見出し画像

第四章ーじゃあ、どうする?(ふたりの対談) 「将来の夢をもつということ」

[このNoteの投稿は、2020年7月末までの公開です]

※ 第三章は、現代人の悩みを生じさせる物の見方について、次の七観点に分けて考察する内容でした。第四章の内容も、この七つに対応しています。

(1)将来に夢を持っているのがよりよいという価値観
(2)常にポジティブでなくてはいけないという社会のあり方
(3)思い通りにいかなくてイライラすること
(4)社会の道徳とのズレから生じる罪悪感
(5)物事をラベリングすること / こう見せたいという意識
(6)自分のせいなのか、他人のせいなのか
(7)他人と比較してしまうこと

=====

第三章で出てきたそれぞれの悩みについて、仏教的な視点からふたりで考えてみたいと思います。

将来の夢をもつということ


「夢が叶う」ということの実態

松本:学生に向けてよくお話しすることで、夢であれ、目標であれ、ゴールであれ、目的であれ、どんなポジティブな言葉でもいいのですが、「私の夢はこれです」「将来、これを実現したいんです」と表明したとき、それは常に、今ここにこうしてある私の否定を含むということを、忘れないようにしてほしいです。

「私の夢はこれで、将来これを実現したいんです」と言うことは、つまり「今それを実現できていない私がここにいる」と同時に宣言しているようなものです。言い換えると、「私は不完全な人間である」と自分に言い聞かせているようなものです。「現状では満たされていない私がいて、あれが手に入れば初めて満たされるんだ」って、自分に言い聞かせているのです。

夢や目標を持つことも自然なことなので、「夢や目標を持ってはいけないよ」と言ってるわけではありません。夢や目標に向かって努力することは素敵なことだと思います。放っておいても、夢や目標は湧いてきちゃいますよね。だから、それを素直に受け入れて「よし頑張ろう」と思うのはいいのです。

一方、一つ忘れないでおいてほしいのは、その夢が達成されなかったからといって、失敗の人生というわけじゃないよ、ということ。その目標が達成されなかったら失敗の人生だったんだと思う必要は全くありません。考えてみれば、今の自分が持てる夢って、今の自分が備えているすごく狭い視野から、今の自分が見える範囲のことしか、夢として持てませんよね。今の自分に想像できないことは、想像しようがない。だから、そういう意味では、もしかしたら夢が達成されるということは、未熟だった過去の自分の狭い視野で思い描いたことが達成できただけだから、ほんとうに成功なのかどうかもわからないのです。
 
たとえば、すごくわかりやすく言うと、幼稚園の時に先生から「将来何になりたいですか?」と質問されて、「警察官になりたい」「ケーキ屋さんになりたい」と言う子がいます。警察官とかケーキ屋さんの他に、そんなにたくさんの職業を知らない中で幼稚園児が言ったことが将来達成されたからといって、夢が叶って良かったねっていう話なのかどうか。それは、わかりませんよね。だって、もっと世界は広いわけだから。失敗だとも思わないけれど、成功とも言えない。成功でも失敗でもないのです。

幼稚園児の話は極端な例ですが、大学一年生のときに描く夢も、同じことだと思います。大学一年生の時にこの道に進もうと夢を持って努力する、それはとても自然なことだし、何の問題もありません。ただ、結果的に将来、その時に思い描いたものになれたから成功の人生で、なれなかったから失敗の人生かといえば、そうではないのではないでしょうか。さっきの幼稚園児の警察官とケーキ屋さんの話と一緒で、大学一年生の視野はまだまだ狭いし、限られた可能性や選択肢しか見えていません。だから、過去の自分の思いを否定する必要はないけれど、必要以上に囚われる必要もないはずです。

苦=不満足というのは、自分にとって嫌なものや遠ざけたいものから逃れる話ばかりではなく、夢であれ目標であれ、実は自分にとって好ましいものや近づきたいものに向かっていくことにも関わる話なんですね。将来、私が幸せになるための「条件」として夢や目標を持つことは、嫌いなものを遠ざけるのと同じぐらい、自分の心に負担を生む重荷になり得ます。夢は夢として、縛られない程度に持つのがいいんじゃないかと思います。

三浦:面白い指摘ですね。縛られてしまうという時に頭の中でどういうことが起こっているのかとても気になります。『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ、二〇一六年、河出書房新社)を読んでいて納得した箇所があったのですが、人間はまったく存在しないものについての情報を伝達することができ、その虚構を語る能力がホモサピエンスの特質だという内容が主張されていました。

将来の夢や目標という概念も、私たちが人類の歩みの中で社会をうまく形成していくための技術なのだと思います。

ただ、松本さんがおっしゃるように、仏教的視座から見ると、苦を生み出す考え方にすぎないんでしょうね。とはいいつつも、この獲得して磨いてきた武器をどのように使うのかを再考することによって、物語を扱うテクノロジーを使いながらも、それに不幸にされるのではなく、おそれなく人生を生きていくことができるのだと思います。

松本:それは重要な指摘だと思います。物語を作り出してしまうのはダメなことではありませんよね。僕も活動する時には物語を掲げますし。


目的的思考を手放すには?


三浦:私たちは教育や社会の仕組みのなかで、すごく目的的思考のもとで生きることを強いられていて、目的がない・意味がないということに耐えられなくなっているような気がします。

松本:ゴールオリエンティッド、目的的思考ですね。夢でも目標でもどんな言い方でもいいけれども、夢を持つとか、これを達成したいというものがあると宣言することは、つまり、今達成されていない何かがあると宣言しているようなものです。自分の不完全性、不満足宣言みたいなものですよね。夢を持つ、だから常に何か条件が足りていないということを宣言する。

「これがなければ、私は幸せでないんだ」

でも、それって実は自分で自分に呪いをかけてるようなものですよね。その呪いが、社会に蔓延しているんです。子供の頃から夢を持ってとか言われるわけです。自分がただここの場所に自分として、何者でもなくあっていいんだって、多分どこかで思えていない人がすごく多いんじゃないでしょうか。

三浦:同年代の多くはゴールオリエンティッドな捉え方で生きているか、そうしなくてはいけないという中で生きていると思いますね。仕事を始めると特にその傾向は強くなっていくと思います。

目的的な思考を手放すと、社会で生きていけないという感覚になる人が多いんじゃないでしょうか。自分の場合も手放すのが恐ろしくてたまりませんでした。「松本さんは何を言ってるんだろう……」と思いながら、それを手放すことができずに苦しみ抜きました。でもその手放しがついに起こったんですね。

しかしそれが逆に、良いも悪いもないですが、最初は変な方向にいっちゃいました。未来のビジョンをもったらダメだというふうに、逆に縛られることになったんです。結果として「目的を持たない」という目的を持ってしまいました。「私は目的を捨てるんだ!」と意気込んで目的的に生きていましたね。今は、未来のビジョンを持ってもいいし、持たなくてもいいし、どっちでもOKとなったのですが、そうなってはじめてすごく解放されたような心地です。

過度に目的的に考えて苦しくなっている人には、心地よいことや意味もなく楽しいと思える時間の割合を増やしてみるように薦めています。

松本:目的的思考を捨てるっていうと、目的的思考を捨てることを目的にしてしまうから、難しいんですよね。目的的思考がクセになっていますから。みんな力を入れることしか知らないので、力を抜くことにまた力を入れるっていう。強迫観念です。それぐらい、しみついているんです。

こんなことを言うと、努力を否定してるのかと思われるかもしれないですが、努力を否定しているわけではありません。別に、してはいけないことは何もないから、目的を持って、それに向かって努力をしちゃうっていうのも、いいじゃないですか。自然にすれば、いいのです。むしろ、ほっといてもしちゃうと思います。

ただ、目的が達成されなかったからといって失敗だったというふうに思う必要はありません。それは、仮のものだからです。目的はたまたま、それを目的にしようとそのときの自分が思っただけなのです。縁によって変わっていくわけです。それこそ、トランジションしていくわけですよ。目的を、そういうふうに柔軟に捉えてるうちはいいと思いますが、「こうあらねばならないんだ」というふうに、そこに執着してしまうようになると、ちょっと赤信号な気がします。達成しなければ失敗だった、人生失敗だったということになっちゃうわけでしょう。


「軸思考」というワナ

松本:それと、夢や目標に関連して、もう一つ世の中でよく出てくる考えがあると思います。「あなたの軸は何ですか?」という軸思考です。

軸思考とはそもそも何なのでしょうか。当然のようにみんな軸が必要だというふうになってしまっていますよね。軸があると何かと職業に就きやすかったりとか。「自分らしさ」を求めて悩む方がたくさんいると思います。

人生のなかで、「それがあなたの軸なんですか」という質問が繰り出されることは何度かあるでしょう。相手が言いたいことはわかります。軸があった方が生き延びやすいと信じているんだと思います。もしくはキャリアの話の中で、「軸がある」ということが当たり前のように信仰されているむきもあるかと思います。

「自分はこういう人ですよ」っていうことを簡単な言語で表現できることで、コミュニケーションを取るのもそうだと思います。わかりやすくはなりますが、そのぶん無理が生じます。「らしさ」ということは、人と違わなければいけないと思っている証拠です。

それは、言い換えると、ちょっとラベルに工夫をしたり、「らしさ」を演出したりしなければ、「同じ」になってしまうということです。埋没してしまうって思ってるわけですよね。それ自体が本当に意味のないことだと、私は思っています。

三浦:これ、三年ほど前に聞いていたら固定観念がひっくり返されてびっくりしていたかもしれません。「オリジナルでなければいけない」という呪縛の中で生きている人も多いかもしれませんし、この軸思考で気持ちが楽になる人も多そうだなと思います。

松本:「私」は、誰にも代われないですからね。私が私であることは明白で、誰も私の代わりに私をやることができないわけです。「今から入れかわりませんか?」といっても、かなわないのです。よく漫画で見るように、いっそのこと、体当たりしてぶつかってみましょうか?(笑)


誰にも代わることができない「私」という存在

松本:私が私であることの、決定的な特異性、特別さ。「独生独死、独去独来」という言葉があります。人は一人で生まれて一人で死んでいく。人生は誰にも代わることができませんよね。

私は、誰にも代わってもらえない。私の意識は「ここ」にしかないし、「ここ」がどこなのかわからないけれど、「これ」しかないわけです。誰かの代わりに気づいてあげることもできない。確かに仕事は、「ちょっとここの掃除、代わりにしといてくれない?」とかできても、「ちょっと私の代わりに座禅しといてくれない?」というのは、まったく意味がないですよね。

でもそれには「意味がない」ということに気づいてもらうことが重要なのです。

『〈仏教3・0〉を哲学する』(藤田一照、永井均、山下良道、二〇一六年、春秋社)という本で触れられていますが、まさに「なぜ私が私であるのか」という、永井先生の独在論的存在論です。あまりにも当たり前のことすぎて、あまり誰も言っていないようなことだけど、永井先生がちゃんと言いはじめた、大切なことだと思います。決定的に大事なことだと思います。当たり前すぎて気づいてないけれど、そこに気づくと、「自分らしさ」とかそういった意味が全部ふき飛んでいきます。

らしさもない。ないんですよ。そもそも「らしい」という言葉はすごく微妙ですよね。だから「自分らしさ」と言ってる時点で、自信がないのですね。「ここにいていいのだろうか」という、罪悪感に通じます。私が私としてここにいていいのだろうかという、より根本的な罪悪感。それを埋めるために、みんなの思考は結局目的志向になり、理由づけが必要だから、捏造するわけです。「私はこんなに頑張っているんだから、ここにいていいはずだ」とか、「私はこんなに社会的に地位があって役立っていて、税金も納めていて、だからここに存在していいはずだ」とか。そういうことをみんなが探しています。そういう中で、なんとか安心感を得ようとしています。

だけど、そんなものにしがみついてなくても、藤田一照さんとかが言っているようなことかもしれませんけど、「手放してしまえば、すでにグラウンドに立っていた」ということです。この木から落ちたらおしまいだと思ってしがみついていたけれど、パッと放してみたら、落ちるも何も「俺、足ついてたわ」ということを言ってくれているのだと思います。これは『青虫は一度溶けて蝶になる』(藤田一照、桜井肖典、小出遥子、二〇一七年、春秋社)に書かれています。


人は変わってしまう

松本:「一貫して揺るぎない自分の軸を持とう」なんて言う人がいますが、そんなもの本当は持ちようがありません。昨日思っていたことが今日には変わってしまうのが、人間ではないでしょうか。昨日言った意見は昨日の意見、今日の意見は今日の意見でいいのです。その時々の自分に正直であれば、それでいいはずです。

三浦:人は変わり続けるから、変わったら変わったで、その時に正直になればいいという考え方はいいですね。トランジションが起こっている最中には、これまで自分自身が言ってきたことと自分が考えることのあいだにギャップがたくさん出てきます。

「将来は起業する」とか、「~~という成果を出す」とか、夢や目標も変わっていきます。変えるのはダメだという世界観から見ると、変わっていくのは正直恐ろしいことかもしれません。しかし、周りの状況が変わっていったらおのずと考えることも変わっていきます。今の自分に正直になっていくことが、次の可能性を開いていくと思います。 

そういえば嵐が二〇二〇年一二月三一日をもって活動休止すると発表されましたね。その時の会見でリーダーの大野智さんの発言が象徴的でした。「一度、何事にもしばられず自由な生活がしてみたい」という言葉だったと思います。

このケースもトランジションの視点から見るととても面白いです。おそらく、これまで活動してきて、大野さんもただ自由に生活するということを先延ばしにしてきたのだと思います。社会の人たちの目もあるし、一般の人が想像できないくらいの葛藤を感じることもあったのではないでしょうか。したいと思ったことを抑圧し続けると、心からしたいこともわからなくなっていくものです。周りの人たちの反応はさまざまですが、我慢することがまかり通っている日本でこのように選択をしたことに対して、すごいなと思いました。

松本:話題になりましたね。たしかに考えが変わってしまうということを正直に話すのは、トランジションでも大事なことだと思います。自分の言ったことに責任を持つということは、昨日言ったのと同じことを今日も言わなければいけないということではなくて、もし昨日の考えから今日の考えが変わったのであれば、「昨日はこう考えましたが、考えが変わり、今日はこのように考え直しました」って、正直に言えばいいと思います。法治国家に生きている限りは、法律に基づいた過去の契約はきちんと履行しなければいけませんが、それはそれとして、過去の考え方や行動にまで今の自分が縛られる必要はないんですよね。でも、自分自身が自分の心を縛ってしまっている事って、たくさんあるんじゃないでしょうか。

自分の環境や、それに対する気持ちが、どんどん変わっているにもかかわらず、今までの思いを捨てられないっていうか、気持ちを切り替えられずに、動けなくなってしまっている人が多いなぁと感じています。

やりたいことが見つからないと言う人には、僕は、「人がやりたい事って、結構コロコロ変わるし、自分の心も天気みたいに変わるから、あんまりやりたい事にとらわれすぎると、辛いんじゃないですか」と言います。ちゃんと現実を見つめて、状況の変化に合わせて必要な手放しをしないと、どんどん苦しくなっていきますよね。

三浦:人生を生きていくうえで、その時々の本心からヘルプを求めてみることも重要なことだと思います。垂直的トランジション(下記引用を参照)の渦中では内面の世界がどんどん崩れていくような感覚になると思います。自分が信じていたことが一時的によくわからなくなっていきます。そのときに周りを攻撃せずに気持ちをオープンに話すことができる間柄があると、トランジションが進んでいきやすいと思います。

*垂直的トランジション 

人生いろいろな移り変わりがありますよね。変化には、チェンジという言葉もありますが、チェンジは外形的なもので、環境が変わったり人生に何かライフイベントみたいなものが起こる、そういう外面的な変化のことを指しています。たとえば、会社をクビになりましたとか、子供が生まれましたというようなことです。

トランジションはチェンジによってしばしば置き去りにされる、内面的な変化のことを指します。似たような言葉で、トランスフォームという言葉もありますが、あえてなぜトランジションという言葉を使っているかというと、トランスフォームだと「ここにこうしてある人が、何か別のものに“なる”」という発想が強くなるからです。私がここに確かにあって、その私が別のものに変容するという、さなぎが蝶になるようなイメージがトランスフォームです。

トランジションという言葉は私と松本さんが最初に語り始めた言葉ではありません。「トランジション」は、米国の人材系コンサルタント、ウィリアム・ブリッジズ氏が提唱している人生の転機を乗り切っていくための概念です。
 
『トランジション――人生の転機を活かすために』(パンローリング、2014年)はキャリアの世界をはじめとして、多くの世界で参照される本として認識されています。 ※以下、この考え方をこの本では「水平的トランジション」と呼びます。
 
水平的トランジションでは、人生の転機を乗り切っていく上で、「終わりーニュートラルゾーンー始まり」というシンプルな考えを提示しました。その功績は多くの国に翻訳され、その智慧に活かされた方々がたくさんいます。わたし自身も水平的トランジションの考えに触れ、感銘を受けました。
 
トランジションを起こしていきやすい環境を整えていくの大事です。ぽっかりと空いた時期を作ってみることや、トランジションのプロセスを観ることができる仲間をつくっていくことや、正直な気持ちを話すことができる間柄を作っていくこと。もちろんトランジションのために作為的に作っていくものではありませんが、人生のどこかでトランジションが起こっていく時には、そのプロセスがポジティブであろうがなかろうが、大変なものであろうがなかろうが、楽しみながら流れていけばいいのだと思います。

(二章 37ページより引用)

松本:余談ですが、垂直的トランジションが進んでいく中で頭に浮かんでくる欲望の手放しも起こっていくと思います。ここで一つだけ言っておくと、「欲がなくなってしまったら、何も動くことができなくなる」わけではないということです。私は欲を消し去ったことがないので実体験とは言えませんが、たくさんの先輩僧から教わったこととして、自分を満たす欲がなくなったとしても、世の中には苦を抱えた人がたくさんいるわけなので、仕事がなくなることはないんですね。思えばブッダも、八〇年の生涯を、三五歳で悟りを得た後の四五年間、人々の苦を抜くために費やしました。

垂直的にトランジションが進行していっても、まったく欲を手放しきる人はまれでしょう。でも確実に苦は手放されていくし、自分の欲してエゴエゴしくなっていくのとは違い、本質的に人のためになることができる道もまた拓けていくのだと思います。

次のテーマ:ポジティブ思考について / 思い通りにならない、その先へ

第四章目次

0. 第四章の公開にあたって
1. 将来の夢を持つということ
2. ポジティブ思考について
3. 思い通りにならない、その先へ
4. 罪悪感について
5. ラベルを貼る / 貼られる
6.「〜のせいだ」を卒業するために
7. 比較症候群
8. 四章を読んでくださった皆さまへ

頂いたサポートは、生活と創作(本執筆)のために、ありがたく使わせて頂きます!