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第四章ーじゃあ、どうする?(ふたりの対談) 「罪悪感について」

[このNoteの投稿は、2020年7月末までの公開です]


罪悪感について

努力教と我慢教

松本:よく、日本人は無宗教だといいますが、僕はそうは思いません。仏教国だろうとか、やっぱり神道じゃないかとか、そういう話でもなくて。僕が思うに、この国に一番浸透している宗教は、努力教と我慢教ではないかと思っているのです。「私はこんなに頑張っている、私はこんなに我慢している、だからここにこうして存在していていいんだよね」という宗教です。自分が存在することに対する安心感を、努力や我慢で支えようとするメンタリティです。

それをみんなが、お互いに強いているようなところがすごくあると思うんです。それがあまり強くなると、「私がこんなに頑張っているのに、なぜあの人は」とか、自分の辛さを人のせいにしはじめます。なぜそういう社会になっているかといえば、教育とか社会の仕組みとか、いろんな要素があると思いますが、やはり、幸せを未来に先送りにし続ける、成果を将来に先送りにし続ける、そういう文化がすごく強いと思っています。おそらく、経済も人口も右肩上がりしか知らないような世代は特に、「今日我慢すれば、明日は必ずもっと良くなる」という考え方をずっと繰り返してきてしまったので、それがすでに自分のクセになって染み付いちゃっていると思います。結局、先ほどの夢や目標も含め、目的的思考のクセが自分を縛ってしまっています。

夢を持てとか、やりたいことをやりなさいとか言われすぎて、「自分がやりたいことがわからないんですけど、どうしたらいいですか」と相談に来る若い学生さんが、結構いらっしゃいます。たぶん、社会の仕組みや教育が目的的思考に寄っていて、あまりにもそういうメッセージを浴びすぎているのではないかと思ってしまいます。

その一方で、努力教と我慢教の勢力が強いから、「こんなに頑張ってる、こんなに我慢してる俺って、偉い」というふうにアイデンティティを保とうとします。そんなふうに、自分で自分を縛っている人がすごく多いと思います。

夢を持たなければいけない、こうならなければいけない、なんだかわからないが、とりあえず自分にとってはこれなのではないかと決めて、そしたら今度はそれに向かってひたすら努力する。こんなに頑張ってる、こんなに苦しんでいるんだから、俺は大丈夫なはずだ。そんなことで自分を保とうとしてる人がすごく多くて、そんなのは苦しいだろうなと思います。

「私が私としてここにいていいのだろうか」という罪悪感を感じるから努力教、我慢教に駆り立てられるのです。そうすることによって、「こんなに頑張っているんだから、いていいはずだ」という思考が出来あがります。

それでも、やっぱりどこかで無理してるんですよ。苦しいから。だから、「こんなに頑張っているのに、なんであいつはあんなにのほほんとしてんだ」という空気が生まれます。そして、もっと頑張れ、もっと追い込め、ということを人にまで強要しはじめます。そんなことってないでしょうか。そういう人、いますよね。

ルールと罪悪感

三浦:普段行なっているトランジションセッションのクライアントさんで一人、存在することに罪悪感を抱いている人がいます。彼は仕事で成果をあげるために常に頑張っているのですが、休みの日も何かしら自分を高めることをしないといけないという思考の前提がとても強固です。話を聞き始めた最初の頃には罪悪感なんて感じてなさそうな発言をしていましたが、罪悪感を抱いていることが徐々にわかってきました。

この世では罪悪感を抱いてはいけないと思ってきたかのようでした。少しずつ罪悪感を抱いている自分を見つけていくなかで、緊張もほぐれていきました。「罪悪感を抱いている自分がいる」ということを把握していかないと、それを取り除くスタートラインに立てないということを思い知った一件でした。

罪悪感は自分自身も感じています。お寺に生まれたのに、なぜお寺を継がないんだとかなり高圧的に言ってくる人に年一回くらい出会うのですが、その時はどうしようもない罪悪感が生じることもあります。

ですが、この罪悪感の感情も、みんなが共同で信仰している社会規範に乗らなくてはいけないんだという固定的な思いをほどいていくと、罪悪感がオンになること自体が少なくなってきました。結局、それは社会的な規範を自分の意識化に刷り込んでいて、心の底で抱いている感情が知らないうちに抑圧されているのだと思います。

自分の実体験を考えると、罪悪感を生み出していく自分のクセを放っていくのは骨の折れる実践です。気づくことすらできていなかった時は、慢性的な苦しさがずっとありましたね。

松本:たしかに社会規範と罪悪感は結びつきますよね。たとえば、家業は家族が継ぐべきだ、とか。そういうときに、彼らが信じているものから外れている人に対してかける言葉は、結果的にそこから外れている人が罪悪感を持って、そこに戻ってくるような言葉を選んでいると感じます。それはなんであれ、「ものごと」を続けていくときの、無意識にやってしまうことなんだろうなと思っています。継いでもらえないと困りますもんね。だから恥を持たせたり、責任を感じさせたりして、彼らのルールへ来させようとしているのではないでしょうか。

文部科学省の留学プログラムに参加している学生に話をすることがあるのですが、奨学金をもらって留学するので、自分に誰かしらがお金を出して投資をしてくれたから、裏切ってはならないという意識がとても強いです。それ自体は責任感があって悪いことではないけれど、でも、実際に留学して色々経験すると視野が広がって、元々思い描いていた計画が、急に変わっちゃったりするわけですよね。もともとこれを勉強しようと思って行ったけれど、実はそれよりもこっちの方が面白いことに気づいたとか、自分にはこれがより大事なテーマだったんだと気づいたとか、理系で留学したんだけど急に小説が書きたくなりましたとか。そういう人生を変えるような経験が、また留学の目的でもあるはずです。

ですが、奨学金をもらってこれを勉強してきたんだから、自分の進路を変えてはいけないんじゃないか、元々の計画を絶対に実行しなければいけないんじゃないかと考えてしまう真面目な若い人が、案外とても多いです。これが罪悪感ですよね。

私なんかは、もうちょっと気楽に考えてもいいと思っています。なぜなら、人は変わるものだからです。変わらなかったら、成長もないわけです。色んな縁によって、今ここにこうして私がたまたま仮にあって、次に何が起こるかわからないけれど、次の瞬間もまたコロコロ変わっていくのが私です。もともと、私なんてものはいい加減なものなのです。心の天気も当てにならないでしょう。久しぶりに会う昔の幼馴染みに「あなた、変わったよね」と言われることを、おそれる必要はないのです。しがみつこうにも、実際には変わっているからしがみつけないのです。

もちろん、社会的責任を果たすとか、契約を履行することはまた別問題としてあるとしても、変わったものを変わっていないとねじ伏せることはできないのです。そこに罪悪感を持つ必要はないと思います。

三浦:理想の状態が設定されている時点で、そこに当てはまらないことが罪になってしまうのですね。現代という時代において、この理想の状態がゆるやかに移行していっている気がします。

すこし上の世代は、自分の個性を表現して生きていくというものというより、求められる役割を全うしていくようなスタイルが多い印象を受けます。逆にいまの一〇代、二〇代には自分がやりたいことをベースに物事を考えている人が多いように思えます。

しかし、時代としても過渡期ですので、何が正解かわからないまま、上の世代と下の世代のコンフリクトがたくさん起こっていると思うんですよね。もしかすると我慢教、努力教はゆるやかにほどかれていくかもしれません。逆に、文化は相互作用の中で学習されていってしまうので、それらの社会規範は継承されていってしまう可能性もあります。


セラピーととらえる

松本:努力教と我慢教の中では、「やりたいこと」にこだわってしまうと、けっこうつらいと思います。なぜなら、自分がやりたいことをやるのに罪悪感を覚えてしまうからです。たとえば、もしあなたがやりたいことが「絵を描くこと」だとしましょう。普段は会社員をやっているとして、たまには有給休暇を取って本当は丸一日、風景の絵を描いていたいと思っているとします。

だけど、みんな仕事をしいてる時間帯に、自分だけ有給を取って絵なんか描いているのは申し訳ない、みんなに悪いという罪悪感を感じてしまう人が多いです。だから、私はそういう人に、「自分のやりたいことじゃなくて、自分にとってセラピーになること、自分が生きていくために絶対にこのセラピーがどうしても必要なんだって思うことを大事にしたらどうですか」とアドバイスします。「自分は月に一回は会社を休んで絵を描く時間を持たないと、どうしても生きていけないんだ、これは絶対に自分にとって必要なセラピーなんだ」と思った方が、罪悪感を感じなくて済みます。病院に行くようなものです。

みんなこんなに我慢しているのに、私はこんなに自由でいいんだろうか。こうあらねばならないという自分、世間から見てこういうふうに思われているんだろうなと勝手に自分で思い描いて、その通りにできていないと、不安になったりイライラしたりする。私はこうして、ここにいていいのかなっていうことに対する不安、罪悪感。そして、それを消そうとする努力、すごく強いですよね。

「いい加減に生きましょう」という勧めではありません。ただ、この私がここにこうして生きていていいんだという、私の存在のグラウンドをよくよく見つめてみることは、すごく大事なことだと思います。私が私としてここにこうしてあることに、何も理由は必要ありません。

でも、何かそれを根拠づけてくれるものにしがみついてないと、自分は自分でいられないと思ってしまう。肩書きでも、ポジションでも、お金でも、家族や友達などの人間関係でも、それを持っていることによって、私が私としてここにこうしてあることができるんだというふうに思ってしまうのです。


頭の中の物語から抜け出る

松本:根本的に、私が私としてここにこうして何にもなしに、ただあることに対する、おそれとか罪悪感があるのかもしれません。本当は、私が私としてここにこうしてあることに、理由も何もないはずなのに、人間は理由がなければ安心できない生き物なので、常に何かもっともらしい理由を作り出そうとします。それをずっとやり続けているのが、人間の在り方かもしれません。

あれがほしい、これがほしい、ああなりたい、こうなりたい、最終的には、安心が欲しい、私がここにこうしてあっていいんだという安心が欲しい。それは逆に言えば、おそれがあるから、私が私としてただここにこうしてあっていいんだと思えないのです。おそれがあるから、エゴはいつも自分を失うことをおそれているから、安心したくていろいろなものをつかもうとします。つかむとか、手に入れるということ自体が、本当は幻想なんですけどね。

つかむ対象が存在していないと言っているわけではなくて、ただ、「私の物である」とか、「私の物ではない」というのは、単なる自分の中でのラベリングに過ぎないという話です。もちろん、所有権とか、社会契約的な意味で所有を支える仕組みはあります。ですが、概念上で、「南極大陸は今、私のモノになりました」と言ったところで、そこに住んでいるペンギンには何の関係もないし、地球は何も変わりません。自分の中にある幻想が変わっただけです。

独生独死独去独来、皆一人で生まれ、一人で死んでいく。私が自分で自分の中に世界を作り出し、どこまで行ってもひとり相撲を取り続けているわけです。しかも、一人相撲がずいぶんこじれてしまって、こんなことをしたら世間様に笑われるとか、こんなことは世の中では通用しないはずだとか、自分の中に世界を作り上げてしまって、その自分がここにこうしてあっていいんだと、誰かに認めてもらわないと安心できなくなってしまっているのです。

私たちは物語やゲームを頭の中に作り上げて、それを生きています。その物語やゲームをリアルだと思ってしまっているんですね。ひとり相撲が苦しいのは、ひとり相撲であることに気がついていないからです。本当はひとり相撲だとわかった瞬間から、生き方がちょっと変わってきます。

仏教に、「生死即涅槃、煩悩即菩提」という言葉があります。この話はよく映画に例えられます。ちょっと想像してみてください。映画館に入って、席に座ります。映画が始まると、映画館の設備はすべて暗闇に溶けてしまい、自分はスクリーンだけを熱心に見ていて、自分の存在は上映されているストーリーに没入していきます。それと同じで、今自分が目で映像を見たり、耳で音を聞いたり、感覚器官で掴んでいる世界は、ものすごく解像度が高くて高音質な、リアル感溢れる映画を見ているようなものだけど、実はそこにはスクリーンがあるだけです。

三浦:物語的な思考の仕方は虚構を信じること、虚構を共有することとも言い換えることができます。さらに物語は情緒的な要素や時間的な要素を含みますから、物事の伝達を行う上でいい感じのフォーマットとして育ってきたものだと言えそうです。

ありのまま世界を見ること(正見)が仏教思想の中でも重要視されますが、物語を描いてしまう自分たちを自覚的に見るための啓示のようなものですね。

松本:そうですね。ありのままに見よというメッセージの裏側には、物語をリアルだと思い込んで、物語を作り出してしまう人間の特性があると思います。

次のテーマ:ラベルを貼る / 貼られる

第四章目次

0. 第四章の公開にあたって
1. 将来の夢を持つということ
2. ポジティブ思考について
3. 思い通りにならない、その先へ
4. 罪悪感について
5. ラベルを貼る / 貼られる
6.「〜のせいだ」を卒業するために
7. 比較症候群
8. 四章を読んでくださった皆さまへ


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