白い楓(3)

 高等学校に身を置いていたころの周旋人に向かって、彼のもとを去る決断を言い渡した女の名前はナナであった。ナナはその決断を、敢えて対面を避けて文字だけでそれを成し遂げてみせた。しかしこの過去もこれでは終わらぬために巷でよく聞く話に成り下がらなかった。
 ナナが香山と交際を始めてすぐのころ、女は暴漢に襲われて激しい人間不信に陥った。当然人間不信というのは、自分の肉体への干渉を受け入れるはずの男性から乱暴されたことにより育まれた憎しみに似たような行動なので、その牙は、暴漢と同じく男性である香山にも向けられた。
 慰めようと電話をかけた香山に女は告げた。
「今は話したくない、男の人が怖いの」
 たったこれだけの音声データが香山の心を残酷に抉り取った。自分の何がナナにそう言わせしめたのか、いやその前に一体自分に非はあるのか、思い悩んで彼は、ナナに狂言ばかり吐きつけるようになった。振り返れば、女へ、この心のくぼみにはさまった本心をありのまま見せつけることが適切でないように思われたからだったのだろう。こうして愛を打ち明けて交際を始め、それでも正直な傷を香山から隠さんとするその行動が表しているものは、ナナの抱く彼への不信だった。自問の末に見出されたその解答は悔恨の情を香山にひとまず植え付けた。自分がどんと構えることのできぬ男だった。そしてそんな男に付き合わせてしまった。もっと、何事にも動じることのない石の姿勢が必要だと感じた。そうすればナナの気を引き止めておける、と甘ったれた希望を持っていたのだ。
 数日ナナからの連絡が途絶え、一週間後に女が別離を提案した。
「何で」
「何で、って?」
「俺がいけなかったんだろう、信頼してもらえるように頑張るから」
 香山にはこういった掛け合いがありふれたものだと直感した。この問答を開始した時点で、いつかこの別れ話の顛末を誰かに容易に語ることができるようになるであろうと想像した。
 僅かに沈黙したナナは答えた。
「もう私の答えは決まったんだよ。あなたは彼氏なのに、苦痛の中で叫ぶ私を前に口をつくのは、絵空事な冗談ばかり。正直傷ついたし、そうね、さすがに怒ったよ。きりなしに一人ぼっち。私は寂しかったわ。女が孤独の酩酊にまみれて歩く夜道の暗黒を知ってる? 暗闇の中は寂しかったわ。私はもうあなたに頼る気なんてさらさらないのですから」
 言葉の最後を飾った慇懃な語尾が、逆説的に我が身を疎かにしているようで、その上、香山は先述のような、関係の行末を鑑みてすっかり憔悴したため、これ以上話を続けようとは思わなかった。彼は明確に拒絶の意を示されて、それでも一人の女に縋りつこうとする自分の体裁を恥じたのではない。恥という他人の存在を強く意識するような結論ではなく、あくまで自分が主格となって生じた内発的な結論である。
 ナナの別れの申し立てを時折振り返って、つぶさに単語を見ていったとき、そのどこにも「愛していない」とは無いことに気づいた。香山は喜んだものの、やがて血の通わぬ発見だと思い直して打ちひしがれてしまった。
 かくて、香山はそれでもナナをぞっとするほどの長い年月の間、頭の隅に置いたままだった。未練じみた精神が、彼がこの女の名前を忘れることのできぬ所以であった。自分の置かれた状況、即ち、ただひたすらに離れたがるナナと、それを引き留めないで一緒にいようと懇願する姿を隠匿したまま強がりを振舞う自分、この対立を俯瞰して見つけても、それは一切のカタルシスを彼に与えず、漠然なる不安を植え付けるばかりだった。
 先ほど「ひとまず」と記したのも関係している。自問は痛感を帯びて拷問へと転化した。ナナが香山を信頼しなかったのが、自分はそもそも信頼の置けぬ男だったからなのではないかという、人が答えるに能わぬ問題である。その解決の不可能性の原因は、解答を握るのが自分でもなく、彼女でもない点にあった。ただでさえ自分のことについて知ろうとしても、知ることができぬのである。それは、歴史上の哲学者が証明済みだ。そのことを認識しなかった当時の彼は、とにかく自分の頼りなさを追い求めては自責を繰り返したのだった。幾度自分を責め立てても、自分はずっと、自分に向かって、ナナに向かって、ごめん、ごめん、と泣きわめくばかりだった。

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