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普通の人がフツウの人であり続けないといけないこと ( メインカルチャーなき時代の哲学 その1 )

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   要点 》
このテキストでは、「普通の人がフツウの人
であり続けないといけないこと」をテーマに、
現代の4つの時代を生きる上での、文化的なコンテンツに起きる弊害を語ります。「フツウの人」も言わば、4つの時代の被害者ですが、より熱心に
面白いコンテンツを探究する消費者にとっては、
クリエーター(アーティスト)を潰してしまう
加害者にも、なってしまうが現状です。

また、日本語という言語を使う人口が少ないため国内での芸術・芸能分野への将来的な損害は、
想像以上に大きいかもしれません。

さいごに、生きづらさを感じている人には、
「脱フツウの人」を、作りづらさを感じている人には、「対フツウの人」をオススメする。

これは、令和のカルチャー哲学です。

🚨「サブカルチャー」という単語は、広義と狭義で意味がズレるので、本テキストでは、あえて使用しません。
🚨 カルチャーとは、「大衆芸術・芸能 〜 芸術性の高いアート全般まで」を総じた、文化全般を意味する語として使っています。文芸(言語芸術)、美術(造形芸術)、音楽(音響芸術)、演劇・映画(総合芸術)の 伝統的なものからコンテンポラリーなものまでを含みます。



・ 普通の人がフツウの人で
   あり続けないといけないこと

💿 普通の人の定義 💿

センシティブな話題です。普通の人とは、何でしょうか? しかしながら、差別につながる可能性を極力減らして、スマートに分類する方法があります。「多数派でありたいと思うか」「自身が多数派であると思えるか」の2点を同時に満たすことです。この条件を満たせることが、2020年代における「普通の人」と言えます。



💿 多数派でありたいと思うか? 💿

  「多数派でありたいかと思うか」は、想像しやすいテーマです。例えば、映画を見て、あまり面白くないと思っても、周囲やネットの評価が良かったとしたら、貴方はどう考えるでしょうか? その後、感想を聞かれたら、つい「面白かった」と言ってしまうこともあると思います。さらに言えば、「他の人と同様のお金や時間をかけて観たんだから、他の人と同じくらい楽しみたい」や、そもそも映画館に行く時点で「流行っている映画を観たい」という気持ちを持つ人もいるでしょう。それが、多数派でありたいという気持ちです。

  多数派でありたいという気持ちを持てる人たちは、カルチャーにメリットデメリットの両方を、もたらします。メリットは、クリエーター(アーティスト)の支援に繋がることと、ブームを生み出すことです。言わば、メインカルチャーの担い手といえる、多数派であろうとする人たちの存在を無くして、カルチャーの発展はありません。
対して、デメリットは、カルチャーの多様性を妨げることです。もし、感想を聞かれたときに、素直に「面白くなった」と言えば、貴方の友人も、実は、似た感想を持っていた可能性も考えられますし、作品への批評性を持つことになり、貴方にとっての良い映画を考えるきっかけにもなります。「他の人と同じくらい楽しみたい」や「流行っている映画を観たい」という意見にも同様です。そもそも、コンテンツを楽しむという行為には、他の人と同じように楽しめるということは、前提とされていません。むしろ、他の人とは違う意見を持つことや、他の人とは違うものを好むことに、貴方のアイデンティティがあり、貴方なりの面白さがあるとも言えるのです。
  しかしながら、カルチャーの多様性とは、同時にカルチャーの細分化であり、既存のカルチャーの破壊になるという側面もあります。そこで、大衆芸術・大衆芸能から離れた、アートよりの界隈では、いくらプレイヤーや消費者が増えたとしても、批評性や研究性も重視されるのです。

  まとめると、メタ的な視点で考えれば、SNS時代以降、プレイヤーと消費者の人口バランスは変わったとしても、新しい特性を持ったコンテンツ(作品)が生まれ続けるかぎりは、批評性と研究性もリアルタイムで存在しうると言えます。しかし、現実はそう単純ではありません。現代社会は、上記のようには全く動いていないという事実が、クリエーター(アーティスト)ないしは、批評家・評論家を漠然とした不安へと導いているのです。



💿 自身が多数派であると思えるか? 💿

 「自身が多数派であると思えるか」は、ボーイズラブ論で語った「自分の初期位置がどうしようもないリアルの上にあるか」とも似ています。人は
、何かしらのマイノリティに属するとき、自身が多数派であるという自覚を持てないことが多いです。しかしながら、たとえマジョリティに属していたとしても、多数派という自覚を持てるかどうかは、その人の環境や性格という運や偶然に左右されます。そこで、ボーイズラブ論では、その線引きをアイデンティティの問題として、処理していました。例えるなら、コップに半分入った水を見て、まだ半分もあると思うか、もう半分しか無いと思うか、の違いのように、多数派であるというアイデンティティは存在するのです。よって、アイデンティティの確立とは、偶然性によって得た特性を、偶然性によって自己の基準とする過程といえます。
  ポイントは、多数派であるという認識は、必ずしも好意的な意味だけで自覚されない点です。



💿 多数派はコンプレックスか? 💿

  多数派は、誇りであると同時に、コンプレックスでもあると言えます。わかりやすく考えるために
、多数派と(多数派に対して)少数派の憧れる対象を想像してみましょう。
  多数派の憧れは、天才や才能、少数派の憧れは、社会の輪の中にいる普通の人です。しかし、少数派の言う「普通の人になりたい」にどこか切実さが欠けることがあるように、多数派の言う「才能がほしい」にも相反する感情が内在しています。普通になりたいにしても、才能がほしいにしても、紛れもない本心なのですが、生存本能としてアイデンティティが揺るがないことが前提とされるからです。
  先ほど話したとおり、アイデンティティとは、偶然性によって確立されます。しかしながら、偶然性によって得たギフトであり、その確立に幼少期からの時間がかかったからこそ、揺るいではならないのです。「普通の人にはなりたいが、少数派としてのステータスは崩したくない」し、「天才にはなりたいが、多数派としてのヒエラルキーの強さは崩したくない」というアンビバレントな思いがここにあります。


💿『ルックバック』からみる 💿
💿 プロの才能隠し
💿

  漫画家の藤本タツキさんの『ルックバック』が発表されたときに、プロの漫画家たちから「藤本タツキさんの才能に心が折れた」というツイート
散見されました。このツイートには、どのような本心が隠れていたのでしょうか。
  前提として、『ルックバック』の構造の上手さがあります。「天才にはなりたいが、多数派としてのヒエラルキーの強さは崩したくない」という、夢物語がそのまま含まれていたからです。子供時代、絵が上手いという才能によって、周囲から認められた主人公 / 読者からは漫画家としての上手さがわかりづらく、才能が劣るように見える主人公 / 次第に孤独になるが、孤独には価値を見出さなかった主人公 / 友人と理解者と周囲の評価を同時に得る主人公 / 大人になって、評価されているはずだが、常に孤独に描かれる主人公 / 物語を考えるという読者に共感されやすい才能と、絵が上手いという才能はあくまで努力で得たという構成 / 再び、孤独になってしまう主人公 (読者は主人公の好きなことをしている点には憧れるが、憐れまれる境遇にすることで、気持ちよく読み終わることができる) 、その全てが多数派のために想定されていることに気が付きます。つまり、『ルックバック』には
、藤本タツキさん自身を含めた漫画家たちが、「 読者が羨むような天才ではない」というムーブ(立ち回り)が含まれていたわけです。
  次に、注目されるのは、「才能に心が折れた」とツイートしていたのが、プロの漫画家たちであることでしょう。プロの漫画家たちです。分析的に漫画を読むことや、他人の漫画から良い点、悪い点を取り入れることが仕事です。実際に、いちいち心が折れていては、仕事にならないですから、このツイートもまたムーブであったことがわかります。より多数派の漫画家たちにとって、話題の売れっ子漫画家に「自分には才能がない」と言われてしまえば、後味の悪いことは、想像に難しくありません。つまり、彼らが、読者に寄り添うことで、藤本タツキさんをもう一度、天才に戻そうとしてしたのが、例のツイートだったというわけです。より多くの読者に寄り添うことが、求められやすい漫画というジャンルだからこそ、起きた現象といえるでしょう。

ちなみに、「才能が一部の限られた人のものであり、孤独と才能をストレートに肯定した」作品が、真逆のメッセージで理解され、多くの人に受け入れられた『映画大好きポンポさん』のレビューもあります。ご興味あれば、どうぞ 💿



💿 フツウの人とは? 💿

  さて、「多数派である」というアイデンティティを持つがゆえに、「多数派でありたい」と思う人たちの気持ちや行動が、より強化されていく例を『ルックバック』を通して、確認してきました。しかしながら、ずっと多数派であり続けるというのは、一体どういうことなのでしょうか?

  朝井リョウさんの『正欲』にこんな一文があります。

みんな本当は、気づいているのではないだろうか。
自分はまともである、正解であると思える唯一の依り所が“多数派でいる”ということの矛盾に。
三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、“多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派であるということに。

《 朝井リョウ『正欲』 より抜粋 》

 『正欲』は、あくまで、フィクションの小説ですが、「三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、“多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派である」というのは、限りなく、真実といえるでしょう。純粋な確立であれば、多数派であり続けた人は、人数的には少数派へと変わっていきます。しかし、現実では、多くの人が意図的に多数派の選択肢を選び続け、自身がより多数派であることを競い合うのです。よって
、本来は少数意見であったものを、人口の多くの人が持つことになり、それは日々、強化されていきます。
  このこそが、本テキストの定義するこそが、本テキストの定義する「フツウの人」です。

  以降は、フツウの人が現代のカルチャーに与える文化的な不都合を、現代社会を4つ時代に分けて、探っていきます。また、最後には、良きカルチャーの応援者になるための「反フツウの人」と、時代のやりづらさを感じるクリエーター(アーティスト)や批評家・評論家のための「対フツウの人」を考察します。

  本テキストが、令和のカルチャー哲学になることを願って。

「 その2  評価性の時代 」につづく


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