クォークの質量は結局...

自然科学の研究といえども結局は人がやっていることなので、ときには理屈に合わないことが広まり、そのままになってしまうことがある。クォーク質量を「MSバー」という意味不明のやり方で定義するのもそうで、みんながやっているからそうなっているとしか言いようがない。このやり方はそもそも摂動論(結合定数が小さいと思って展開する手法)を通じてしか定義できない。しかも、展開は収束しないので、どこかで精度は頭打ちになる。将来実験と理論の精度が向上したら、このやり方は破綻することがわかっている。当面はどうにかなっているし、まあ便利だから続けているだけの話だ。

では、どうやればいいのか。それを考えるには、まずはクォーク質量をどうやって決めればいいかを知る必要がある。クォークは陽子・中性子や中間子のなかに閉じ込められて出てこない以上、実験で直接測定するわけにはいかない。代わりにできることといえば、どんな量でもいいからクォーク質量に依存する量を実験で測定し、対応する理論計算と比較して実験値を再現するようんい決めることだ。例えば、陽子・中性子の質量。ただ、これはクォーク質量への依存性がとても弱いことがわかっているので、クォーク質量を決める上ではあまり得策ではない。むしろ便利なのはパイ中間子の質量だ。こちらは、質量の2乗がクォーク質量にほぼ比例することがわかっているので、その比例係数さえ知っていればクォーク質量の決定に使うことができる。

パイ中間子が軽いのは、量子色力学における自発的対称性の破れのおかげだ。本来は質量ゼロのはずだが、クォーク質量があるおかげでパイ中間子も少しだけ質量をもつ。この比例係数を決めているのは自発的対称性をおこす複雑なダイナミクスなので、摂動法ではそもそも計算できない。摂動法によらない手法、つまり格子理論による数値シミュレーションを使う必要がある。その計算も徐々に成熟し、いまでは精密な計算ができるようになっている。もちろん大規模なスーパーコンピュータを長時間使うシミュレーションが必要なので、誰でも気軽にできるというわけにはいかない。それでも、世界中でいくつかのグループが独立に計算して、その正当性は確認されている。その決定精度は(アップクォークとダウンクォークの質量の平均値に関して)1%程度。直接測定することが難しい量であるにもかかわらず、これだけの精度が得られている。

格子計算では、摂動法というのは出てこない。したがって、本来は「MSバー」という奇妙な定義によるクォーク質量は出てこない。摂動法などの手法の詳細によらないクォーク質量を定義することは可能なので、そちらが使われることが多くなっている。一方、他の研究者の慣例にしたがって結果を「MSバー」の定義に換算してしめすのも、やはり慣例になっている。余計な手間もかかるし精度も悪くなってしまうので、ばかな話ではある。さらに悪いことに、「素粒子物理の電話帳」ともいうべき Particle Data Group のまとめには、いつの時代のものか知らないが上記よりも一桁精度の悪い結果がのっている。いったい何をやっているんだろうか。

(ここにこういう悪口を書いてみたものの、私自身が上記のグループのメンバーにもなっているわけで、責任の一端があるのは間違いない。ちゃんと筋の通ったやり方をするよう働きかけなければ。)


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