素粒子電話帳

素粒子物理の研究者には、2年に1度、分厚い本が送られてくる。Particle Data Book といって、これまでに見つかったあらゆる素粒子の性質(質量や崩壊の仕方など)に関する実験データのまとめがのっている。(しばらく前の紹介記事はこちら。)これまでに発表された論文に出ている実験結果を集め、その平均値を計算して「世界平均」が求められ、それが表になっている。最新の数値を参照したい人は、いちいち個別の論文に当たる必要がなくなるのでとても便利だ。おかげでこの本は毎日のように誰かの論文に引用され、2年に一度更新されるそれぞれの版が合計8000件以上の引用回数をもつ。この「素粒子電話帳」の著者になっていると、自動的に膨大な引用数を稼ぐことができるのだが、まあそれは水増しに違いない。(ちなみに、筆者もそのメンバーの一人になっている。)

実験データは年々増えていく。新たな粒子が発見されたり、知られていた粒子でも新たな崩壊パターンが発見されたりして、情報は増える一方だ。数年前まで、この電話帳は厚くなりながらも一冊の本の体裁をとっていたが、ついにそれも無理になり、本には素粒子の性質に関するまとめの記事とまとめの表だけが載るようになった。本体の表はオンラインで参照できる。だが、そのまとめの記事と表ですら一冊の本には収まらなくなりつつあり、そろそろ物理的な本を作るのはやめになるかもしれない。(筆者は、国内の研究者への配送を担当しているので、仕事が減るとハッピーだ。)

なぜ素粒子はこんなに数多くあるのか。数が多すぎて、もはや全部覚えている人は誰もいない。こんなものを「素」粒子と呼んでよいのだろうか。もっともな疑問だ。実際、もはやこれらの多くは素粒子と呼ぶのは不適切で、単にクォーク(とグルーオン)の複合状態にすぎない。どんなものがあるのだろうか。

まず中間子(メソン)と呼ばれる一群の粒子がある。これらはクォークと反クォークが結合状態を作ったものだ。クォークにはアップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、ボトムと種類があるので、まずはその組み合わせに応じていろんな種類の中間子がある。さらに、クォークと反クォークはスピン(自転)をもっていて、その向きがそろっているか逆向きかによって別の中間子ができる。また、クォークと反クォークがお互いの周りをくるくる回るような状態もあって、それも別の粒子になる。思いつくままに名前をあげてみよう。π、K、η、$${a_0}$$、$${a_1}$$、$${b_0}$$、$${f_0}$$、$${K^*}$$、$${K_1}$$、D、B、ψ、Υ などなど。なかでも特別なのはパイ中間子(π)で、これは湯川秀樹が提案した核力を伝達する粒子に相当する。南部陽一郎が考えた自発的対称性の破れに伴う軽い粒子でもある。これについてはまた紹介することがあるだろう。

別の一群に、重粒子(バリオン)というのがある。これらはクォーク3個が結合状態を作ったものだ。陽子(p)、中性子(n)の他にもラムダ(Λ)やデルタ(Δ)、シグマ(Σ)などがある。こちらも組み合わせるクォークの種類やスピンの向きに応じていろんな状態ができる。添字として+や−、*などをつけて区別するが、アルファベットやギリシャ文字を総動員してもすぐに足らなくなる。おかげでしまいには、質量の値(数字)をつけて名前をつくるようになってしまった。もはやとても覚えていられるようなものではない。

他にはないのだろうか。量子色力学は、クォーク2個+反クォーク2個の状態やクォーク4個+反クォーク1個の状態も許す。実際に、そういうのも見つかっていて、テトラクォークとかペンタクォークという素敵な名前がつけられている。いまだにちゃんと見つかっていないものでは、クォーク・反クォークを一つも含まず、グルーオンだけでできているグルーボールという粒子がある。前回お話ししたように、クォークと反クォークは勝手に生まれてしまうので、グルーオンだけの状態は本来存在しないだろう。それでも、それらしい状態が見つかる可能性はなくはない。

もともと物理学者は分類学が苦手な人種だ。覚えるのが苦手で生物や化学をあきらめて物理に進んだ人も多いのではないか。それなのに何の因果か、こんな多くの粒子とつきあうことになるとは、あわれな話ではある。幸いなことに、覚えなくても電話帳に書いてあるのだが。




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