イノベーションを起こすには、自分自身の狂信者にならないといけない?
以前、大学でイノベーションの授業を手伝っていました。そのときの講師の方が印象的なことを仰っていたのを覚えています。曰く「イノベーションを起こすなら、自分が自分の狂信的な信者であれ」と。もう10年くらい前の話なので細かい言葉は覚えていませんが、おおまかなニュアンスは捉えていると思います。
筆者も新規事業に関わった期間は長いため、この感覚はよく分かります。ここで自分なりに要素分解をしてみましょう。
客観的には納得できない理由で何かを信じる
哲学のひとつである認識論のJTB説によれば、知識というのは3つの要件を満たす必要があります。
それが真実であり
その人がそれを真だと信じていて
そう信じることを正当化する理由がある
というものです。
さて、いま起こそうとしている事業が成功するかに関してその人が知識を持っているかを考えてみましょう。真実かどうかは後からしか分かりませんので (1)の条件は満たしません。成功を信じているから(2)は満たすとして、(3)の正当化が問題になります。つまり、狂信的であるというのは、普通はその理由では信じるに至らないような状況で、その人は信じている。言い換えるなら、その人が信じる理由が、他の人にはまるで納得も共感もできないので、狂っているように見えるということです。
常識の外へアクセスするには
なぜイノベーションを起こそうと思ったら、客観的には狂っている前提なりロジックなりを信じねばならないのでしょうか。きっと正しく社会を生きてきた読者の皆さんには全く理解できないでしょう。ここは更に論を進めなければなりません。
まず、客観的に狂っている主張とは、何か無謀だったり細部が破綻していたりと、極めて蓋然性が低い内容だと推測されます。冷静な知性の持ち主なら加担しないような、そんな言説です。しかし世界は広く、人類の歴史は長い。その中で、あっと驚くほど新しく、世間の物議を醸すほど重要であり、実現したら嬉しいほどの有用性があることを考えようと思ったら、常識からは何歩も離れる必要があります。当然ながら常識から遠ざかるほどに破綻は大きくなり、夢と現実の別もないような状態になっていきます。それを、夜な夜な妄想するに留まらず白昼に業として行おうとするならば、狂っていると言われても仕方ないのではないでしょうか。
科学哲学者のポール・ファイヤアーベントは、科学の歩みを止めないためには「何でもあり (anything goes)」と言っています。
反証可能性を説いたポパーは、科学とは先人や自らが誤っていることを証明しながら進歩すると考えました。それに対し弟子のラカトシュは、科学界に斬新なコンセプトが出現すると、多くの科学者は (誤っていることを立証しようとするより) その新説の有用性を強化するような研究を行うことが多いと考えました。クーンのパラダイムの考えを引きつつ、ポパーの主張を批判的に発展させた形になります。その結果として、科学に新しい主張が生まれる構図が弱くなってしまった、それに対する処方箋(?)を提示したのが先のファイヤアーベントです。いまその世界で合理的・常識的とされている枠組みの外に出た、非科学的な主張なり手続きなりから新しい科学が生まれるかもしれない、ということです。
このファイヤアーベントの主張を経たあとに、先ほどの「客観的に狂っている」という表現を思い出すと、本質が浮かび上がってくるでしょう。新しいことをするためには、科学において非科学的な要素を排除してはいけないのと同様に、ビジネスにおいても非常識なコンセプトを考慮する必要があるということです。
常識外のことを信じる
ですが先の主張はそれでは終わりません。「信じる」という要素が入っています。
常識の少し外側に出ることは、決して難しいことではありません。気の置けない仲間たちとリラックスした雑談をしていれば、常識外の思い付きが出ることはよくあるでしょう。あるいは研修のように、業務を離れた場でいつもよりクリエイティブになれることもよくあります。
しかし、そのアイデアを自分の本業として、自らの資金や時間を注ぎ込むとなると話は変わってきます。急に現実が襲い掛かるからです。成功確率。資金調達。人生の時間。いまの仕事を捨て、家族にも大きなリスクを背負わせるかもしれない。その決断をしようと思ったら、第三者的な視点では乗れません。なぜなら客観的には狂っている主張だからです。ですから、イノベーションに関わろうと思ったら信じないといけないのです。それ以外に100%の力を出す方法はありません。成功する前にふと我に帰ったら、撤退以外の選択肢は浮ばなくなってしまいます。
もちろん、信じることと盲信することは違います。コアの主張は信じつつ、それ以外の部分を冷徹に見つめないといけません。コアの主張が狂っているのにそれ以外を客観的に見れば、どこか破綻しているに決まっています。そのバランスを受け容れ、破綻に気付きつつ平然と信じるという態度こそ真に狂人であり、まさに狂信者の名にふさわしいのではないでしょうか。
自分を信じる、しかも常識外の事柄で
しかも、先の言葉は「自分が自分の狂信的な信者であれ」でした。
信者というものを考えたとき、何か自分より大きな、とてつもない物事に出会って価値観が変わり、それを信じるようになるのは何となく想像できるような気がします。しかし、その内容を自分で作り上げ、しかもそれを信じるなどということができるのでしょうか。
イノベーションを起こすというのは、それを要求されているのです。
何か新しいアイデアを思い付くだけでなく、それを人々に信じさせ、資金を調達し、実現に至る。そのプロセスを最後まで突き詰めようと思ったら、自らは教祖にならないといけません。金儲けのために作られた新興宗教であれば、意識的な詐欺でわずかな信者から多くを巻き上げればいいかもしれませんが、社会に大きく影響を及ぼす製品やサービスを届けようと思ったらそうはいきません。一言一句、一挙手一投足までそれを肯定できないといけないのです。つまり、それが人生の一部になっている必要があり、だからこそ自分が自分の信者という言葉になるのです。
イノベーションを起こすということがイメージできたでしょうか。
実際には、目の当たりにした社会課題だったり、ふと知った新技術だったりという偶然が自分の中で大きく膨れ上がり、もはやこれに着手しない自分が想像できないというような形で心境が変化して、この状態に至るのでしょう。オペレーショナルな業務に比べるとあまりに大変で、成功確率も低く、客観的に割に合う仕事ではない以上、内発的な動機付けが大きな理由を占めます (会社勤めに向いていないと感じた人が主に起業するというデータも見たことがありますが、その場合はここでいうイノベーションとは遠い、あまり革新的でも野心的でもない事業内容になるのだと筆者は推測しています)。
イノベーションとDXは似ているが、全く同じではない
さてここまで長々と書いてきましたが、いよいよ本題に入りましょう。この文脈でDXをどう扱うかです。
筆者は、DXはイノベーションの一種であると考えています。しかし本稿のイノベーションは、起業など新規事業を強く意識させるものでした。それに対し、既存事業の変革も同じなのでしょうか。狂信的でなければならないのでしょうか。
ところで、経営者がROIの定かでない案件に関し、肝いりの「戦略投資」と称して強力に推進することはよくあります。これは、信じているのでしょうか?それとも信じずに少し試しているだけなのでしょうか?
経営者が自ら思い付いたアイデアに関して、理屈を超えて、周囲の理解を超えて拘泥するのは珍しくありません。その客観的には共感しがたいモチベーションを見るに、企業変革とは会社レベルのイノベーションと非常に近いと言えるでしょう。一方で、企業変革とは必ずしも世界初を意味しません。自社にとって新しいことでも、他社が既に経験していることならば、狂信的にならずともある程度の推進力は確保できます。ですから、先に述べたDXはイノベーションの一種だと言うのは単純化しすぎで、イノベーティブではないDXもあるというのが実際の姿だと思います。
もうひとつ重要なのは、新規事業は本業と離れた位置でマネジメントされますが、DXは現業そのものの変革ということです。ですから『イノベーションのジレンマ』か『両利きの経営』のように、本業からどの程度離すかというバランスの話ではなくて、同じ場所の中で、ひとつの利き腕で成し遂げられなくてはならないのです。カリスマがMTP (Massive Transformative Purpose、世界を変える野心的な目標) を掲げて企業を立ち上げ、共感した人々のみが集うような、そんな単純化された運営ではなく、様々な立場や感情が渦巻く状態をうまく乗り切ってゴールにたどり着かないといけないのです。
この2つの側面を考えたとき、新規事業的なイノベーションとDXを完全に同一視するのはミスリードでしょう。ではその種のイノベーションから学ぶことは何もないのでしょうか。
企業における「信じる」を考える
イノベーションの狂信性を分解する過程で、「客観的に狂っている」という話をしました。それは知識の3要件の(3)「信じることの正当化」から来ていたことを覚えていらっしゃると思います。
ビジョン駆動やパーパス経営は、大なり小なりこれと似ています。ビジョンやパーパスが会社の現業と無理なく接続されているとき、社員は会社を信じることができるかもしれない、という意味です。確かにスティーブ・ジョブズやジェフ・ベゾスのような強烈なビジョンではないかもしれませんが、いま道筋が見えずとも将来の会社のありたい姿を共有し、なぜここに集うのかに深く共感しているメンバーならば、信じることが正当化されている状態と言えるのではないでしょうか。もちろん、経営者自身がビジョンやパーパスより他のことを優先したり、他の社員がそう振る舞ったときに咎めなかったりしたら、あっという間に魔法は解けて変革は終わりを告げるでしょう。つまり、トップがビジョンやパーパスを体現している限りにおいて、変革はイノベーティブであり得るのです。
もうひとつ、信じるという動詞の特徴があります。他人に何かを信じさせるのは簡単ではないが、自分が信じたことは簡単には覆らないということです。先の記事でも紹介したように、センゲは「多くの経営者が直面する最も厳しい教訓は、結局のところ、他者を参画、あるいはコミットさせるために自分ができることは一切ないということだ」と言っています。これは、他人の行動は強制できても信念を強制することはできないということです。
ですから、信念に至るプロセスが重要になってきます。正解が外部から与えられるような、他人事から始まる話が、ついに信念に至る確率は非常に低いでしょう。それよりは自分の問題から始め、その解決法にも自分で気付くことで確信を持つに至る方が、はるかに力が出ます。安っぽい自己啓発セミナーのようで書いていて嫌になりますが、でもそういう話です。
その意味で、変革とは答えを与えられて始めるべき活動ではありません。個人であれ、組織であれ、どこに問題があってその解決方法は何なのか、自らが主導しないと進まない。逆にそこで信念に至ったならば、イノベーティブな変革が可能になるという構図です。
リーダーは自分を信じる必要がある。そして誰もがリーダーシップを発揮しうる。
このように、イノベーションとDXとは類似しつつも部分的には異なりそうです。それでも、ある程度以上の変革を遂行しようとするならば、やはりリーダーが自らの狂信者、しかも冷静で客観的な視点を併せ持った真の狂人であり、それを説得的にするカリスマのような力を持っていないといけないのは、たぶん避けられません。本人は自らが狂っていることを知っていてもいいですし、自称は常識人でも構いませんが、リーダーが信じていない限り力のある挑戦にはならないでしょう。
筆者の基本的な姿勢は、DXは誰でもできる活動であり、多くの人が関わった方がいいというものです。しかし本稿はあまりにもハードルを上げてしまったでしょうか。
筆者が思うには、人はもう少し自分を信じるようになってもいいということです。本稿で特にハードルが上がったのは会社のトップ層ですが、彼らは普段からビジョンや戦略を策定するなど、もともと自分を信じることに慣れている人種です。むしろ簡単に信じすぎないよう多様な視点を入れるためにダイバーシティが求められているくらいなので、(狂信者と言われるのは心外かもしれませんが) いま以上の信念が要求されている訳ではありません。むしろ整合する行動こそ重要でしょう。
だとすると、いま以上に自分を信じて欲しいのは、いわゆる「非公式リーダー」と称される、ピラミッド型の組織の長ではないが潜在的には変革において最も重要な人々かもしれません。
そういえばDXスキルツリーでは、ビジネスリーダーの必須スキルにプロダクトマネジメントを含めました。世間ではプロダクトマネジャーが将来のCEOの試験場とかミニCEOとか呼ばれていることを考えれば、常識に囚われず冷徹に自分を信じる力がDXを牽引するのに必要というメッセージは一貫しています。小規模で漸進的なDXであれば狂信性は必要ありませんが、ある程度以上の変革を牽引しようと考えるなら、イノベーターたらんという心構えはきっと参考になるでしょう。
追記
「狂信者」という言葉の否定的なニュアンスを考え、本稿では別の言葉を使おうか迷いました。しかし、変革を遂行しようとするならば、この程度は飲み込む必要があると感じそのままにしています。他人の風評を恐れ減点法で過ごす人にリーダーシップは発揮できませんので、判断は間違っていないと思いますが、一方で狂信者というラベルを貼られると思いながらファーストペンギンになれる人が多くないのも想像できます。何かいい言葉が出てきてほしいですし、その言葉が人口に膾炙する頃にはイノベーションやDXが社会に定着しているのではと想像しています。
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