見出し画像

コスプレ、そして巡礼という生活を営むパフォーマンス・アート。今日も巡礼者のふりをする。

こんにちは。現在、全国巡礼中のしょうけいです。

巡礼を始めて39日が経ちました。巡礼中は、自分の消費活動のためにお金を使うことができず、物もサービスも買えない生活をしています。できることは贈ることだけ、もしくは贈るための購入のみです。

さて、巡礼者のふりをしながら生きていて、思うことがありました。

私は「巡礼者」が何たるかを明確に言語で定義することなく、好きなように振る舞っています。

巡礼とは、巡礼者とはについて説明することはあまりありません。強いていえば、全国を巡り歩いています、という自己紹介の仕方を採用することが多めです。

この世界を生きている以上、妻・夫・息子などの家族の関係性のラベルや従業員・経営者などの関係性のラベルなど、さまざまなラベルが付けられることがあります。私はラベルを演じるのは結構 疲れます。ラベルに対して、「これをするのが望ましい」という期待がセットになることも多いし、「〜して当然」という役割がセットになることも多いですよね。

巡礼者というラベルは今のところ、そういう社会の中で非常に影響力を持っているラベリングとは、すこーしだけ毛色が違うのかもしれない、ラベルとして機能しているのかなと感じています。

「ふりをする」という表現との出会い

巡礼15日目あたりで、大阪の西成にあるココルームという場所に行きました。そこの場所はとっても面白くて、それでいて掴み所のない感じが最高でした。その場所は、ゲストハウスの営業やカフェの営業もやっています。ただ、その表現の仕方がとっても面白かったんです。

そこに集う方々は、「ゲストハウスのふり」をしながら、「カフェのふり」をしていました。

どういうこと?という感じですが、ココルームで起こっているのは、何か表現が生まれていく流れのようなもので、それがいろんな形で社会の言語に翻訳されながら、ゲストハウスのようになる場面もあれば、カフェになる場面もあれば、はたまたワークショップのようになることもあれば、オ?ペラになることもありました。

それらはなんとも言葉にしにくくて、言葉にしないままに成立してしまうかのような面白いものでした。だからこそ、社会との関わりの中で常に摩擦が起こり、さらにはその流れの中においても摩擦が生まれ、解消されるということが不断に起こっているような感覚を抱きました。

ココルームはとっても素敵な場所なので、皆さんも機会を作って、いつか行って欲しいのですが、ここから学んだのが「ふりをする」ということでした。

私は、21年7月7日から全国巡礼を始めますと話してから、白い作務衣を着始めました。そうすると、道端で「お遍路さん?」と話しかけられることを度々体験するようになりました。

これまでと対して考え方が変わっていないにもかかわらず、衣装の変化から、周りへの働きかけ方がおのずと変わってしまったみたいです。

別に、だからといって、自分の実力が上がったとか、そんなことは思わず、衣装の力をお借りしながら、コスプレをしているような感覚を抱いています。

コスプレをWikiで調べると、パフォーマンス・アートの一種だと出てきました。そう、それなんですよ。巡礼者のコスプレをしてるんです。日々、歩き、生きるということを通したパフォーマンス・アートをやっています。

そのことに自覚的になり続けるために、「巡礼者のふりをしています」と自己紹介し続けるのはいいなぁと感じているんですね。

巡礼者という表面的なラベルを一時的に身に纏っています。ただ実態はというと、そのラベルを剥がしたところにあります。それ自体、言葉で表しようがありません。

溶け出していく巡礼者という仮面

とはいえ、「巡礼者」というラベルも何かしらの色が付いたものです。

私が思う「巡礼者」は、寺社仏閣・山・海・聖地などを巡ってそうだというイメージを持っています。この前、友達から「巡礼者って、世俗の論理から浮いてそうでいいよね」という言葉を頂いたんですが、確かにそういう側面があるかもしれません。

どこを巡るかはさておき、「歩き、巡ること」という行為を日々やっている人、という感じかな。

歩き、巡ること。

常に移動するニュアンスがある言葉なんですよね。留まることがない。私の場合は、一箇所に居着きすぎないように「1箇所につき、3泊4日以上は滞在できない」というルールで動いています。

緩やかに、流動し続けるあり方として巡礼者というラベルが機能しているのを感じています。

ラベルが仮面だとしたら、仮面自体のイメージが固着せずに、動き続けているような感覚です。世の中に溶け出し続けるようなイメージすら湧いてきています。

私の実態そのものも流れるように変化しているのだとしたら、掲げるラベルもそれに伴って流動していくものがいいなと感じています。

アイデンティティは確固たるものになると、世の中の原理に反し、苦しさが増していくと思うので、いかに流動させるか、もしくはそもそも流動していることに気づくかが鍵なのではないかと日々感じます。

その際、流動するきっかけを作る作法のようなものがあると思うのですが、私が採択したのは、伝統文化と創作の間で、巡礼者のふりをしながら、巡礼という生活を生きる小さなパフォーマンス・アートをおこなうことでした。

勝手にやっていることなので、ただ面白そうだと思ってやっているのですが、道中、面白がってくれる人たちとお会いできたらいいなと心から思います。

巡礼者のふりをつづけます

こんなことを考えながら、今日も巡礼者のふりをするのです。

現在の考えの断片を書いてみました。

書いたそばから、もう変わり始めているかもしれません。

そう考えると、一瞬一瞬、愛おしいですね。

どこにたどり着いてしまうかは、縁次第。

楽しんで参ります✨


頂いたサポートは、生活と創作(本執筆)のために、ありがたく使わせて頂きます!