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そんなにデジタル依存で大丈夫? デジタルネイティブを考える

DXを考えるとき、いくつかの思考の軸があります。ユーザ体験、バックキャスト、デジタルネイティブ、サービスドミナントロジック、民主化、データ駆動などです。今日はこの中のデジタルネイティブに関して考えてみたいと思います。

デジタルネイティブにとっては、いつもデジタルがあるのが当たり前

デジタルネイティブ。要するに、物心ついたときからデジタルがあるという意味です。デジタルネイティブというのは、デジタル技術やそこから派生するカルチャーを、肌感覚として自然に身に着けていること、更に言うなら、それ以前に生まれてもこの感覚を得られない、そんな特徴でしょう。

まず断っておきますと、筆者はデジタルネイティブではありません。初めてインターネットに触れたのは大学生のときです。遠い昔を思い起こせば、授業は対面で、紙の教科書で学び、調べものは図書館で行っていました。情報はテレビや新聞で入手していましたし、旅程は代理店に調べてもらっていました。そんな時代を過ごした筆者ですら、いまこのどれにも当てはまりません。まして、子供時代からデジタルに囲まれていたらどういう感覚になるのでしょうか。

かつてテレビ・ラジオ・書籍・辞書・漫画・ゲーム機・音楽プレイヤー・カメラ・地図・手帳・時計・手紙・Fax・そして電話などが役割を果たしていた機能は、いまや全てスマートフォンに集約されています。そしてこれは、(非ネイティブにとって) 驚くべきことには、デジタルネイティブにとって当たり前のスタート地点なのです。だから、例えば仕事を考えるとき、非ネイティブなら「スマートフォンでどんな仕事ができるだろう?」と考えるところを、ネイティブなら「どんな仕事だとスマートフォンでできないのだろう?」と考えるかもしれません。あるいはもう少し踏み込んで「スマートフォンでできない業務が必要なのだろうか?」かもしれないのです。

この説明だけではピンと来ない方もいらっしゃるかもしれませんので、少しアナロジーを使ってみましょう。

いま生きている人の多くは、生まれたときから電気が使える世代、いわゆる “電気ネイティブ” です。ですので、その前の世代の人に「電気が使えないときにどうする?そんなに電気に頼って大丈夫か?」と聞かれても、「非常用発電機を用意しておく」のような、相変わらず電気を前提とした回答をするでしょう。停電時に備えて大量の書類をプリントアウトしておくような発想にはなりません。

これと全く同じです。物心ついたときに存在したものに関し、それがない世界を想像することはないという意味です。デジタル技術がある前提で、発展形もリスクも考える。これがデジタルネイティブの思考だと想像できます。

ネイティブというのは、スキルより感覚の面が大きい

当たり前のことですが、人は後から “ネイティブ” になることはできません。語学で考えるなら、“ネイティブ並” の英語力を身に着けることはできても、USやUKに生まれ直すことはできないからです。特にその差は、スキル面というよりカルチャーの面で埋められないような気がします。幼いころに熱中したテレビ番組、学生時代の流行、友達にふと言われた一言、そういった経験がネイティブのカルチャーを形作るからです。

デジタルネイティブもそうでしょう。今の子供は鉛筆で字を書くより早くスマートフォンの入力方法を学びますが、それはどんな気持ちなのでしょうか。スマホで打てば、正確な文字がすぐに出て訂正も自由自在なのに、なぜままならない鉛筆で書き、大して消えない消しゴムで訂正しないといけないのか。段落の順序を入れ替えようと思ったら、スマホならカット&ペーストで済むのに、なぜ全面的に書き直さないといけないのか。スペルミスは全てAIが訂正してくれて、それどころか何千時間も勉強しないといけないレベルの翻訳がボタン1つでできるのに、なぜいま手書きの英作文をやらされるのか。

こういった問いが不満に聞こえるようであれば、反省しないといけません。それは、電気ネイティブ世代が「なぜお前は薪で風呂を沸かさないのか」と言われているのと同じだからです。どんなに熱く利点を列挙されたとしても、きっと旧世代の偏狭な屁理屈にしか聞こえないのではないでしょうか。

デジタルネイティブは (語学と違って) 世代論でもある

いまこの文章を読んでいる人の何割がデジタルネイティブで、何割が非ネイティブなのかは分かりません。この、読者が見えないということですら、ソーシャルなフィードバックをもらうのが当たり前なデジタルネイティブには信じられないかもしれません。そして、そういう人々が次々と会社を作り、デジタル以前の時代から続く世界を揺るがせています。アフリカの子どもたちはきれいな水洗トイレへのアクセスよりもスマートフォンにアクセスするほうがたやすいことを考えれば、ITの普及力が非常に強力なことは明らかです。あと100年もしないうちに全人類はデジタルネイティブになり、デジタルネイティブという概念は消え去ります。ですから、語学とは違ってデジタルのネイティブというのは期限付きの概念であり、力のある世代が拮抗しつつあるいまこそ最も考えるべき軸なのです。

ネイティブであること、それ自体に力があることは疑いありません。言語において、非英語圏の研究者がどれほど不利な状況にあるか話題になったのと同じく、生まれたときからデジタルに囲まれている人々は、この知識社会の中で圧倒的に有利な位置にいます。一方でネイティブは、普段生活している分にはその有利さを自覚できず、非ネイティブな人々に触れて初めて違いを自覚するのも語学と同様です。同世代と生きてきたデジタルネイティブが、会社に入って圧倒的なカルチャーショックに合うのは容易に想像できます。そこで問題なのは、もし非ネイティブの作法が優先されるとすれば、つまり電気ネイティブから見て薪で風呂を焚くようなプロセスが維持されているならば、会社としてDXの機会が放置されているということです。


デジタルは、幸いにもと言うべきか残念ながらというべきか、既に完全なメガトレンドです。それどころか、コンピュータとインターネットの登場は、農業革命・産業革命に続く第三の巨大な波であり、いま人類社会は変革の真っただ中にいます。いまのデジタルネイティブは幸運にもその波に乗った最高の世代なのかもしれませんし、産業革命において蒸気機関の後に電気の時代が来たように、更に大きな波が来て飲み込まれてしまうのかもしれません。いずれにせよ、全人類がもはや避けられないのだけは確定しています。

かつてデジタルディバイドといえば、僻地にインターネットが来ていなかったり、高齢者がPCを持っていなかったりすることで起こる社会の分断と疎外を意味していました。しかし2024年において、デジタルディバイドとは、単にアクセスの可否を意味しません。使いこなせるかどうか、意味が分かるかどうか、そしてデジタルを前提とした思考ができるかどうかで、発想力やスピード感、リスクマネジメントの分断が起こることを意味しているのです。


ここまで書き進めてきて、どうにもやるせない気持ちになってきました。ネイティブというのは真似できない・覆らない関係であって、分断を避けんとして書けば書くほど、分断を深めるような気がしてくるからです。これは結果的に世代論でもありますから、せめて他の世代論とリンクさせて終わることにしましょう。つまり、団塊の世代からバブル世代に掛けて、上り調子で夢のある時代を生きてきた人々がいまデジタルで苦労する一方で、経済成長も知らないZ世代やα世代が中心となって今後のデジタル時代を牽引するのは、ある意味バランスが取れているのではないだろうか、ということです。筆者を含む氷河期世代はついに脚光を浴びないままではあるのですが。

とはいえ、お互いの世代の理解が深まることは、社会として重要なことです。昔より社会の変化が速くなり、世代間の認識の違いはどんどん大きくなっているのですから。

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