃない。生け花は瞑想なんだと、強調していくことでしょう。

それで生徒が離れていくなら、仕方ないですね。金のためだけに生け花指導をやっているわけではないのです。譲れないものは譲れません。

もしかすると、生徒は自然観の変更を迫られるかもしれません。その変更が可能なら、生け花を海外に広める意義はとても大きいように思います。この点は重要なので、さらに深く考えていきたいと思います。

付記:山根翠堂について

上記の著書、「花に生きる人たちへ」について付け足しておきます。私が自由花運動について小論文を書いていた時、真生流家元山根由美様にお問い合わせをしました。お返事とともにこの本を送っていただき、とてもありがたかったです。生け花が直面する今日的な課題にも多くの示唆を与えてくれる名著だと思います。

そこで、山根家元のご承認のもと、この著書を英語に訳し、国際いけ花学会の学術誌に紹介しているところです。これまで一部を抜粋して抄訳してきましたが、AIを使うと翻訳作業が素早くできますので、次年度の学術誌にはひとつの章、全てを翻訳の上、紹介するつもりです。

なお、上記の自由花運動についての小論文は、インターナショナル・アカデミック・フォーラムという学会で発表し、英文で出版されましたが、後に和訳が以下の書籍の第一章に収録されました。数少ない和文による私の論文のひとつです。目を通していただければ幸いです。

新保逍滄「第二次大戦前後の生け花場における自由花運動の相対的位相 (Relative positions of Freestyle Ikebana Movement in the field of ikebana before and after the WWⅡ)」, 「はじめて学ぶ芸術の教科書、伝統文化研究編」井上治、森田都紀(編)所収、京都芸術大学芸術学舎

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