【短編小説】合法的な過去改変

「お隣の良治君、第一志望に合格したんだって」
 リビングでみかんを食べているときに、妻が不意に切り出した。僕はみかんの筋を取る手を止めて両の眉を上げる。
「そうなんだ。無理そう、みたいな噂だったけれど」
「それがタイムマシンで2年前に戻って、庭の木を切るのを中止したら……成績が急上昇したって」
「あの木?」
 僕はみかんを口に放り込み、窓の外をちらりと見やる。お隣と我が家を隔てる塀がすぐそこにあり……その向こうにぐにゃぐにゃと不格好に曲がった木が、苦しげに天へと伸びているのが見えた。
 あの木は一昨年切られてしまって、ただの切り株と化していたはず。その伐採を中止した結果、どういう理屈か分からないけれど、一人息子の良治君の成績が向上したわけだ。
「バタフライエフェクトっていうのは分からないものだね」
 僕はみかんの皮をゴミ箱に放り込んだ。
 過去改変自体は別に珍しい行為ではない。ご近所さん同士の噂話に上がるのは、こういう原因と結果が容易につながらない面白おかしい出来事だ。
「……でも良治君が合格したってことは、誰かが代わりに不合格になったってことだよね? 違法な過去改変に当たらないのかな」
「弁護AIに相談したら、ギリギリセーフだったって。他人を妨害したり、試験の結果が出たあとでそれを捻じ曲げたりするのはアウトらしいわ」
「そうなんだ。法律は難しいな」
「ねぇ、うちも久しぶりに過去改変で何かできないかしら。もちろん合法の範囲で」
「違法合法以前に事故が怖いからなぁ……。木村さんのところは、現代に戻ってきたら新居がパチンコ屋に変わってたそうだし」
「それは分析結果を無視したからでしょう。AIに正確に判断してもらえば大丈夫よ」
「う~ん、そこまで言うなら……」
 僕は腕組みして天井を見上げた。
 過去旅行だったら、妻と2人で毎月のように出かけている。けれど過去改変とはご無沙汰だった。僕が性格的に面倒くさがりであることが主な原因。何か重大な理由があるわけではない。
「……じゃあやってみようか。今日はどうせ予定もないし」
 僕が言うと、妻はパッと花が咲くように笑顔になった。彼女はウキウキとした様子でさっそく身支度を始める。ピクニックにでも行くような雰囲気。いや、お弁当を持たなくていい分、ピクニックよりも気軽なものかもしれない。
 多分妻にも、特別に変えたい過去があるわけではないだろう。日曜日の午後の単なる暇つぶし。それ以上でもそれ以下でもない。
 
 僕はコートを身につけ、妻と一緒にエレベータで3階に上がった。廊下をしばらく進むと、電子錠で閉ざされたドア――タイムドアに突き当たる。僕はドア横のパネルにパスワードを入力した。
「どのくらい前に戻ろうか」
「どうしよう。1年前とかでいいんじゃないかしら」
 妻が曖昧に答えた。僕はパネルに「-1Y」と入力――直後、ピコーンという電子音が鳴った。
「計算ニヨルト、346日前ガ、オススメデス」
「なるほど。じゃあ試してみようか」
「そうね」
 僕は妻とそんなことを言い合って、パネルに「-346d」と入力した。ゆっくりとドアを開けて、妻とともに“向こう側”へと移動する。
 タイムドアを抜けた先は、先ほどと同じ廊下だった。僕らの家の見慣れた廊下。ちょうど入ったドアから出てきたような恰好で、僕は妻と立っていた。
「ここが346日前?」
「そうらしい。僕たちはちょうど出かけているみたいだね」
「ここで何をすればいいのかしら」
「物置のパスワードを変更しておくといいみたいだ」
 僕はドア横のパネルに目を向けて、そこに表示された文字列を読みながら言った。妻とともに廊下を進み、エレベータに乗って2階の物置まで移動する。
 僕はさっそく、物置のドアの開錠パスワードを変更した。過去改変はこれにて終了。けれど、せっかくなら何が起こるのか見届けたいという気持ちはあった。僕は妻と一緒に隣の部屋に移動する。物置をロックしておくだけで、過去がどんなふうに改変されるのか――ドアの隙間から観察することにした。
 
 隣室でじっと息をひそめながら、僕はぼんやりと、この時代にいる僕と妻のことを考えた。今は出かけている彼らが帰宅してきたとき――もしも僕らが入れ替わってみたらどうなるか。何か大きな問題が起こるだろうか。それとも案外、不都合なく暮らしていけるだろうか。そうやって過去人と入れ替わっている未来人も、世の中にはいるのだろうか。
 僕らにはたしかめようもない。たしかめる意味もない。それが違法なのか合法なのか、僕は知らない――。
「ねえ、何か音が……」
 小さく声をかけられて、僕はハッと我に返った。たしかに、家には誰もいないはずなのに1階から物音が聞こえた。僕は妻と一緒に息を殺し、ドアの隙間から廊下の様子をうかがう。やがて、エレベータの駆動音が聞こえてきた。
 誤作動だろうか。
 いや、そうではなかった。
 エレベータに乗って、僕らではない何者かがこの2階に上がってきたのだ。マスクと帽子で顔のほとんどを隠した男性だった。
「……泥棒かしら?」
「そうみたいだ」
「全然気づかなかった。この日は泥棒に入られてたのね」
「その過去を変えるようにAIは言っているわけか。でも、何を盗まれたんだろう」
 僕は小声でひそひそと会話しながら首をひねった。泥棒であるからには、彼は何かを盗んだはず。けれど僕には心当たりがない。
 僕らは物音を立てないように、岩になったつもりでじっとしている。ドアの隙間から観察を続けていると……泥棒の男は物置の前で足を止めた。ドアノブに手をかけるが、当然ロックされている。彼は近くにある操作パネルに手を伸ばし、パスワードを打ち込んだが……ドアが開くことはなかった。
「困ったな……。パスワードが変わってる。この部屋にスーファミがあるって聞いてたのに」
 泥棒の男は、マスクの下の口をもごもご動かした。未練がましく操作パネルに触れるが、ドアは貝のように沈黙したままだ。
「ここがダメなら、もうスーファミは手に入らないよ……。ごめんな、タカシ……」
 男は悲しそうに肩を落とした。どうやって我が家のドアの開錠パスワードを入手したのかは分からない。とにかく、当てが外れた泥棒はしょんぼりしながら、あっさり廊下を引き返した。
 彼の後ろ姿が見えなくなった直後、エレベータの駆動音がした。そしてそれっきり、何も聞こえなくなった。
「行ったのかな」
「行ったみたい」
「本来の歴史ではスーファミが盗まれてたんだ」
「全然気づかなかったわね」
 僕は妻とともに廊下に出て、物置のドアを開けた。段ボール箱がいくつもいくつも山積みになっている。僕らは2人で協力し、それらの箱を取り出していった。やがて一番奥に「レトロ」と書かれた段ボール箱を発見した。
 
 中には灰色の機械が大事に収められていた。
 
 スーファミは、100年近く前の超レトロゲーム機だ。たしか、祖父が亡くなったときに譲り受けて以来、物置の奥にしまい込んで放置してしまっていて……今の今まですっかり忘れていた。もしかしたらこのまま死ぬまで、盗まれたことにさえ気づかなかったかもしれない。
 AIに導きのおかげでスーファミは盗まれずに残った。
「何も盗まれなかったなら、過去改変は成功ってことかしら」
「そうだね」
「でも、盗まれちゃった方の未来も少し気になるわね」
「そうだね」
 僕は2度うなずいた。廊下の先――泥棒の背中が消えていった角に視線を向ける。本来の歴史に――彼がスーファミを持ち帰れた未来に思いを馳せようとする。そして彼の人生にも思いを馳せようとする。けれど結局うまくいかなかった。僕はあの泥棒について何一つ知らないから。
 
 僕らは段ボール箱を物置に戻した。パスワードを元通りに設定しなおして3階へ上がる。そしてこの時代の僕らが帰ってくる前に、タイムドアをくぐった。スーファミを盗まれなかった未来へ――何一つ変化しなかった日常へ、僕らは帰った。