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ChatGPTで何が変わる? 仕事、情報の流通、知識の形

AIで仕事がなくなるのか、外注をヒントに考えてみる

ChatGPTなどの大規模言語モデル (LLM) は、どうやら本格的に業務に影響を与えそうです。例えばIBMはChatGPTの登場から間もない時期に、関連職の採用を控えるという方針を打ち出しました。今後ホワイトカラーの仕事がどうなるのか、目が離せません。

私たちの仕事もAIに置き換えられてしまうのでしょうか。技術的にある程度可能になったとき、何が起きるのでしょうか。


まずその手前から始めましょう。外注で代替可能だった業務は全てなくなったのでしょうか、という問いです。

米国のデスクワークにおいて、単純な作業に近い部分は、言葉が通じるインドに多く外注されてきました。日本語に関しては、以前から中国がその役割を果たしており、給与計算やサポートセンターは一般的になっています。最近はソフトウェア開発をベトナムやフィリピンに頼むケースも多く、確かに仕事は海外に移る傾向があります。既に機械翻訳は実用レベルに達していますから、今後は言語の壁がいよいよ低くなり、先進国の多くの仕事がより人件費の安い国々にアウトソースされるでしょう。これまでは縁の遠かった様々な国の人々と、日本語で仕事をする姿は容易に想像できます。


更に一歩下がって、仕事を外注するか社内にチームを持つべきかを問うてみると、なぜ会社というものが必要かという点に行き着きます。全員がフリーランスで、タスクが発生したときだけ募集が掛かり、それをこなしては解散するという仕事スタイルはうまくいかないのでしょうか。

ロナルド・コースという経済学者は、これを「取引費用」という考えで説明しました。社内でこなした方が安くつくときはチームを社内に持つべき、という非常に単純な話です。ではどんな時に安くなるのか。例えば、市場で安定して入手できる商品やサービスは、外部から調達した方がいい。でも特定の会社からしか買えないものがあれば、どんなに高い価格を提示されても買わないといけないので内部に持った方がいい、といった具合です。

さてそんなコースの取引費用理論ですが、仕事を頼むときの複雑さという観点があります。例えば社内なら「○○の件お願いできますか?」「はい、△△を優先し念のため□□も含めます。明後日までに8割の状態にしておきます」といったやり取りができるとして、それを外注することを想像しましょう。仕様書の策定・外注先の検索・見積り・決定・発注・進捗確認・検収・支払いなど、少し想像するだけで、とても毎日の業務を効率よくこなすことはできないと分かります。つまり、定型に近い業務は外注に向くものの、ある程度の柔軟性を有する仕事は社内でこなすのが自然なのです。裏を返せば、少しくらい質を落としてでも個々の説明が不要な形に業務を標準化しておけば、外注が可能な安くつく場合があることを意味します。

質疑をAIに任せられると外注が進むかもしれない

ここでLLMの話に戻ります。

先に述べた通り、これまでは業務を標準化・定型化しない限り、チーム外とのやり取りが膨大になってしまいました。しかしAIが文章や質疑をうまく扱えるようになると、そこの問題が解消します。つまり、標準化度の低い業務であっても外部に発注可能になるのです。発注元が訓練したAIを提供して、発注先の人はそのAIと質疑を繰り返して業務を理解し遂行するイメージです。もし本当にこういうことが実現すれば、文章・文脈を必要とするという取引費用の高さが解消され、加えて先に述べたように言語の壁も低くなるため、相当の業務まで外注する費用が下がるでしょう。筆者が考える限り、LLMが企業の姿に与えるインパクトは、もちろんAI自身の吐き出す内容が有用なのもありますが、外部とのやり取りの負荷が低減するというポイントも無視できないのではと思っています。ですので、序盤の「私たちの仕事もAIに置き換えられてしまうのでしょうか」という問いに対しては、AI自体の実力向上に加え、AI支援でやり取りの負荷が下がるので外注も増す、でも市場で容易に調達できない専門性や、やり取りが複雑な業務は社内で持つことになるだろう、というのが筆者なりの答えになります。なお、これ以外に取引費用理論では「不測事態の予見困難性」、つまり将来が読めないが事業存続に必要な機能も内製化が良いとされています。

そもそもなぜ文章が必要なのか

さて、ここからもう少し抽象度を上げてみましょう。

そもそも、人間と人間は、なぜ文章でやり取りするのでしょうか。例えばスポーツのニュースであれば、アナウンサーに読み上げてもらわなくても、スコアや個人成績などの数字だけで情報は十分足りているはずです。会社で業務を指示するとき、わざわざ文章を書かなくても、作業指示書のように表形式で記載することができるはずです。論文だって実験手順も結果も文章で書く必要はないでしょう。だいいち、なぜ筆者はいま伝えたいことを文章にしているのでしょうか。

以前にも述べたように、将来は本当にそうなるかもしれません。つまり、人と人とのやり取りは、少なくとも仕事においては、文章を介さない形になるかもしれない、という意味です。

分かりやすい例を挙げましょう。市場では非常に多くの株式が取引されています。そしてどの株が上がっただの、どの会社の決算が不調だっただののニュースが絶え間なく流れてきます。これらのニュースは、今後はデータからAIが生成することになります (既にある程度は実現しています)。そしてあまりにニュースが多いために人間には処理しきれず、読者はAIを用いて集約したものを読みます。これは壮大な無駄ではないでしょうか? データから記事にするときに一部の情報が失われ、複数の記事から要約を作るときに情報が失われ、無難で面白くもない内容をさらっと読んでおしまい。それよりは、そもそも消費者が直接データを受け取り、自分にカスタマイズされたAIで自分の関心に合ったニュースを生成して読む方が、よほど面白いのではないでしょうか。

ここで流通しているのは、文章でなく生データです。あるいは、自分で訓練したAIを他人に提供することで、質疑は勝手にやってもらう未来。そのとき流通するのは訓練済みモデルです。これも文章ではありません。

仕事において会話や文章のやり取りがなくなる未来。荒唐無稽でしょうか。ディストピアでしょうか。


逆に考えてみましょう。生データを流通させて手元のAIで文書化するのが自然な時代を想像してください。あなたが知りたいときに知りたいトピックを指示すると、AIが生データをネットに読みに行き、文章化して読んでくれます。毎朝のニュースも、自分の興味に沿って最新のデータから自動生成してくれます。売上データも先週との違いを可視化したグラフを生成し解説文も付けてくれます。さてそんなご時世に、自分の口で説明すると意気込んでやってきた営業担当者の話は、分かりやすいでしょうか。面白いでしょうか。

このとき、AIより正確なことは望めないでしょう。けれどもAIより魅力的な可能性はあります。その魅力の何割かは、仕事とプライベートの境目が少しゆらぐような雑談の妙にあるかもしれません。あるいはAIと違ってないがしろにできない存在感から来るのかもしれません。その人の時間を占有しているという贅沢感からかもしれません。いずれにせよ、情報の正確さとカスタマイズに関して人間はAIに劣るという前提で、人間に何ができるのか考える時代が来る可能性があります。

LLM以降、知識の形が変わるかもしれない

DIKWモデルをご存じでしょうか。人間には可読でないデータ(Data) から情報 (Information) を抽出し、それを解釈して知識 (Knowledge) とする。それを体得すると知恵 (Wisdom) になるという考え方のことです。ここでAIがデータから情報あるいは知識を抽出できるようになれば、人と人が流通させるのはデータの方がいいのでは、というのが先の仮説の意味です。

あるいはSECIの話はどうでしょう。知識というのは、初めは個人が言い表せない暗黙知という形で持っているが、それを共に体験することで共同化 (Socialization) し、対話や共同思考を通じて表出化 (Externalization) して形式知化する。その形式知を組み合わせて (Combination) 新たな形式知を作り出し、その新たな形式知を内面化 (Internalization) して個人の血肉とするというサイクルで、ナレッジマネジメントの金字塔的なコンセプトです。一方でこの考え方は、暗黙知は本質的に形式知化できないという激しい批判にさらされてもきました。しかし、AIが暗黙知を暗黙知のまま利用できるとすれば、このナレッジマネジメントの議論に一石を投じることになります。あるいは、このSECIの過程には激しい議論を通じて共感に至る「知的コンバット」が重要とされていますが、この相手をAIが担う未来が訪れるかもしれません。

このように、データと文章を自由に行き来し、発言パターンを模倣できるようなAIは、コミュニケーションと共に知識の在り方を変えてしまうポテンシャルがあります。別の角度から述べるなら、「言語は人類最大の発明である」という言葉がありますが、この最大の発明がいまや足枷となるときが来たのかもしれません。人間は伝達という点では文章でしかやり取りできない不完全な知能の持ち主であって、AIの方が幅広いデータ形式に対応できるとも言えるでしょう。いやむしろ、文章という曖昧な方法論は人間とのインタフェースという妥協の産物として残りつつ、データや情報伝達の主たる形式はコンピュータを中心に考えられるようになる可能性すらあります。


もちろん、冒頭の「人間と人間は、なぜ文章でやり取りするのでしょうか」という問い自体は不完全です。表情など非言語的なコミュニケーションもありますし、いまここに存在することそのものもメッセージ性を有します。生命が宿っていることが持つ何か根源的な側面も見逃せません。何より筆者の持論は「オフィスは雑談をするところ」です。AIの進展に伴って機能的な観点に議論が集中しがちですが、そもそも人と人は目的のあるコミュニケーションだけをする訳ではありません。効率や正確さより大切なものがあるということも忘れてはいけないと思っています。

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