やればやるほど悪くなる

ファインマン図というのがある、例えば、電子と電子が近づき、光子を交換することで力を及ぼし、また離れていくというやつだ。電子が光子を放出して再び吸収するとかいうのもある。これらの図は素粒子の反応をイメージするためにあるのではなく、特定の散乱過程の振幅(対応する波動関数のこと)を計算する規則に付随して現れるものだ。この図のなかの一つ一つの点や線が特定の部品に相当し、対応する数式がある。それらを組み合わせて4次元運動量に関する積分を計算すれば一丁上がりとなる。言うのは簡単だが、実際にちゃんとやるのはそれなりに大変で、素粒子論を学ぶ大学院生はまずこれをマスターするところが最初の関門になる。

このファインマン・ルールは、散乱振幅のテイラー展開のある次数の計算手法を与えている。展開は結合定数をパラメターとして行われる。量子電磁力学(QED)では微細構造定数 1/137 に関する展開になっているので、最初の補正は100分の1、つまり1%程度の大きさになると期待される。次の次数ではさらにその100分の1なのでずっと小さい。QEDの精密計算ができる理由がここにある。次数を一つ進めれば精度は2桁向上するわけだ。だが、私には1次補正の計算が精一杯で、その次の次数のややこしい計算をやり切る自信はまったくない。

量子色力学(QCD)は、量子電磁力学(QED)の親戚のような理論なので、やはり同じような展開による計算ができる。ただし、結合定数は 0.1 とか 0.2、あるいは 0.3 くらいなので、QEDのような精密計算は難しい。(結合定数の値が一つに決まらないのは「走る結合定数」になっているせいだ。)さらに悪いことに、QCDのファインマン・ルールによる計算は結構やっかいで、最初の補正すらかなり面倒な計算になる。グロス・ウィルチェックとポリッツアーは、この計算を最初にやったことでノーベル賞までもらっている。私も(教科書にしたがって)1次の計算をやってみたことはあるが、もうやりたくない。さらに高次となると職人技の世界で、世界中でも限られた人たちにしかできない。

クォーク質量のをしていた。あるやり方で定義したクォークの質量だが、自己相互作用による補正を計算した上でその結果が実験値と合うように決めないといけない。(その実験値とは一体何なのかという問題はちょっと脇に置こう。)上記のやり方でクォークの自己相互作用を計算する。1次補正なら私にも計算できる。2次補正は文献を探す。だが、ここまでやっても補正の大きさは 0.3 の2乗、つまり 0.1 程度もある。10%くらいだ。次の補正も無視できない。そんな難しい計算はできないので、とりあえずどのくらいの大きさになるか評価してみることにしよう。あるやり方で高次補正がどうなるかを調べてみると、驚いたことに高次補正の係数はその次数の階乗に比例していることがわかる。2次では2、3次では6、4次では24、5次では120…。何と、補正がどんどん大きくなっていくではないか。2次補正くらいでやめておけばよかったのに、努力して先に進むとどんどん精度が悪くなるとは。

これは量子色力学の摂動計算(上記のような結合定数に関するテイラー展開)に共通する問題で、実際この計算は収束しないことがわかっている。「何だ、意味ないじゃないか」と思われるだろうか。その直感は正しい。摂動展開はおよそ2次か3次くらいで正しい値にもっとも近づき、そこから離れていくと考えられている。あんまりがんばっても仕方ないのだ。こんなときによくやられる処方箋は、摂動展開で計算できる部分とそうでない部分に分離できると考えて、計算できない部分は実験値をインプットに使って決めることにする作戦だ。無理なものは無理なのであきらめる作戦と言ってもよい。

クォーク質量の計算はこういう本質的な問題を抱えている。それもそのはずで、本当にちゃんと計算できてしまったら、実験的に見つかっていない裸のクォークの質量やその他の性質(散乱の確率など)がわかることになってしまう。そうなると理論としては欠陥で、むしろ1個のクォークの質量は計算できないほうが実験と符合する。格子QCDによる摂動展開によらない計算では、実際にこれは無限大になる。質量無限大のクォークは実験では測定できない。もっともな結論ではないか。

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