白い楓(10)

 労働に区切りをつけた煙草までを思い終わった周旋人はドアの窓を開けた。静かだった車内に、六本松駅で発生する音が入り込んでくる。ダッシュボードに乗った拳銃はそのまま、万物の接触を依然として拒んだ。賑やかになった筈なのにこの拳銃だけは、静寂なんぞ何処吹く風よ、という感じである。
「何か?」
 香山は腹に力を入れ、それでいて力を過度にしないよう注意を伴った。語尾が震えたり、硬調になったりするのを避けるためだった。聞こえた自分の声を信じれば、成功を収めたといってよい。そして心得よ、香山は警察官に情報を与えすぎてもならないし、その逆も然り。この点については後述する。
「こんばんは。免許証いいですか?」
「ええ」
 少し腰を浮かし、財布を抜き取り、その中にしまってある免許証を差し出した。偽造はしていないものであった。警察官は香山の名前を読み上げると、何にでもないくせに納得するような調子で一言二言口にして、免許証をこちらへ返した。そして、思い返せば実に妙であるのだが、警察官は自己紹介を始めたのだ。香山今まで幾度となく職務質問は受けてきたが、このように自分の素性をすすんで明かしてまでこちらの警戒を解こうとする警察官を初めて目前にして、違和感を覚えていた。警察官が言った。
「僕はスズキマサキです。あてる漢字ですがね、よくある鈴木に、正しい、樹木で、鈴木正樹です」
「鈴木、正樹、微妙に韻を踏んでいていい名前ですね」
 香山は気をまぎらわすため、ちょっとした機知を口にした。名前の意味などありはしないことは心得ていたが、自身の評価が向上することを心底拒む人間もあり得ない。
「よく言われます」
 香山は鈴木の服装をもう一度確認した。左胸には桜をモチーフにしたワッペン。帽子にも同じワッペンが付いている。勘弁してほしい、と思った。
「車両の中に入りたいのですが」
 警察官は車内に侵入するものなのか。それともこの男の所属する警察署なり交番なりで決まっている方針なのか。とにかく、不自然であることに変わりはなかった。香山は眉を上げて、どうぞ、と手を差し出しながら、急ぎ足で拳銃の所持についての言い訳を考えた。
『俺はミリタリーマニアであることにしよう。そうすれば銃の所持の理由づけとなる。銃の描写はどうするか。エアガンはプラスチック製が主流のため、通らない。ともすれば一般人には流布していないガスガンかモデルガン。ほぼあり得ぬ杞憂であろうが、マガジンを引き抜かれた時、実弾が露出すればガスガンでは通らないのだ。映画撮影に使われるモデルガンというのであるなら、その危険を回避できる。成る程冷静になってみれば、実銃に一番近い合法のものとしてはモデルガンに勝るものなどない。そしてミリタリーマニアだからといってモデルガンを持ち歩くことはしないが、映画撮影の関係者ともあれば打ち合わせに使用した、で通る上、シナリオに関わるから、と詳細な情報を隠すことも容易い』
 論理を組み立てているうちに動悸は収まった。
 彼はまだ車の中に入らなかった。
「少し変なことかもしれませんがね、最近はこうやって中に入るように言われていてですね」
「え? それはまたどうして」
 香山は警察官との会話を余儀なくされたときに、自分が実際に抱いた疑問は表面に出してしまっても問題ないと考えていた。なぜならば、彼が車内に入りたがることそれ自体が本当に不思議だからだ。わざわざ車内へ入る目的が理解できない。
 ……だめだ、と論理に穴を見つけた。シナリオに関わるから、ぐらいでは引き下がらない警察官の職業病のようなものがある。行ってしまった以上は取り下げることはできぬ。これで逃げ切ることは果たして可能なのか。
 嘘が下手な人間ほど嘘に嘘を重ねて相手に矛盾を見抜かれるのだ。作り物は必要最低限でいい。これは香山が学生時代に聞いた話だが、センター試験、国語の正誤問題の誤答を作るに際して最も苦労するのが、如何にして間違った要素を選択肢に混合するか、であるらしい。無論、再度述べるまでもなく一番嘘の少ないものが問題の正答率を下げる一因となる。つまり、香山が今から答える内容には嘘をなるべく含まないものがふさわしいのである。……国語という当時最も槍玉に挙がって実用性を疑われた教科が、役に立つ日が来るとは思わなんだ。
「失礼します」
 鈴木は助手席に座った。いかに彼の疑いを生まぬようにするかを模索する香山にとっては、彼が車の外にいた時と、車の中にいる今では、大分勝手が違った。身に染みて伝わる緊張感と、いかにして自分の身を守るかが大変だった。
 驚くなかれ、彼は突如、声の調子を変えて敵意を露わにしたのだ。
「あんたが香山か」
「俺が香山?」
 言い終わるか言い終わらないかのあたりで、鈴木正樹と名乗った男が腕を香山に伸ばした。そして彼の手の行方を捜索した当たりで、呼吸が困難になって、喉に袖の生地が強く当たって痛みはじめた。
 香山は、『お前が香山か』という言葉に反応した自分の思慮の浅さを呪い、鈴木は偽名であろうかと、男の殺意を見ながら諦めに似た感情を得た。男の見事な手際で呼吸がなかなかできず閉口してしまった。
 鈴木と名乗ったその男は、確実に香山の首を絞めて殺そうとしており、行動には必死さがうかがえた。
 声を出さずに喘ぐ周旋人は、自分の過去を内省していた。
『俺は、自分の虚構の愛を現実であるかのように見せかけ、幾人の女から搾取を繰り返すヒモの生活をしていた。ある日を境に自身がヒモであることが耐えられなくなり、すべての女に真実を打ち明けて関係を絶った。思えばあの瞬間、俺は女を虜にする能力を自己愛の材料としていて、自身の時間を無駄にされたという女の悲嘆は全く響かなかった。あくまで俺は、理想像に反した自分から遁走したにすぎなかったことを認めなければならない。
 人生というのは、金が無ければ何も叶わないものだ。俺は、風俗店でバイトを始めた。電話の鳴るままに案内所へ客を迎えに行き、笑顔で嘘をついては女を売っていた。そして、客に辛辣な行為をされ、泣きながら退勤してゆく従業員を、数知れず見た。俺がここで働いているからだ、と自覚しながらも、自身の生活のため、と仕事を辞めなかった。諸悪の生みの親は店長なのだ、と責任転嫁しては、自分が歯車以上の何ものでもない、と正当化しようと試みていた。だが、建設者の俺は皮肉にもその論理の空洞性を見透かしていた。日に日に、他人の苦痛を目にするうちに、他人の痛みに慣れるどころか、拍車をかけるように世界への認識が厳密性を増したのだ! この時期から俺は、以前より喫む煙の量が明らかに増えた。煙草は手軽に入る合法なドラッグの一つであり、罪から意識を遠ざけるために、どうしても薬に頼るほかなかったからだと推測する。やがて店は潰れ、また俺は収入源を失った。
 そして、ろくな職歴もなかった俺は仕方なくこの業界に足を踏み入れたのだ。夜の街で働くと、様々な方面から客を受け入れる。次第に、運命とやらのせいか、物騒な方面ばかりの人脈が増えていった。そして様々な物騒な人間を自分の配下に置き、人を傷つける商いを始めた。
 俺は……大変に汚い人間だった。罪悪を思い返せば思い返すほどに、こうして迫りくる死は、美しく清らかな方法で俺を浄化してくれるかのような観念に見える。生きながらえるには、罪を重ねすぎたのだ。今現実に自分が殺されるのも、天罰覿面であった。黒い闇が徐々に思い描いた景色に滲み、とうとう俺は幼少期の自身の顔写真すら浮かべる始末である。明らかに、俺は人生を悔いていたのだ。そして俺がここで死んで誰かの役に立てるのであれば、それ以上に何を望むのであろうか。……』
 懺悔を終えた香山は、死を迎え入れることにした。相変わらず苦痛が襲うが、それもあと少しで終わる。
 すると香山は気管が広がるのが分かって、空気を急いで取り込んだ。咳とともに唾液が口から飛び出て、男の腕が離れたことを確認した。
 窓の外には、男の肩にナイフを深々と突き立てる明の姿があった。鈴木が悶絶していた。
「離すな、明」と、香山は言った。……つもりであった。実際には違った。
 明は顔に痣のような傷を負って、上の前歯を一本欠いていた。香山は快活にダッシュボードの上の拳銃を回収して、男に向けた。明がナイフを抜き取ったかと思うと、もう一度、二度と肩を突くので、ふためいて制止した。白妙な顔の明が、明確な殺意を伴って鈴木の肩を刺しているように見え、今彼に死なれては、自分が命を狙われた意味が知れなくなってしまう、と焦ったのだ。
 このとき香山は、後々振り返ってから初めて自覚に至ったのだが、死を受容する姿勢というものが全くに欠如していた。死は目前に近づけば、あれほどまでに美化された観念に化けたのに、救済を得て遠ざかった途端にそれは忌むべき滅亡の黒々とした固まりに戻ってしまったのだ。死は遠くから見ると怖ろしく、近くから見れば美しい、奇妙な遠近法の論理を持った概念であった! ……もう一つの道が可能である。彼が死を美化したのは、あくまで自身の幸福を増やすための、即席の自己正当化行為だったのではあるまいか? 現に彼は、幸福から離れた今ですら幸福に満ちて拳銃を構えているではないか!
 鈴木と名乗った男と明とを後部座席に乗せ、香山は駅から出発した。幸いにも、誰も自分達に注意を払っている様子の無かったことは、人々の無関心に感謝せざるを得ないところであった。

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