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なんでもいいから食べるのよ

ちょっとおかしなことを言うようですが、私は子どもの頃から「食べる」という行為があまり得意ではありませんでした。
大人になった今でも、食べることに対して漠然と「向いていないなあ」という苦手意識のようなものを持っています。

子どもの頃は家で何時間もかけてご飯を食べることがよくあったし、給食も一番最後まで席に残って食べているタイプの子どもでした。

とにかく飲み込むのが下手で(あまりにも飲み込めないのでおそらく喉の構造が人と違うのだろうとすら思っている)、加えて胃下垂なので一度にたくさんの量を食べることができない。誰かとご飯を食べに行っても相手の何倍も時間がかかってしまい、最終的には全部食べられずに残してしまう、みたいなことが多々あります。

とはいえ「食べる」という行為はあまり好きじゃないにしても、「食」には興味があるというちょっとしたチグハグな感情が私にはあって、「◯◯が食べたいな〜!!」みたいなことは頻繁に思うし、好きな食べ物もたくさんあって、誰かとご飯を食べに行くのも大好きです。

食べるのは下手くそだし好きじゃないにも関わらず、「食」それ自体を嫌いにならなかったのは、きっと子どもの頃から「ご飯を食べるのが遅い上に少食である」ということに対して、誰かに咎められたことが一度もなかったからだろうと思っています。

今思えば私が両親から受けた教育は、【食べたいときに、食べたいものを、食べたいだけ、どれだけ時間がかかってもいいからとにかく食べなさい】というものでした。

我が家では、いつからか一度にたくさんの量を食べられない私が食事の途中で「休憩タイム」を挟むことが許されるようになりました。「休憩ターイム!!」と宣言して食事の途中でソファに横になっても、父からも母からも咎められたことは一度もありませんでした。
結局全部食べられずに残すことになってしまっても、母はいつも「よく頑張ったね」と褒めてくれました。

きっと私に対する食育は大変なものであっただろうと想像に難くありません。
それでも、両親は私を叱ることなく、私のペースで私が食べたい物を食べたいだけ食べることをいつも許してくれました。

結果的に私は、苦手な食べものはいくつかあるものの、それほど偏食にもならず、大人になった今自分なりに食事を楽しむことができています。

ただひとつだけ、【食事を抜かずにきちんと食べていたらなんだっていいから、最低限そこだけは守りなさい】というような母の教えを私は信じているので、上京してからも毎朝きちんと朝ご飯を食べてから家を出るようにしています。

私は子どもを育てたことがないので「食育」について語ることはできませんが、私が両親から受けた食育が、常識的な観点や、礼儀や行儀の面で捉えたときに【いいもの】であったかどうかは正直なところわかりません。

ただ、食べたくないものを無理して食べさせられた記憶も、お腹がいっぱいでも残さず完食しなさいと言われた記憶も、時間内にご飯を食べなさいと言われた記憶もほとんどない私でも、それなりにまともで、結果的にポジティブな食事感覚を手に入れることができたことを考えると、何事も「無理しなくていいんだな」となんとなく思うに至りました。

私が奇跡的によくできた人間であった可能性もなくはないですが(無駄に自肯定感高い)、まあ実際そんなことはないと思うので、きっと誰だって食べたくないときに食べたくないものを無理して食べる必要はないんだろうなと私は思います。
ただ【人の身体を作るのは食事である】という認識さえ持っていれば、「ちょっと今これは食べたくないな」と思ったとしても「じゃあ代わりになに食べよっかな〜」となるのでオールオッケーです。

「なんでもいいから食べるのよ」はうちの母の口癖ですが、本当になんでもいいから食べればいいんだと思います。

だからこれからも私は決して食事を抜くことなく、食べたいときに、食べたいものを、食べたいだけ、自分のペースでしっかりと食べて生きていこうと思っています。

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