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父との別れのこと

はじめに

8月2日の早朝に、父北山郁夫が息を引き取りました。
父は典型的なADHD気質の強い人で、多動でマルチタスクをこなそうとしてはちゃめちゃになるような創造性の高い男でした。美大卒ではありませんが、猛烈な情熱でクリエイティブディレクターとして80〜00年代を駆け抜けた業界人、ザ・仕事に魂を売った男です(本当にセーターの袖を首で結んでました)。
広告代理店を辞めたのちは、祖父の稼業を継ごうとして失敗(創造的発達気質に経営は無理)。フリーランスになり、ブランディングや広告の仕事をしていたみたいです。
そんな父は5年ほど前から胸腺カルチノイドという症例の極端に少ない癌を患いながら、仕事をこなしつつ生き抜こうと模索していました。
全身の骨に転移が進み、いつ骨を折ってもおかしくない状態になっていながらも、仕事への情熱と生き抜くことへの渇望が狂気とも取れるほどに強かったのが印象的でした。
私が助教をした3年間は、コロナ禍をはじめとする所属科のイレギュラー対応と、父との別れのための3年間と言えるような、個人的には苦しすぎるものでした。父との別れをきっかけに、気持ちを整理し、私の波立った感情がなかったことにならないように、少し思うことを書いてみたいと思って投稿したいと思います(助教という仕事のことはまた後日気が向いたら書くかもしれません)。

私と「父」/ 父と「病気」 それぞれの向き合い方

私は家を出てから(いろんな事情で家に居られなくなりました)父とは距離をとって生きていましたが、病気のことを知ったり、本人の苦しみを知り、私自身が穏やかな心持ちで協力できる範囲のことだけはしようと、父に向き合っていました(具体的には会社のサポートや通院の送り迎えなど、助教という大変煩雑な仕事の合間に行っていました)。
が、その矢先、やはり父はその性格でもって、多動的な取り組みをおこなってしまい、3年前の夏私のいうことや医者の言うことを全て無視して一人で銀行へ行き転倒、大腿骨を折る怪我をしてしまいました。
とにかく父は新しい家族を養わなければ、そのために病気を治さなければ、と言うビジョンのない焦りの中で、衝動的に病気と向き合っていたのでしょう。私は体は元に戻らないから、体を使わない仕事(それこそこのnoteのようなプラットフォームを使って作家活動をするとか)を薦めはしましたが、聞く耳を持ちませんでした。気持ちは元に戻ることに執着していたように思います。
その後は、治らない怪我のケアや、薬物療法を受けたりしながら自宅での生活を試みていました。

自宅療養の末の大事件 社会福祉というセーフティネット

怪我から2年たった去年の夏、叔母から父の様子がおかしいことを聞きました。間髪を容れず父から連絡を受けた私は、その連絡内容の異様さ(整腸剤を買ってこい、お水を届けてほしい、オムツを届けてほしいなど)に配偶者によるネグレクトを疑い、とりあえずAmazonで必要なものを届けることにして、地域包括センターに藁をもすがる思いで連絡をとりました。ソーシャルワーカー二人と共に急きょ家を訪問すると、2Fの寝室に痩せ細って衰弱し朦朧としている父がいました。苦しんで何かを話していますが、いろんな話に飛ぶし何を言いたいのかわかりません。何を訴えているのかわからないから放って置かれていたのです。その状況を見るに、ソーシャルワーカーがすぐに救急車を呼ぶべきと言いました。コロナ禍の真っ只中真夏の緊急入院です。
状況は、偶然が重なったため起こったことであり、ネグレクトではなかったと結論づきましたが、その時父が死んでいたらあわや刑事事件になるところでした。
父は、ガン化した骨のカルシウムが溶け出すことによって起こる高カルシウム血症、その影響で重い便秘に悩まされ、何も食べられなくなっていたのです。
カルシウムのせいで起こる脳のせん妄で激しく怒り散らす父の様子は、その痩せ細った体の中にある生への執着を感じさせました。しかし、いくら身内でも脈絡のない怒りや怒号には耐えられるものではありません。
その入院先では持って数週間と言われた父ですが、まさかの大復活(たくさんのわがままを言いながら)を果たします。
それを機に在宅医療の体制を整え、ケアマネジャーにお願いすることで、現在の父の家族だけの力ではなく、社会的な力に頼って父をケアすることが可能になりました。
社会福祉士の方々は、私がネグレクトを疑って連絡をした時から、当事者全てに寄り添い、アドバイスをくれました。本当に感謝しています。人間や社会は捨てたもんじゃない。地域や自治体、社会というのは生命のためのセーフティネットであるということを身をもって知りました。

別れのために

一方で私はこれ以上精神的に関わることは難しいと考え、距離をさらに取ることにしつつ、父に代わって一人3ヶ月かけて、膨大な父の仕事の資料の整理を行いました(6畳ほどのトランクルームが一杯になるほどの映像や紙ドキュメントの地獄)。父はやったらやりっぱなし、そういう男です(人のことあまり言えません)金がないから全て引き払うと奥さんが言うのです。仕方ありません。
大量のくだらない書類(ロケのための連絡メモとか、よくわからない領収書まで取ってある!)にまみれた成果物を見ながら、父の才能はさることながら、それを支えた仲間たちの力こそが、彼が生み出したアイデア、優れた広告作品の骨となっていたのだと強く感じました。私の見る限り、マッキャンや博報堂にいた代理店時代を超える仕事は全くありませんでした。
私には偉そうに語っていた父の代わりに、改めて私からも、支えになってくれた方々に、こんな場所ではありますが、お礼を申し上げたいです。ありがとうございました。皆さんにも凄まじい苦労があったのだろうなと感じます。
父はずっと、その頃の輝かしい日々の自分にカムバックしようとずっとしていたのではないでしょうか。

父との別れ

少し時が過ぎ、2022年1月、私が参加した彫刻の展覧会に父はヘルパーを伴って無理を押して訪れてくれました。夏よりもだいぶ回復し、せん妄も治って私の知っている父として会いにきてくれました。
作品の前で話をし、握手したかな。浮腫んだ顔はくしゃっと笑って、朗らかだったね。僕の出来損ないの作品の前で、親父は嬉しそうだったねえ。最後まで売るのが下手だとか、わかりやすい売れる作品も必要だとか、、、ほんといつも余計なお世話だよ。本当にありがとうね(下の写真見るといつも泣けてきます。葬式では泣かなかったのに)。

それからまたせん妄がひどくなったようで、私は一方的に恨まれていたようでした。見殺しにしようとしたって言い張ってたらしい。いやいや助けたんんだよ!
というわけで、死に目に会うことは叶わず、それが最後の対面で、私にとってのお父さんとのお別れでした。
私は父との魂のお別れを、彫刻の前で果たせたんだと思っています。
出来損ないの彫刻につけたタイトルが ”Sprit (=彫刻家)" だったのは流石にできすぎていましたね。

最後に

病気は心身共に、患者や周りの当事者に相当の圧を生じさせます。それにより、意図しない苦しみを人に与えたり、誤解が生じたりします。穿った見方をしてしまったり、家族だからと負担を強いられることもあります。
私は、関わる全員が等しく苦しまなくていいはずだと思っています。そのためには誰か一人が抱え込まないこと、家族という単位で閉じて解決しようとしないこと、社会に助けを求めることが必要であると、改めて知りました。
思えば彫刻に向き合ったのは、父から遠ざかるためであったように思います。思春期を過ぎたあたりで色々ありすぎたからね。父のようなクリエイティブには懲り懲りですし、、、
彫刻があったから、大人になってからの父との距離が作れたのだと思います。そして彫刻は父とのお別れにいいロケーションを作ってくれました。
私は、彫刻のこういう存在感が大好きです。

父には天国に待ってる人がたくさんいそうなので(母は散々こっちを見て知っているから多分待ってないよ笑)、寂しい思いはしないだろうと思います。いつも全方位に全力なので、こっちの心配もしつつ向こうに集中したらサクッと忘れるでしょう。思い出さなくていいよ。楽しんでくださいね。
さよなら。またね。

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