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JAIST社会人進学:挫折と劣等感の先にあった社会人学生という選択

はじめまして!こんにちは!本エントリは 社会人学生 Advent Calendar 2019 の第6日目です!登録日が限られておりましたので、期限を過ぎての投稿となります。

このエントリでは、社会人学生に至った経緯と挫折と劣等感が人一倍強い自分のことをまとめるチャンスだと思い、みなさんにシェアする形で書きます。特に、挫折なしでは社会人学生は語れないと思いますので書く必要があるでしょう。

自己紹介

木村正子と申します。現在は会社員としてAIとロボットを扱うデジタルトランスフォーメンションをする部署に勤めており、プログラミング教室の講師をしたり、ヒューマロイドロボットを中心に販売やロボットに関する論文を書く、研究機関へのロボット導入のお手伝いをしております。
社会人学生として北陸先端科学技術大学院大学(通称JAIST:東京サテライトキャンパス) ヒューマンライフデザイン領域・特別研究生として名古屋大学大学院へ通っております。専門はメディアアート・インタラクション・ロボティクス・VR/ARです。
以前こちらでメグルメグ:私がJAISTへ社会人学生として進学した理由を書きましたが、簡単に時系列に私が大学院への進学を紹介します。



大学院へ入学するまでの長い道のり



2009年 日本大学工学部 卒業 リーマンショックの影響で入社予定の会社が倒産。準社員として東京にてJR系列の会社でカシオペアの乗務員を行う。
 シンガポールのワークビザを取得し、半年貿易系の企業に勤める。
2010年 日本へ帰国。東京で知人の会社の経理を手伝いながらアルバイトを掛け持って過ごす。
2011年 3.11東日本大震災発生 2ヶ月現地ボランティアを行う。このまま何もしないで生きる事に危機感を覚える。
筑波大学で光るLEDウェディングドレスを見て感動し、その研究室を志願するも助教のため難しいと言われる
2012年 別会社へインターンとして移動 Webページのデザインやグラフィック・コードを担当。
筑波大学へ科目等履修生として入学 光り物系を作り始める
2013年 交通事故に遭い背骨を骨折し生命の危機に陥る。
この時、体力では無く頭で考えられる職業に着こうと考えはじめる一度目の大学院を受験するも失敗する その冬に芸術系の大学院を2校受験するも、2次面接で落ちる。
2014年 筑波大学の仲間とiTsukubaというアプリを制作する。
受け入れ教員も事前に決めていた大学院がまさかの不合格
筑波大学の講師の先生の推薦で山形大学の研究員の職を勧められ、まぐれで受かる。
2015年 山形大学大学院で研究員の仕事をしながらMOT博士前期課程に通いはじめる。機械系でゲルの3D応用などを熟す.初めて国際学会としてSPIEにて発表する
2016年 紆余曲折し東京へ戻る。富士通系の会社へ入社するも諸事情で辞めなければならなかった。そんな時にたまたま近所にあった東京工業大学へ科目等履修生として入学する。山形大学大学院博士前期課程 中退
2017年 東京工業大学 研究生(機械系)へ入学する。International Autism Canference にて発表する。東京大学制作展へ潜りとして作品出展する
2018年 東京工業大学 科目等履修生へ再入学。東京大学制作展にてロボット系の展示をしたら会社からスカウトされ、同年8月から現在のAIとロボット系の会社へ勤務と、インターンとしてVR機器を開発している会社へ2社同時に修業し始める。実はこの時、大病を患い大きな手術を受けていた。
その後、5度目の大学院受験するも失敗。
もうダメかと思っていた修士進学を、たまたま知り合いの先生に相談したら2名先生を紹介して頂いた。それがJAISTの先生であった。
2019年 情報処理学会論文誌へ論文投稿をする。インターンの会社の受け入れ先変更し、ロボットのテレイグジスタンスをする部門へと移る。
北陸先端科学技術大学院大学 東京サテライトキャンパスへ入学
論文を一気に3本書く。情報メディアセンシング研究会、IEEE World Haptics Conference, VR学会。
IVRC 国際バーチャルリアリティ大会へ約120応募のうち上位23に残り大会出場する。予選落ち。
名古屋工業大学・特別研究生となる
OIST(沖縄科学技術大学院大学)へプロジェクト研修を受講する。
総務省・異能vation ジェネレーションアワード部門にてノミネートとなる。
情報処理学会論文誌へ投稿した論文が無事に採択となる。


紆余曲折しまくっておりますが、これが学部から大学院へ行くまでの道のりでした。

紆余曲折した理由

JAISTへ受かるまで、私は大学院を5回落ち、一つの大学院を中退し、研究生だった研究室で挫折しております。JAISTは8度目の正直でやっと巡り合えた場所なのです。
今となっては言える事ですが、あまり挫折した事は本当は書いたり残さない方が良いとは思います。しかし、事実は事実ですし下手に格好着けても何もなりません。良くあなたは何をやっている人かわからないと言われ悔しい自分もおります。むしろ、こうやって事実を書いた方が自分としてはスッキリとしましたし、世間一般から見たら何やっていたんだこの人はと思われるのも仕方ありません。
 自分の中で一本筋が通ってやっていたと思っても、周りから見たら違う様に見えるのです。それを伝えきれない言語化できない自分と葛藤していました。
その中、2013年に交通事故で背骨を折ったり、2018年に自分の体に腫瘍が見つかり手術を受けて生きている事への感謝と共に、何か形にしたいという意欲がとても増したのです。
また、一度目の転機であった山形大学での就職の時に、プロジェクトで雇われたので自分の研究よりも上司の研究を忠実にやる事が求められました。研究は楽しかったのですが、どこかでこれは自分のやっている事では無くてやらされている感を凄く感じたのです。
そこで、一度研究から離れたのですが、以外と自分はコツコツした研究や文章をまとめる事、何より研究の現場にいる人たちの活気や議論が大好きだったと離れて見て気づいたのです。
だから、もう一度研究の現場に戻って今度は心から自分のやりたい研究を思いっきりやりたいのです。

JAIST 東京サテライトでは実験ができない

JAIST東京サテライトはオフィスの19階にあり、部屋のみがある場所です。そこでは講義や研究指導として議論ができる機会があります。また、複数人の教員からの指導も受けられます。しかし、ここはサテライトキャンパスなので実験ができません。私の専門とするメディアアートでは半田付けやモノを組み立てる作業があるのですが、それは全て東京都内で協力してくれるとある大学のフリースペースで行ったり、協力企業の中で行ったり、時に某大学周辺にある学生のみが集まるカフェに引きこもって作業をします。また、時々石川の本校舎へ出向くので、そこで3Dプリンタやバッキュームマシンを使用します。
 作業できるのは良いですが、欠点として毎回モノの片付けをしなければならず、常時その場にモノを置く事ができません。
 JAIST東京サテライトの責任者とも一度話し合いをしましたが、
「サテライトキャンパスは講義と勉強会、学生指導の議論のみを行う場所であり実験が目的ではない」との回答でした。
ウェッティな実験ではないので交渉しましたが、責任が取れる教員の同伴という厳しい条件を言い渡されております。
 実験するために現在は都内で場所を借りたり自宅の半分以上を実験器具で埋めてなんとか対応している所です。



それでも、何故研究し続けるのか?

私はJAIST 東京サテライトに進学できてとても幸せです。挫折を繰り返しており劣等感が人一倍強いですが、やっと受け入れてくれた場所がある事、先生方からの厳しい指導がある事は本当に嬉しい事です。
  サテライトキャンパスは基本メールにて連絡を取り合います。研究室も会議室が取れた時に皆で議論になりますから、常に誰かがその場に居る訳ではありません。通常の大学みたいに大学の研究室や部室でたむろする事はできません。フリースペースも外部の方が入れないのでそこまでフリーではありません。
 それでも私は幸せです。JAISTに入学できたからこそ、たくさんのチャンスを掴み、物事を言語化する事の大切さを痛いくらいに学び、無い制度があれば開拓し、以前までわからない事があれば口頭で聞いていたのがメールとSlackしか無いので嫌でも言語化し相手に伝える事をとことんやり、入学して9ヶ月で論文を4本書く事ができて学べる事・研究できる事が心から幸せなのです。
 それは学部卒業から10年掛かって8度目の正直で良い先生に巡り合えたからこそ、私は今学び研究できる事に心から感謝しております。
 社会人として勤務しながらの学生なので、正直時間との戦いはあります。そこは幸い現在の職場の理解があり、勤務時間を減らして頂いているのと、一部の職と学問を一緒にやらせて頂いているので本当に恵まれていると思います。




劣等感が強いもう一つの理由


私は本来一緒に研究するはずだった大切な友人がおりましたが、その友人は亡くなりました。その影響もあり人一倍劣等感が強いです。
その友人は筑波大学に居た頃に一緒にiTsukubaと言うアプリを制作した仲間でした。当時、科目履修生で正規学生とは違うのに、そんな私でも受け入れてくれて一緒に制作をしてくれ増田。その友人は東大を4年生の時に中退し、紆余曲折して筑波大へ入学したからこそ挫折しまくっていた私の気持ちも理解してくれました。
友人はとても優秀で将来の夢は研究者になる事だったのに、友人は癌で死んでしまいました。だからこそ、生きて仕事や学問に励める自分はどんなに幸せで恵まれているのだと心から思わされる。

正直に言うと、一部の先生たちにハブられたり職場で色々言われる事もあるけれど、それはとても小さな事です。
例えどんなに優秀でも、死んだら研究も勉強もできない。

現在、私は明日死ぬ覚悟で研究し論文を書いています。
例え、どんなに変な噂や周囲にバカにされても私はめげません。
それは、本当にとても小さい事です。君が死んで二度と会えないよりはマシだもの。
だから、私は絶対に諦めません。何度だって挑戦します。
もし、仲間が居なければ、私はどこまでも行って仲間を探しチームを構築します。
君が、とても楽しげにプロダクトを作っていた時の様に自分でもトライしてみます。

明日が来る事は当たり前じゃない。
一日一日が奇跡の塊で、明日が来るのも奇跡なんだ。

君が叶えられなかった夢は、脳の記憶をコンピュータに移し替える事でしたね。
今のAIの技術でどこまでできるかわからないけれど、私はやれるだけ挑戦してみるよ。
君の記憶はもう此処の人々の記憶にしか残ってないけれれど、もし君の脳だけでも生きていたら、君は次にどんな素晴らしいアイディアでこの世を面白くデザインし物語ったのかな?
なんで、君が死んでしまってから私は学問や研究の大切さに気づいたのだろう?
どうして、君が世を去る前に、君の夢の事をもっと書留めなかったのだろう?
君は死んで3年の月日が経過してから、気づくことが多くて本当に申し訳ない
君が死ぬ直前に、アートを作りにアメリカへ行った私を許して欲しい。
死ぬ前の君に会っていれば良かった
君と、時が立つのを忘れるくらい未来に向けた議論を繰り返せばよかった

それも叶わぬ夢

だから、君の残した文章と記憶を頼りに今できる事を思いっきりやりたいんだ。

最後に伝えたいこと

今自分のやりたい事に素直にチャレンジしてみてください。
時間は限られています。人生いつどこでどうなるかわかりません。
いつ自分が死ぬかは誰もわかりません。
今のうちにやれるだけ後悔の無いように行動し突き進んでください。
失敗は当たり前の様にあります。それに怖がってはいけません。
大切なことは失敗を失敗と思わずに成功への糧と思えることです。そしたら本当の成功が向こうからやってきます。

学部からストレートに大学院へ行くのが通常の流れでしょう。先生たちも若い子を育てるのが大学の教育であり使命だと考えているでしょう。大学内で挫折した人や社会人学生はまだ少なく、先生方も扱い方がまだわからないかもしれません。
しかし、大学という場所は不思議なモノで本当に色んな人たちが集まります。個人の面白い人たちが集まるからこそ、大学から面白い革命的なアイディアが生まれると思うのです。だからこそ、大学こそ若い人だけではなく多様な人たちを受け入れる事で次のフェーズを切り開く事ができると思います。


そして、これからは若い人よりも学び直しをする社会人学生の数が多くなると予測されます。社会人学生として活躍し、修士号や博士号を持つ人が社会に多くなれば、世の中はもっと創造的で知的に満たされ楽しくなると思うのです。これからの時代は知的創造社会に変容して行くでしょう。

だからこそ、学び研究するという楽しいフェーズをもっと多くの方にも経験して欲しいと心から願っております。

最後になりますが、こんな私に理解をしてくださる会社の皆様、大学院の先生方、指導教員の皆様、学会仲間のみなさん、そして東京でいつも一緒に研究や制作活動をしてくれる仲間に心から深謝致します。
ここまでエントリーを読んで頂きりありがとうございました!!!


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