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基本持論1.「クソミソ理論」

江戸の中期、今の神奈川県辺りの海が見える綺麗な町にいつも笑顔で愉快な左之助という子どもが住んでいました。左之助は農民の子で、まるでちびまる子ちゃんの山田君のような楽しげで憎めない元気な男の子。いつもあれやこれやに興味を持ってはまわりを楽しませていました。

左之助はある日、生まれて初めて味噌というものを食べました。これに感動した左之助は

「なんだこれはー!うまいじょー!うまいじょー!」

と大喜び。それ以来、左之助は味噌が大好物になりました。それから彼は何かにつけては「味噌を食べたいじょー。食べたいじょー。」と言うようになりました。

そんなある日、左之助は道端に味噌が落ちているのを見つけました。

「うわー!神様!ありがたいじょー!」

左之助は一目散に味噌に駆け寄り、ペロッと味噌を食べました。しかし

「なんだこの味噌!ペッペッ!まずいじょー!臭いじょー!」

と吐き出してしまいました。そりゃそうです。道に落ちてる味噌はだいたいうんこです。茶色くて見た目は似てるけど、めっちゃうんこです。

こうして左之助は味噌とうんこは違うということを学びましたとさ。

End

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今回は僕が大事にしている考え方の1つ「クソミソ理論(持論)」について投稿します。

クソミソとは月とすっぽんと同じような意味で一見似ているけど、その実は全く異なるというような意味合いで使われます。

左之助のような例はわかりやすく、「左之助馬鹿だな〜!うんこ食うかね!」と思ってしまいますが、私たちは本当に左之助のことを笑える立場なのでしょうか?

実は気づかぬうちに私たち自身が左之助のようなことをしているかも知れません。

例えば、ちょっと前の例で言うと世界中でデモが起きたアメリカの白人警察官が黒人男性の首を抑えつけ死亡させた事件。

白人警察官は対象が黒人だったという理由で犯罪者である確率が高いと決めつけ過剰な対応を行い死亡させました。所謂人種差別にあたりますが、これは"犯罪者"と"善良な市民"を「肌の色が黒いから」という理由で同じものであるとひとまとめにしたクソミソ対応です。

日本でも、一度起訴されたら裁判が確定していない"被告人"であっても"犯罪者"とある意味判断されたりします。ホリエモンさんがよく仰ってるやつですね。ゴーンさんもですかね。真実は知りませんが、可能性や噂の段階で人を判断をする必要はありません。

この他、人事制度やビジネスモデル、コミュニケーションにいたるまでクソとミソを分けられていない事例が世の中にはたくさんあり、それが失敗の原因となっているケースが多くありますが、今回は割愛。

なぜ人はクソミソ対応をしてしまうのか?と考えるとそもそも人間はクソミソ対応を効果的に活用してきた生き物だということが考えられます。

クソミソ対応とは煎じ詰めれば、物事に1つの法則性を見つけようとする脳の働きです。

ネコをネコと判断できるのはこの法則性を意識せずに使っているということですし、ピカソの絵を知ってる人が初見のピカソの絵でも、"これはピカソの絵だ"と判断できるのはこの脳の働きのお陰です。

この働きによっていちいち熟考せずとも様々なことに対し直観的に判断を下したり、日々の仕事などをノウハウ化したり、言語を習得したり、スポーツ技術を向上させたりすることが可能になります。

今流行りのディープラーニングなんかまさに法則性を見つけようとする人間の脳の働きをデジタル化させようとするものですね。

つまりクソミソ対応とは人間が生まれながらにデフォルトで持つ有益な脳の機能だということが言えます。

ただこの機能がデフォルトであるが故に、人間の差別は業が深く、あらゆるカテゴリ間の争いは繰り返されます。

さっきの白人警察官の黒人に対するクソミソ対応の件も、気づいていないかもしれませんが、実はデモを起こす側も同じように「白人警官」もしくは「白人」という粗い解像度で物事をみて知らず知らずに自らもクソとミソを同一視するクソミソ対応に陥ってしまっているのです。

クソミソフレームワークに感情が重ねれば民族紛争や復讐の連鎖に陥るのは自然なことなのかもしれません。何故なら感情もまたデフォルト機能だからです。

僕たちはどうすれば、悪い意味でのクソミソ対応から脱することができるのでしょうか。

それはまずこの「クソミソ機能」的な概念を知り、そして「自分にもクソミソ機能というものが備わっているのだ」ということを深く理解することです。

そして時にメタ認知により自分を俯瞰的にみて

「あー俺いまクソミソだ。うんこ食ってるわ」

と認識することです。そうすることにより物事を俯瞰的に見ることができます。

ただし、繰り返しですがクソミソフレームワークは素晴らしい機能を持つという一面を忘れてはいけません。両面見ないとそれこそクソミソ理論のクソミソ対応化というクソミソパラドクスに陥ってしまいます。(何言ってるかわかりませんね笑)

つまり、あれもこれも分けすぎると何の結論も言えなくなるということです。ディープラーニングでいうところの過学習ですかね。

なので自分自身に備わるこのデフォルト機能を制御し適切に有益に利用していくことが重要です。


さて、冒頭の質問に戻りますが私たちは左之助を本当に笑える立場だったのでしょうか。私はそうは思えません。

私たち自身が実は左之助だったと思うべきです。

自分自身が左之助だったということに気づいた今、道端に落ちている味噌を食べるのはもうやめましょう。

そして、この有益な機能を使いこなし、分別ある人類としてよりよい社会を築いていきましょう。


以上。



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