香山の16「ここでキスして。Ⅰ」(34)

 ふと私は、助手席に気配を感じた。車には一人ぼっちのはずだった。すなわち、私はその気配を無視しようとした。しかし、のっぴきならぬ心地がして、念のために左へ顔を向けた。

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 女が座っていた。Kだった。遠くから見つけて、写真を撮った、あの女に相違なかった。彼女は、下を向いて座っていた。白いブラウスを着て、黒い短めのスカートを履いている。濃い色の苺を思わせる口紅は、少しの冒険心を表すような風情で、大変に趣深い印象を私に与えた。そして、その印象には、程よくふくよかな頬や、海風のようにまっすぐな鼻筋が加勢していた。何より、目については段違いなものを持っていた。彼女の瞳には、ラピスラズリや金緑石の放つ光があった。白目には濁りなんぞは言うまでもなく、いかなる穢れも浮かべていなかった。この女を見て、振り返らなかった男は後悔するか、わざとらしく道を戻って拝みに行くかの二種類だけだった。しかし同時に、どこかに一度でも紙を滑らせれば切り傷がついてしまいそうなほどのもろさがあった。
 私がこの女を見て、何の色欲も催さなかったのは、その現実性の皆無によるものだった、とは言うまでもない。男が女を美しいと評価するとき、それは内に湧き上がる性欲を通過している評価、というのは有名な話だ。対照に色欲を覚えなかった私は、彼女の魅力を性欲のフィルターを抜いて知ることができたことになる。助手席に座るこの女が女神だと言われれば、私はその宣告を歓迎し、あがめ続けただろうに。
 彼女は、依頼を受けた私と明によって窒息死させられたはずの女だった。きっと私は、また罪悪感から幻覚を見ているだけなのだ。すると、サンシェードを女が下げてみせた。サンシェードは、確かに動いたのだ。私は夢を見ているのか。
「香山が風俗店で働いていた時の話を聞かせてよ」
 私はなぜかゆっくりゆっくりと話をしていた。夢の中において、本来起こり得ないことをあたかも起こり得るありふれたことのようにとらえるあの感覚に似ていた。
「ヒモをやめたとき、学歴も職歴もなくて、どこも雇ってはくれなかった。俺は途方に暮れた。親からはすでに縁を切られていたから、もうたくさん稼げるのは水商売だけだと思った。とにかく、その場しのぎでもいい。何か収入がないと死んでしまう。俺はその場しのぎと、水商売の世界への好奇心で入った。きっと何か他の世界でも役に立つことが学べるかもしれない、と思った。実際、役に立つこともあった。店に入って来た客は、原則として帰さない。その場で話をつけ必要とあらば嘘をついてでも客から金を奪っていった。写真を先に見せずに、
『お客さん、今、少しぽっちゃり系とスレンダー系の子がいるんですけど、どちらがいいですかね。ああ、はいはい、そういう条件でしたら、この子ですね』
 と言うんだ。客には、自分で女を選んだという自覚があるらしいが、本当は違う。すべて、店側の都合で決めるんだ。結局、客は女に対面するまで本当の姿を見ることなんぞできやしない。部屋に入れば、八割は出てこないで、妥協してセックスをするんだ。こんなのは、映画館のシステムにも似ている。観客は、映画を見終わるまでその映画が本当に面白いものなのか、面白くないものなのかが分からないんだ。あの日も、その嘘がいけなかった。仕事が終わると、俺は部屋にいる女から呼び出された。彼女はベッドに腰かけ、煙草を吸いながら俺を待っていた。彼女は泣いていた」

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