見出し画像

死者と動物の哲学 5

▲ 前回


死者がもう存在しないと信じつつも、肉体を離れた死者の存在を仮定し、葬儀を行うふりをする。そのようなことは、そもそもできるのだろうか。

できないように思われる。それは、葬儀というものに、死者の肉体を葬ることがかかわってくるからだ。

私たちは、死者の肉体を捨てるということをしない。しかるべき儀式によって、死者の肉体を葬る。それは、死者のためにそうするのだ。そのとき、私たちは、死者がまだどこかにいると信じている。つまり私たちは、葬儀をするとき、死者がまだ何らかのかたちで、どこかにいると信じていざるをえないのだ。

死者がもう存在しないと信じながら、死者の肉体を葬るということは、じつは不可能なことなのである。

そんなことはない、と言いたくなる人もいるだろう。死者がもう存在しないと信じていても、死者の肉体を葬らなければ、生きている私たちの気が済まないではないか、と。

では、なぜ私たちの気が済まないのだろうか。死者がもう存在しないと信じているなら、なぜ肉体を葬らなければ気が済まないのだろうか。

死者を忘れたくないからだろうか。

いや、死者を忘れたくないという理由なら、死者の肉体を剥製のようなものにして残しておくだろう。だが、私たちはそうはしない。私たちは、死者の肉体を葬り、それを私たちに見えないようにするのだ。

それなら、肉体は死者が大切にしていたものだから、肉体を葬らなければ、生きている私たちの気が済まないのだろうか。

死者が大切にしていたものは、肉体のほかにもあるだろう。たとえば、死者が生前に時計を大切にしたなら、その時計を捨てるということはしないだろう。

だが、この説明でも足りないところがある。なぜなら、死者の肉体が、死者の大切にしていた時計のようなものなのだとしたら、それを捨てないだけでなく、見えるところに残しておくのではないだろうか。しかし、私たちは、死者の肉体を葬り、見えないようにしてしまうのだ。

それではなぜ、私たちは死者の肉体を捨てたりせず、葬るのだろうか。生きている私たちのためにそうするのだ、という考えでは説明がつかない。

葬儀をするとき、私たちは死者がまだどこかにいると信じていざるをえないのである。その死者のために、肉体を葬儀にゆだねるのである。


▼ 次回


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?