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才能について


才能という言葉について最近考えるので、そのことについて書こうと思います。

わたし個人としては、「才能」という言葉が好きではありません。というのも、才能とは目に見えるものではないし、ただの概念だと思うのです。

たとえば、スポーツ選手がオリンピックに出て金メダルを獲得。それに対して「才能だね」というのは、その四年間かけた努力を一切評価していないのではないか、それはとても失礼なことではないのか、と思うのです。

引退されたイチロー選手のこれまでの成績などは言わずもがなですが、そんな彼を天才と呼ぶ人がいます。彼は何も努力せず、のほほんと暮らし、そして結果を出してきたのでしょうか。


分野を変え、歌手ではどうでしょう。世界的に有名な歌手、ビヨンセ。彼女は歌声が素敵ですし、美貌も兼ね備えていると思います。彼女は世界的にCDが売れ、各地でコンサートをし、ソールドアウトが当然です。が、もし、ビヨンセと同じくらいパフォーマンスやダンスができる人がいたとして、それでもビヨンセほど世界で名を知られないまま歌手を続けなかった人は、才能がある/ないで計れるのでしょうか。

ゴッホは、生前に売れた絵が一枚だけ、というのも有名な話ですが、亡くなってから人気が出始め、いまでは残っているすべての絵が何億で売買されています。彼が生きていた時代、彼は才能があったと周りに言われていたでしょうか。


結局、才能というのは周りの評価だと思います。そして、都合よく使える便利な言葉だとも思います。


自身の話になりますが、言葉についての考えは理解できますし、どういった意図でそれを使っているのかもわかった上で、わたしには才能はないと思っています。

人を笑わせたい、映像を作って人を楽しませたい、音楽で感情を共有したい、そういう根底の上でわたしはモノづくりをしていますが、わたしにはそれらの才能はないと感じています。


アメリカで映像を勉強していて、同じクラスの人に「君は才能があるね」なんて言われたこともあり、なんだか良いことを言われていると思い、ありがたく思いました。ですが、その作業の間もひたすら悩み、どうしたら面白くなるのかを必死に考え、そして完成したものだったのです。わたしとしては、「才能」という言葉で片付けられるより、面白いものを作ったね、と言われたほうが嬉しかったかもしれません。

自分自身が努力をした上でそう言われ、実際に感じたことでこのことについて考えるきっかけになったので、とても面白い経験でした。


ここまで、才能というのは曖昧なもので、あまり好きではないという話をしてきましたが、そんな中でもわたしは才能というものを他人に感じたことがあります。

周りにいる人を和ませたり、人を引き寄せる才能です。

そういう人たちの特性としてわたしが気づいたのは、彼らは何も武器を持たず、攻撃も防御もせず、人を受け入れる器があるのではないかということ。



なにやらとても抽象的で漠としていましたが、もし才能というものがほんとうにあるとしたら、わたしはそういった類のものに憧れます。


自分にとっての「才能」とはなんなのか、誰かの考えるきっかけになれば良いなと思います。

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