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博士後期課程2年目で転専攻した遠隔通学社会人博士の話:名古屋工業大学大学院社会工学専攻建築・デザイン分野での新たな学びと研究の始まり

人は所属企業の名前のある出身学校とかではなく、その人が何をやったか?どんなことをしたかの方が本当に重要だと思う。やる気さえあれば、勉強や研究する場所も環境も周囲の人たちも自分で変化を齎すことができる。日本国内の有名大学の名前は、海外ではほぼ通じない。「あなたは何をやっているか?」ただそれだけしか見られないのだ、本当に。
 そして、人は誰かの意志を継いで進んで行くと思う。私の場合は「日本の大学からイノベーティブなアイディアや技術で世界にチャレンジしていく。」と話してくれた2012-2015在籍していた筑波大学時代の亡くなった友人の意志と言葉を受け継いで導かれていると強く思う。それは、亡くなった友人が最後に入院したのは、現在博士の学生として在学している名古屋工業大学の目の前にある名古屋大学付属病院であり、亡くなった場所が愛知であったからだ。何かしら愛知に関わっているのは友人の軌跡を辿っているからだろう。

 突然ですが、2022年10月に博士後期課程2年目で情報工学専攻から社会工学専攻・建築・デザイン分野へ転専攻しました。私は現在、東京大学で技術系の専門職員として普段は東京で過ごしながら、名古屋工業大学大学院(以下:名工大)へ名古屋へ月に1回程度通学している「遠隔通学の社会人博士学生」である。普段の研究活動は現在は主に既往研究として過去の文献や調査方法をまとめているのでオンラインとネット、図書館があれば出来る研究です。社会実装実験になった時には時間を取り場所を決めてから実験をする予定です。

1 会社員→3ヶ月のフルタイムの博士の学生→フルタイムの技術職員

 転専攻や博士進学のきっかけは博士の途中で研究内容を変更したからだ。
  博士課程へは2021年4月に名工大博士課程情報工学専攻へ進学し、当初は合意形成と感性工学を極めて博士号を習得しようとした。東京で勤めていた会社の契約もちょうど4月に終了したので、思い切ってフルタイムの学生に切り替えようとしたのだ。
 名古屋へはその年の5月に引越し、東京で住んでいたマンションは一旦人に貸し出した。覚悟を持って名古屋へ行ったものの、学振DC2への出願や倫理審査書類、いきなり修士論文を修正し追加実験の元で査読付き論文を書き上げ投稿するなど2-3ヶ月名古屋で死闘する様な生活をしていた。しかし、その中で一番キツかったのは、この進学は自分が望んだモノではなく、修士の時に在学していた北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)のある先生からほぼ押し付けられる形での進学であったこと、全く縁もゆかりもないところへ行き、研究室はほぼ東海地方の人たちであり私はよそ者であったこと、工業大学という単科大学故に他学部との交流があまりなかったこと、そして全くのよそ者が研究室に行ったのもありほぼ研究室の中核プロジェクトに携わることができないなど博士学生が陥る「ぼっち」になってしまったのだ。
 研究室へ行っても研究の話を誰ともできなく、当時の指導教官は忙しすぎて連絡しても返答が無い、指導予定の助教らとも対等に議論ができない、そして一番キツかったのはいつ始まるかわからないゼミの時間であった。先生が忙しすぎて時間が確定できないのだ。空いた時間で名古屋でもバイトしたり仕事をしたかったのだが、研究室のゼミの時間がわからず仕事を入れることができなかったのだ。そのため、益々研究室の中や名古屋で孤独感を増して行った。
 無論、たまたま仕事やいろんなタイミングがあり名古屋へ行ったことは後悔はしていないが、本当にキツかったことを覚えている。時間が読めないスケジュールが立てられないキツさは、特に自身のように発達系の障害を抱える者には耐え難いモノである。「ぼっち」になってしまったことでの心の支えもほぼ皆無であった。青森の実家や親族の中で大学へ行った人はほぼ居なく、まして修士博士となると親兄弟親戚もわからない世界であり誰一人として相談はできない状態であった。田舎ともなるとまだ男尊女卑が根強く、「女性が博士取って何になるのか」という理解であり、まして博士の意味すら理解してもらえない。だから進学に対してはほぼ自分で調べて行動する他なかった。たまに故郷へ帰ってもほぼ仕事や研究、学術の話をしないようにした。いくら話しても理解の無いところで話しても、聞いている方話している方双方の時間の無駄だからだ。その代わり仕事のことを尋ねられたら、自分のやってきたことを小学生でもわかる言葉で簡潔に説明していた。
 そのために、私は自分で稼いだお金で進学した。金額的に私立は数百万するので自己資金では無理なので国公立しか選択肢が無い。私の場合は奨学金や授業料免除を上手く活用し、日本国内でもお金を掛けずに進学する他なかった。
 そんな私に仕事の転機が訪れる。21年6月にたまたま東京大学で技術職員として働く友人より、新しい工房施設が学内で出来るが管理業務の適任者が見つからないので一度話と面接を受けて欲しいと連絡が来たのだ。当時は名古屋に居たが、面談を受けたら今まで工房管理として2015年山形大学内でのファブ施設と2016年TechShopという工房施設で働いていたことが生かされ直ぐに採用となった。
 ここで本当に悩んだが、このまま名古屋に居ても研究室でぼっちで誰とも研究の話ができないなら、社会人に出戻って働きながら学生していた方が良いと思い、名古屋での生活をわずか3ヶ月で終わらせて東京へ戻ることにした。東京のマンションを貸していた人に事情を話し、移行期間3ヶ月を得て、10月にはフルタイムで東京大学に勤務することとなった。

 期待を持ってがむしゃらに働いた東京大学では、全くのゼロベースから工房を作る仕事であった。機材は揃っていたが、どのように機械をオペレーションするか、学生スタッフをどう動かすかなどマネージメント的なことが主な自分の仕事であった。幸い、前職のTechShopの人たちやFabLabネットワークの協力や自身が国際学会でスタッフ経験をしていたことから人をマネージメントすることは直ぐにできた。ハードウェアの技術面も直ぐに資料を作り対応した。自分が研究等でつまづいたことで創作活動ができなくなった期間があること以外は仕事面では本当に怖じけずに進めて行った。マネージャー業務は代わりになる人がいなかったので、健康面でも注意し倒れないでやり抜くことが何より大切だった。

2 研究活動の変更と転専攻

 研究活動では2022年初頭に自閉・発達障害などの目に見えない障害にも対応したドバイ万博での「Quiet Room(落ち着けるスペース)・カームダウン室」との出会いから、自身の研究内容を感性工学系でのデバイス作りから思い切って”自閉・発達障害の人たちのための落ち着ける環境づくり「カームダウン室」の社会普及”へと変更した。テーマを博士2年次で変えるのは本当にリスキーである。しかし、上っ面で自分が信念を持てないテーマよりも、生涯掛けてやり抜きたいテーマで博士論文を書いて世に残したいと私は思ったのでテーマを変更した。しかし、そのテーマ移行に当時の研究室の先生は納得はぜず、ゼミで議論をしても上部の当たり障りのない議論がされるばかりであった。先生とは脳科学・人間中心設計・感性工学の面で面白いアイディアを頂いたとこもあったが、きちんと向き合ってくれていないのはわかり、わざわざ東京からお金と時間を掛けて名古屋へ行ったり遠隔からゼミに参加する理由が見い出せなくなってしまった。
 そして、研究活動を東京に全て移行しようと思い、東京で新しい先生も見つけ、お金もどうにか工夫してなんとかして大学院を変更する試験を受けたこともあった。資金・研究室・受入教員・筆頭の査読付き論文2本もあったにも関わらずその試験をパスすることができなかった。私は準備を進め、地盤まで固めて行ったのに試験をパスできず納得することができなかった。

 その同時期に名工大の中で研究室変更と転専攻が出来るかを事務の方々にも調べて頂き、大学院のご精力もあり名工大の中で転専攻の試験を受けることにした。
 まず、当時所属していた研究室の先生には研究の方向性が変更になったことを一番の理由として話し合いに応じて頂き、研究室と専攻を変更することを承諾を頂いた。次に当時の専攻長に丁寧に連絡をし、事情を聞き入れて頂き専攻会議に掛けて頂き承諾を得た。
 次に受け入れ教員側の先生を決めるのに相当悩んだ。候補の2人のうちの先生どちらにしようか相当悩んだ。一人の先生はカームダウン室の構造設計にとても興味を持った先生、もう一人はカームダウン室の社会普及や実装・まちづくりへ応用興味を持った先生、どちらも福祉や障害についてはこれから一緒に学んで行く姿勢であった。本当に悩んだが、たまたま東京大学で働いている研究室の秘書さんがまちづくり系の先生の元秘書だったことやこれからの可能性を考え、まちづくり系の先生にすることにした。
 そして、新しい専攻先の専攻長へ転専攻の申し出をし、学内での転専攻試験を受けた。その時に印象的だったのは「私は人の可能性を信じたい」その言葉にとても救われたのを覚えている。

 色々なことがあったが、最終的に転専攻に合格し次のセメスターから新しい研究室に移動することになった。同時に私は新しい環境に馴染むためと論文を書くための準備の時間が必要だと思い休学をした。
 本当は東京の大学院を受験し直そうと思った。博士号を取得する意味を見出せなくなり辞めようかとも思った。また名古屋でぼっちになるのではという懸念もあった。

 職場では学位があるかどうかで職位が決まるところがある。このままアカデミックに残るかはわからないが、博士号はあった方がいい。それも、国立大学に在籍しているのは金銭面でも名称でも本当にチャンスであった。東京大学での論文博士の可能性も見出したが、東京大学で博士号を論文博士で取得するには勤務先の協力と関連性が重要であった。勤務先とも話し合ったが、現時点で博士号を出せる資格であるDマル合を持った教授の先生が勤務している周囲にいなかったり、東京大学の論文博士は査読付き論文数ではなく、1879年創立当時の基準が今でも残っており、純粋に博士論文の中身であり博士公表会での質疑応答での論破力が試されるために現役生でも落とされる厳しい基準である。それであれば現時点で論文も持っているので、あと少し頑張れば博士号を取得できるところで自分の本当にやりたい内容で勝負ひた方が良い。決断をするのに相当悩んだが、お金や周囲の環境、親兄弟の理解、私立大学に行けない理由、仕事があるため今は留学に行けない、自分のキャパシティーを考え、まずはチャンスをくれた名古屋工業大学で博士号を取得することに向けてチャレンジしようと考え直したのだ。
 新しい先生にも素直に話し、一からやり直すつもりで研究室のゼミ活動や研究指導を受けることになった。社会人博士学生として本当に足りなかった既往研究を叩き込まれ、時に涙し、時に心が折れそうな時もあるが、きちんと文献調査と論文を読み込む重要性に気づけたことに心から感謝しながら隙間時間を見て文献調査と既往研究に挑んでいる。
 もし、既往研究をやらないで博士号を取得していたら何もならなかったなと思っている。新しい研究室では最初から自分の障害特性を思い切って研究室のメンバーに伝えて活動した。でも、ほぼ誰も障害特性を気にせず私が何をやっているかだけを見て議論してくれるので本当に助かっている。大切なのは何をやるかなのだと改めて気付かされた瞬間だった。

3  運命を辿ることは本当にある


  転専攻してから2ヶ月後の11月、先生とのミーティングのために名古屋へ来た時だった。名工大のある鶴舞駅のプラットフォームから見える名古屋大学付属病院からふと何か引っ張られている感じを受けた。ここは2016年に筑波大学時代に一緒にアプリ開発をしていた友人が亡くなる前に最後入院していた場所だった。最初、名工大へは2019年に国内留学として当時所属していた北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)から特別研究生として来たのが初めてだったが、その時も強烈に何か引っ張られて名工大へ来たのをはっきりと覚えている。そして、今回はそれ以上に東京で大学院を変更しようとしたりしても、名工大の中で転専攻や新しい研究室へ導かれたこと、そして何よりも大学を辞めなかったことが絡んでいるのか「ちゃんと最後まで終わらせるんだよ」という囁きが聞こえているかのような感じを受けた。こんな話は誰も信じないと思うし、ただの面の空と思うかもしれない。
それから、名大附属病院の前を通る度に、亡くなった友人がどこかに居て見てる感じがしたのだ。ふと亡くなった友人のご両親にそのことを電話で伝えた。
「息子が?確かに息子はいつも優しくて人を思いやる子だった。でも、もう亡くなって6年も経過するのよ。だからあなたはあなたの道を辿って欲しいの。でも久々にあなたの話や息子のことを聞けて嬉しいわ。」
そんな返答だった。

 本当に私は友人に引っ張られているし、友人の軌跡を辿っている。
友人のお墓は愛知県の北にある木曽川を越えた岐阜の方にあるけれど、友人の軌跡は残っているのだと思う。
友人は亡くなる前に最後入院したのは名古屋大学附属病院の前には鶴舞公園という素敵な公園があり、春の桜が開花する時期に入院したのもあり桜を楽しんでいたと聞いている。
  奇妙なことに友人が辿った軌跡を私は歩いている。最初に出会ったのは茨城県つくば市にある筑波大学だった。2013年に学内向けのアプリの共同開発が終わった直後に友人は倒れ背骨のがんの診断を受けた。2014-15年に背骨のがんの権医である金沢大学附属病院へ治療しに石川県金沢市に半年入院していた。亡くなる前にお見舞いで友人に会えたのが石川県金沢市だったのもあり、友人が弱って行く姿を目の当たりにし胸が痛んだ場所だったので私は二度と金沢へは行きたくないと思っていた。
 その後、私は2019年に石川県に本部のある北陸先端科学技術大学院大学の東京・品川校舎(品川インターンシティビル内)へ社会人学生として入学した。
 そして、友人が2016年に入院していた名大附属病院が目の前にある名古屋工業大学へ2019年に国内留学として特別研究生として入学し、博士の学生として2021年に入学した。
更に、2022年に博士を含めて東京に完全移行しようとしても、学内で転専攻しても名工大に残っているのは友人に引っ張られている様に感じている。

 友人は出会った2013年の当時、私が筑波大学に科目等履修生として入学していたり、面白いことを話しても、中々周囲に受け入れられない私を人として対応してくれた。それまで周囲は破天荒と言ったり、科目等履修生の非正規性では研究活動や大学のプログラムには参加できないとまで言われ失望し掛けていた。当時、友人はよくこう言ってくれた
「自分は日本の大学の面白いアイディアや発明で世の中にそのアイデアを普及させてイノベーティブな国にしたい。
日本の大学からイノベーティブなアイディアや技術で世界にチャレンジしていく。日本の大学もアメリカの大学の様に企業と大学が連携して面白いアイディアを生み出す環境になった方が良いと思っている。
普通の人間が集まってモノを作っても、維持させるとかは良いけれど、新しいモノや斬新的なモノは生まれない。普通のモノ以上のモノは生み出せないんだよ。
   組織やチームには必ず変わった人が必要なんだ。君は面白いアイデアをチームに共有することが大切だ。チームには起爆剤が必要なんだよ。だから君はここに居ていんだよ。」
 そう言ってくれたのだ。その言葉にどれだけ救われたことか感謝し切れない。 
 それまでの私は、おもろいことを言っても否定されたりハブられたり、学歴や経歴で差別されたり、地方出身だったり、周囲に受け入れられることが少なかったり、ぼっちになったり、コンプレックスに見舞われ、時にどうやって人と接せれば良いかわからなかった。
 それでも、1000以上の否定される言葉を浴びせさせられても、たった一つの希望と勇気で満ち溢れる言葉で私は救われた。友人の言葉が今でも私の中で生きていて救われているのだ。
  何年も、何十年経過しても言葉の力で人は勇気や希望を持ち続けることができます。

 友人が2015年に入院中に言ってくれた言葉があります
「情報技術が進化して、ハードウェアでのパソコンが必要無くなり、全てインターネット上での情報入力と処理で進む世界が来る。人工知能の技術が発達して人の想像力に近いモノになる。そうやって技術改革しても、人の進化には必ず想像力が必要なんだ。その技術だけで満足してはいけないんだ。」
 2023年現在、クラウドコンピューティングは実現化しつつあり、AIを利用した暗号技術や画像出力、画像捜査の技術が発展した。友人のいう通りの世界になりつつあるが、未来への技術改革を想像し続け、言語化したり描くことができるのは人間だけである。

 私自身は真っ直ぐには進学や就職はしてはいないし、普通の人生は辿ってない。工業高校出身のため足りない基礎科目を公文式や塾で勉強し直して大学学部へ進学し、学部生を卒業してから一度社会人をやり、何回か転職をし、自分のお金で修士と博士に進学している。
 時に高等専門学校ばかり注目され工業高校や商業高校・農業高校の様な実業系高校からの国立大学への進学への理解がまだ一般的ではない。実業系の高校出身者であっても努力次第でチャンスを掴んだり進学することだってできることを世の多くの大学教員に理解して欲しいと思う。

日本では良い高校へ行き、良い大学へ行き、大企業に勤め、普通に結婚して家庭を持ち、そしてごく普通に老いて行くことが美徳であろう。

 一方、亡くなった友人は愛知・一宮の高校から東京大学理科一類に現役一発合格し順風満帆だったはずだった。大学4年の時に鬱になってしまい殆ど大学に登校できなくなり東京大学を中退した。そんな時に結婚相手になる方と会い、その方の伝てで茨城県つくば市へ移住したのだ。その後に子供も生まれ、筑波大学情報科学類にも合格し技術者・研究者としてもう一度出発するはずだった。友人は背骨のがんにより研究できなくなり卒業論文すら書けなくなっていた。そして、筑波大学を中退してしまったのだ。二度も有名国立大学を中退してしまった友人に怒りすら覚えたこともある。諦めて欲しくなかった。せめて何かしら文献を残して死んで欲しかった。君が残したのは離婚してしまったけど娘さんだったね。その娘さんに私はいつか会えるかわからないけれど、少なくとも私がやっていることは君の意思に繋がっていることは伝えられる日が来るといいなと思っている。
 友人は2回も国立大学を中退したり、面白いアイデアでチームをまとめたり、学生でも家族を築いたからこそ人の痛みや苦労が理解できる人間だったのだろう。そうでなければ私の様な破天荒に生きてきてしまった人間を理解したりチームに入れようとしない。
 しかし、現代の多様な生き方や選択肢のある時代、日本が「普通」と定義している進学と就職・家族の在り方は崩壊し、新しい形になっていると思う。だからこそ多様な選択肢の中、自分がどれを選びやり抜くことが重要であるかと私は考える。周囲がどうあるかではなく、自分がどうなのかの方がより重要である。
 だからこそ自分自身が本当に世に残したいことで博士論文を残したい。友人が私に残してくれた「日本の大学からイノベーティブなアイディアや技術で世界にチャレンジしていく。」という想いを引き継ぎ、私がやりたいことは
・日本の中の「普通」とう概念から「多様性」へと移行する社会基盤を作る
・自閉・発達障害など目に見えにくい障害を持っている方々が社会参加し易くなる社会づくり

そのための技術改革であると私は考えています。

 博士後期課程2年目でテーマを変え、指導教官・研究室・専攻を変更して本当に良かったと思います。ここから査読付き論文を目指すことは本当に大変ですし、指導教官は行動と言葉の一致性を言ってくれているので本当に努力しなければなりません。

 紆余曲折あったからこそ見えることが多くあります。それはどこへ行ったとしても人を大切にすることです。どんな組織もチームも、モノではなく最後は人が残るからこそ続くことがあります。例え大震災で職場や学校の建物が無くなっても、その場に居た人たちの信念があれば必ず復活するのです。その信念を維持させるのがコミュニティの役割です。

 そのコミュニティ作りを維持させて行くために変容しなければなりません。日本によくある「普通」という概念が当てはまらないことの方が多くあると感じたからこそ、真の意味で多様性に寛容になる社会づくりが必要になると思います。
 ただの書類だけの言葉や、飾りで意味を解らずにSDG’sバッチを付けていたり、ただダイバーシティの定義を掲載するとはではなく、本当の意味で社会がより良く回るためには一人ひとりが多様性に対して意識していくことだと思います。
 日本は本当に豊かでモノに溢れ、雨風を凌げる住まいが普及し、飢餓や戦争で苦しむことは今のところ可能性として低いです。しかし、日本に足りないモノは社会全体を動かすルールやシステムで課題があることです。官公庁のデジタルへの対応・多様性へ対応した社会づくり、時代に対応した法改正、そして障害者の人権を整える必要があります。
 私はその中でも「健常者と障害者の平等性」「障害者という言葉ではなく代わりの言葉の普及」にフォーカスして行きたいと思います。自身も障害を持つ当事者としてできる限りのことにチャレンジしたり日本の障害者に対応するシステムが変容していくように動いて行きたいのです。それが私が与えられた使命であり、友人が残した意思に繋がるのでしょう。

  人が生きて最後残せるモノは、お金でも地位や名誉ではなく、その人の信念だと思います。

 友人は自身の信念を私に託してくれたと思います。
私と友人は血は繋がっていないし、恋仲だったわけでもなく、ただ半年一緒にアプリ開発をし、亡くなるまでの2年間一緒に未来に向けての議論し信念を共有した仲間でした。

 その想いをどこまで引き継げるかわかりませんが、今目の前にある仕事と研究を直向きにやるしかないです。それが私がこの世界に対してできるお役目であり、残すべきことであり、未来に対してのバトンとなるのでしょう。

これが私の人生なのです。他にない私の人生なのです。
 きっと今まであった様々なことも、神様が与えてくれた試練であり、それを乗り越えて心を強くするための修行だったのでしょう。超えられない壁は無いから、壁を超えて強くなる必要があったのでしょう。

こんな運命があるんだということだけでも心に残ってくれれば幸いです。
進学や博士後期過程、研究テーマ、仕事で悩んでいる方々に少しでもお役に立てれば幸いです。
ここまで長文でも読んで頂きありがとうございました。
また続きを書いた時には温かく見守ってください。

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