白い楓(8)

 香山は、メールの受信ボックスに見慣れぬアドレスを見つけて、さらに内容を読むとしたり顔をした。メールを読むと、フリック入力に込められた殺意と焦燥が伝わってきた。
『憎たらしい女Kを殺したい。どうすればいい?』
 殺害、傷害の相談をしてくる人間はほとんど痴情や借金を契機としていた。
 何かを計画するとき、石橋を叩いても渡らないほど慎重な香山は決して、顧客に対して自分の素性をさらす真似はしなかった。ぎりぎりまでメールで連絡を取り、それがどうしても叶わぬ場合のみ彼は顧客の前に姿を現した。そして、それほどまでに一つの可能性に執着する理由などありはしない。香山がその男にメールで請負殺人の話を出し、一人であれば一千万円と、別途費用を請求する旨を伝えると、とんとん拍子で契約が成立した。
 夜道を襲い、陰惨な死に目を見せてやりたいと思う経験は、きっと誰でもあるのであろう(他人への期待の裏腹であるが)。その願望を自らの手を直接汚さず、金を支払うだけで完全な形で叶えられるのであれば、どんな時代であっても必ず一定数の人間が変貌を繰る悪魔との契約を選ぶ。悪魔が契約の代償として鶏の頭やヤギの角を要求するように、香山は金を要求するのであった。

 極めて互いが利益を望む取引を前に彼は、自分の素性をさらさずに報酬を得る方法を考案した。彼をひととき悩ませたのは、報酬の受け取りであった。料金を後払いとすれば顧客が料金支払いを逃れる可能性があり、前払いにすれば、詐欺だとみなした顧客は契約締結を拒む。試行を重ねた彼は料金を後払いと提示することにしていた。すると次の一手で依頼人が我々から遁走する問題をコロンブスの卵の発想で解決できる。それは実に単純で、『貴方が支払いを拒むなら、要員を派遣する』と伝える。これだけである。二通りの状況を想定した。①顧客が単に支払いを拒んだ場合。脅迫通りに派遣し、支払いを了承するまで拷問させる。②顧客が連絡を絶ち、逃走した場合。間柄の深い人間が逃走すれば、警察が怪しんで捜索を始める。②の場合でも完全に回収できるよう、彼は間柄の深くない人間を対象とした殺人や傷害の契約をしないことにしている。繰り返しになるが、香山は石橋を叩いても渡らないのだ。
 今回の仕事を進めるにあたって、周旋人は自らKの身辺調査をした。もちろん、本人を特定するために写真を撮ることを忘れはしなかった。Kは、仕事の合間を縫ってはクラブに向かい、そのたびに別の男と行為を重ねては夜空をやり過ごしていた。そこで周旋人は、Kの股のゆるさを逆手に取ることにした。何年も前、実際に新宿のラブホテルで立て続けに三人の女性が殺害された事件が起こっており、その犯人は野放しのままで時効を迎えた。獣道を歩く方が楽だという当然の考えのもと、このやり口に則ろうと考えた。それでもなお対策として防犯カメラの設置を怠ったところを探し、(どうやって条件に合うラブホテルを探したのかは言うまでもない。調査を楽しんだ)、そこを選択した。
 明に指示して、殺害を実行に移してもらったならば、顧客からしかるべき料金を徴収するのみである。顧客には料金を持ってくる場所を説明し、のこのこ現れたところで、背後から気絶させて奪い取った。
 人の命の重たい尊さなどを、香山は仕事の最中に考えないようにしていた。考えそうになれば、すぐに煙草を吸って中断し、仕事に戻った。Appleですら若い命の将来を踏みにじって世界の頂点に躍り出たし、(中国などにおける最低賃金以下の児童労働、子供を含んだコバルト採掘従事者の呼吸器疾患を見よ)、プラハできれいな言葉を並べたオバマは核を廃絶しない、耳障りの良い言説を隠れ蓑にした定義から外れぬ偽善者だった。彼らと自分とを比べれば、自分が生涯で重ねることができる罪などは、摂るに足らぬ矮小な存在に思えた。
 請負殺人一件だけで一千万の報酬である。非常にうまい。リスクを考えれば安すぎるくらいである。徴収を終えた周旋人は取引完了の旨を依頼主の男にメールで伝え、返信を待たずにメールアドレスを変更した。仕事終わりにふと、窓の外に夕焼けを見て、煙草を吸った。

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