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DXで古い企業を存続させるのは社会にとって善いことなのか?

DXに従事するのは正しいことではないのではないか。ふとそんな思いがよぎることがあります。


DXの虚構の側面には断固反対だけれど

ひとつには、コンサルティングファームやITベンダーの作り出した虚構のブーム、本質とはほど遠い、後で振り返ると何も残っていないような、無意味で無価値な活動なのではないかという疑惑です。はっきり言えばそういう傾向はありますし、何ならそういう意図を持って行動しているDX屋がいるのも確かです。これに対しては断固戦わねばなりません。これまで血を流す思いで稼いできた資金を、口八丁の詐欺師に気前よくくれてやる理由は全くありません。心地よく響く最新の言葉に踊らされ、おだてられて舞い上がって踊ってやる必要はありません。それは、顧客や、最終消費者や、株主や、これまで在籍した諸先輩方に対する裏切りです。

しかし、今日ここで語りたいのはその話ではありません。そうではなくて、そもそも企業が存続するために大規模な変革を行うというのは本当に価値のあることなのだろうか、ということを考えてみたいのです。


企業が存続することは社会のためになるのか? 劣後する企業は市場から早く退出した方がいいのでは?

まず経済学を考えてみましょう。経済学では、社会が資産を最も効率的に用いるためには、完全競争が望ましいとされています。この条件下では企業の利潤はゼロに収束しますが、企業にとってこれが望ましくないのは自明です。したがって、完全競争が実現するかどうかという現実問題とは別に、そもそも企業経営とは本質的に社会全体の資産を最も効率的に運用することを目指すものではないと言えるでしょう。

もうひとつの観点として、企業変革のうち最も有力な反論は「企業というものは、確率の低い変革活動には投資すべきでなく、それぞれの強みに特化し、ダメならさっさと市場から退出すべき」というものです。持続的な利得のためのポートフォリオ形成は株主の側の役割であって、リスクヘッジや多角化はそれぞれの企業のすべきことではないという趣旨です。コングロマリットディスカウントはその表れとも言えますし、選択と集中がここ何十年も流行っているのも同じ理由です。
この理屈は、企業が株主のものであり、株主の利益を最大化するのが企業の役割であるという観点において正しいと思います。


企業は自らのエゴ (=パーパス) を突き通す存在

一方で、株主とは起業家の資金援助役であって、起業家の趣旨に賛同する人が進んで出資するもの。企業自体は起業家や社員のものという考えもあります。このときには、必ずしも株主の利益最大化が経営の最重要アジェンダではなくなります。この考えに基づけば、起業時の理念に立ち戻り、自らの信念に基づいて経営することができます。

つまり、企業が自らの存続を目指すということは、社会の効率のためでも株主の利益のためでもなく、自社自身のためなのです。企業変革は、やりたいことを実現するために必要な手段であって、自らのエゴを突き通していることを自覚しなくてはなりません。


全ての企業が速やかに入れ替わり、全ての人が速やかに転職している社会は理想的?

さて、そのうえでいくつかの想像をしてみましょう。

創造的破壊の嵐が吹き荒れ、全ての企業が創設から3年以内に倒産する社会を想像してください。驚くべきイノベーションが次々と起こっており、社会に新しい価値が際限なく提案されています。その一方で、企業というのは立ち上げしばらくは何も生み出さないものですし、毎回ゼロから始めていては組織学習が進まず量産コストが下がらないため、社会全体としての生産性は恐ろしいほど低下しているでしょう。

あるいは、どの企業も全社員が1年以内に転出する、人材の超流動化状態を想像してみましょう。組織学習、トランザクティブメモリーなど企業が組織として存在する強みが全く獲得できず、生産性も品質も壊滅的なことは想像に難くありません。

そう考えると、企業のターンオーバーも人材の流動性も、加速すればするほど望ましいというものではないことが分かります。各企業だけではなく、社会としても明らかに得策ではありません。先ほどは企業の存続が社会の利益に反して行われると述べましたが、こう考えると企業の存続が必ずしも社会のためにならない訳ではないのです。同様に、企業の中に長期に亘ってとどまる人材がいることも、企業の生産性を通じて社会に貢献していることが分かります。

ですから、スタートアップエコノミーも創造的破壊も人材流動社会も、それが社会と企業にとって望ましい唯一の姿を提示している訳ではないことに注意しなくてはなりません。いま勢いのあるそういった言説は、現状よりマシになるための提言であって、究極の姿を見出したという話ではないのです。

ですから、伝統的企業が自己変革して生まれ変わり、保有する人材やアセットを使って再び羽ばたくというのは、決して恥ずべきレントシーキングではありません。新しい社会への抵抗勢力でもありません。

DXの魂はここにあります。


DXとは企業のエゴを突き通す手段である

企業にはそれぞれやりたいことがあり、その実現をするために人々が働いている。その実現能力を現代的に再構成し、商品やサービスを再定義し、企業のありようを見つめ直すにあたって、デジタルの技術とカルチャーを全面的に織り込むのがDXです。決して古い企業が卑屈になって新興企業を猿真似する活動でもなければ、これまでのやり方を全部捨ててIT上に再構成する活動でもありません。そうではなくて、デジタルが社会や顧客や自社に及ぼす影響を考慮し、自社のやりたいこととうまく整合させ、現在を乗り越え将来に花開くための活動なのです。

「コンサルタントとは企業の医者である」という言葉があります。医者は患者さんの悪いところを治療してくれますが、その人の人生を指し示してくれる訳ではありません。同様に、コンサルタントは企業の問題点を指摘し改善方法も提示してくれますが、企業の進むべき方向を決めてくれる訳ではありません。企業の進むべき道は、自らが定義しないといけないのです。

ここまで来れば明白なのではないでしょうか。DXに最も必要なのは、経営陣にとっては起業家精神、社員にとってはパーパスです。DXがバズワード扱いされているのを見て共感性羞恥を覚えている場合ではありません。自社のやりたいこととその実現手段を広く深く考えるべきときに、外野の浅薄な批判に一喜一憂しているようでは成功は覚束ないのです。


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