質量は5か10か無限大

素粒子の電話帳を開くと、クォークの項があって、6つのクォークの一つ一つについてその質量の値がのっている。これを参照して「クォークの質量は〇〇MeVで」という話をすることがある。だが、そこに小さな字で注釈が書いてあるのに気づく人は多くないかもしれない。ここにはあるやり方でクォークの質量を「定義」してありますよ、と書いてある。電子の項にはそんな奇妙な言い訳はない。一体どうなっているんだろう。

一つだけ取り出すことができないクォーク。その質量はどうやって決めればよいだろうか。そういう話だった。クォークの基礎理論「量子色力学」のなかにはクォークの質量がちゃんと出てくる。だから、どんなものでもいいから測定量を見つけて、その実験値が合うように理論のなかにある質量の値を決めてしまえばいい。簡単そうな話だが、問題は2つある。一つは、理論に出てくる質量の値は「くりこみ」という操作を行う前のものなので、単純に考えると無限大でそのままでは意味をなさないということ。もう一つは、クォークの質量を決めるのにちょうどよい測定量があるかという問題だ。

無限大をどうすればいいかは、ここでも何度か紹介してきた。(例えばこちら。)簡単にまとめてみよう。量子色力学が連続な空間中に定義されていると考えると、クォークの質量は無限大という他ない。それでは困るので、空間を小さな画素に分け、クォークの場はその画素の上に置かれていると考える。画素の大きさは有限なので、もはや無限大は存在しない。この画素の理論でクォークの質量を「定義」する。ただし、その値は画素の形や大きさによるので注意が必要だ。そもそもこの理論は実験で起こることを再現できるように作られる。ある大きさの画素のときにクォークの質量はいくら、という対応さえ知っておけば実験値に合わせることはできる。それで十分なわけだ。

ここで「定義」されたクォークの質量は、誰がどう定義したかに応じて変わる。例の素粒子電話帳に書いてある数値も、誰かが決めてやり方で定義されているにすぎない。歴史的事情により、「MSバー(2 GeV)」という定義を使うのが標準的になっている。(バーは、MSの文字の上に線を引くことで表される。おかげでここに書くのは難しい。)MS は Minimal Subtraction の略で、「最低限の引き去り」を意味する。意味不明だろうが、どういうものかを知るとますます意味不明になっておもしろいかもしれない。試しに説明してみよう。

画素の理論では、画素の大きさを小さくすることでいろんな量が発散し、無限大が出てくる。同じようなことを運動量(あるいは波の波数)の言葉で考えることもできる。どこまで短い波長までを考えるかを決めて、それより短い波長は無視する。これも一つのやり方だ。もう一つ、奇妙な数学的トリックを使う人たちもいる。大きな運動量(短い波長)まで取り入れていくといろんな積分が発散するのだが、これを避けるために積分をどこかで切るのではなく、時空間の次元を4より小さな値にずらしておく。次元が 3.9 なら発散しないのでこれでいいことにする。3.99, 3.999 … と次元を4に近づけていくといずれは発散するのだが、その発散項だけを分離することは簡単にできる。だからその項をなかったことにすればよい、というのが「最低限の引き去り」の意味するところだ。(バーはそれを少し修正したもの。)どうだろうか。あまりに意味不明ではないか。恐ろしいことに、こういうのが業界標準として今も使われている。

まあいい。異なる定義の質量は、互いに換算することができるからだ。それに応じて質量の値は異なる。これで実用上は問題ない。これが本当の意味の「質量」ではないという問題を除いては。


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