白い楓(2)

 一貴山の深閑な住宅街に馴染むように汚れた、三階建てのアパートがある。同じように錆びついた階段を一つ登ったところから数えて三番目の表札には「香山」と掲げてある。そこの住人は請負殺人の周旋人であった。香山は宅の冷めた床で寝ていたところを正気に返ったが、今まで自分が一体何をしていたのやら、直近の記憶がなかった。
 その周旋人が持つ最後の記憶は、作者との対談であった。そうかきっと作者が自分の記憶を消したのだろう、と考えた。ドアから出て……気がつくと周旋人は自宅にいたのだ。こんな芸当が人に扱えるはずがない。
 周旋人はその対談を終えた後、この世界に自分が囚われている、ただのマリオネットであることを明確に認識せざるを得なかった。この世界を作った神なんぞいるわけがないと考えて彼は今までの人生を過ごしており、この仕事を選んだのも彼の自由権を根拠とした選択であると考えていた。しかしその悲しい妄想は、筆者との対面により簡単に粉砕されてしまった。香山は、自分が何の自由もない、神の意志で動かされるお人形だったことを知った。万事が神の頭の中で考えられ、気まぐれによって書き換えられる世界に香山は生きている。その事実は、とんでもない絶望をもって彼を打ちひしがらしめた。そして、自分が対談でわざとらしく振舞った強気な態度を顧みては、それが今感じている苦痛の諸悪の一つだと思った。

 真理を悟り、それから何の意欲も湧かぬ日々を送り、彼はパソコンで仕事のメールをチェックすることもやめてしまった。
 彼の家には、ベランダがある(ああ、この設定ですら筆者の思うがままに作られている、彼は私利私欲を尽くしている……神の存在を知った俺はもう、己の意思というものを全く否定しているのだ! そしてこの否定すらも、俺の意思ではない!)。そこに設置された室外機の上に黒いガラス製の灰皿を置いて、香山はよく煙草を吸っていた。一本吸い終わり、彼はサッシを開けて部屋の中に戻ろうとした。冬の冷たい風を受けて、スウェット程度では耐えられるはずがなかったが、彼は煙草が恋しくなって、もう一本目に手を伸ばした。徐々に手指がかじかみ、痛みを訴えはじめていた。何も音楽をきかずに一人、彼は冬のベランダにいる。
 煙草は燃え尽きた。また一本を喫みだした。銘柄はピース、キングサイズで、タール量は六ミリ。香山が自らの経験をもとに考えても、短時間に吸って吐き気を催さないのは、四本が関の山であるのに、結局彼はこの日、十二本の煙草を費やしてから部屋に戻り、案の定悪心に襲われて寝床で一時間ほど過ごした。何本をチェーンしたのかと、自身の選択権が生来より与えられておらず、永遠に取り返すことができぬという事実を変えられるかどうかとは、提灯と釣鐘の如く無関係であるために、彼の鬱屈とした気持ちは消えることはなかった。

 暗鬱を脳裡に浮かべながら、周旋人は考え始めた。この世界の真理など、単純明快である。万物は作者の思うつぼ、というだけのこと。活力を感じないのは、すべて作者が自分にそうさせた方が都合がよいと考えているからなのだ。
 絶対的な力を認めると、やけくそになりながら布団にもぐった。訥々と彼は、何かこの真理を変貌させる手段があるのではないかと模索をするようになった。
『俺は、彼に手出しができぬのだ。……しかし、本当に俺のあらゆる行為は無意味なのか?』
 果たして周旋人はほのかな光を見出していた。彼は作者の住む場所を知っていた。そこで対談が催されたからだ。彼の身分は大学生であった。平均的な貯蓄額を考えれば、そんな彼にとって住居の移動はそう簡単に下せる決定ではない。第一、先日訪れた彼の部屋は散らかっており、引っ越しの気配などはかいくれ無かった。あの糸島のマンションを出ていないはずだ。かくて芽生えた懐疑がだんだんと言葉になっていった。それが、『この世界の神を殺せば、自由を手に入れられるのではないか?』というものであった。しとどに彼の独り問答は続いた、以下のように。
『柴田隼人を殺せば、俺の自由は実現されるのか? 俺が、柴田隼人の創作ノートから生まれ、筆者にとって都合がいいように動かされていることは、対談で知らされることになった真理だ。しかしその作者が死ねば、同時にその意思は消え、そこを起点として俺は神の予定抜きで生きていくことになるのだ。個人の認識のみがこの世界の真理として君臨するものになる。鎖を引きちぎった、野生の動物がそこに生まれるのだ』
 活路も束の間、この企みが一つの根本的な欠点を抱えていることを見逃さなかった。それはこの世界の終結である。この物語を書く人間であるという柴田隼人が死ねば、他に誰が筆を執るのであろうか? 彼が死んだ途端、この世界が消え失せるというのを、否み切れぬ未来として憂慮していた。これを仮定すれば、自由どころの騒ぎではないが、このまま真理の緊縛を耐えるぐらいなら、いっそ死んだ方が賢明なように思われた周旋人は、依然として計画を取りやめる気がおきなかった。

 言語化された観念が彼に活力を与えたことはいうまでもない。周旋人は常の仕事でそうするように、作者の行動パターンを調べて、殺害を実行させる明に仕事の打ち合わせをする旨を電話で伝えた。
 周旋人はその凶手を中洲川端にあるビルの前で待った。約束した時間の通りに明が現れ、周囲を警戒した彼は一旦凶手を無視して中州大通りを国体通りへ向かって進んだ。ちらと後ろを見れば、周旋人の意図を察した凶手はついてきていた。信号待ちになって人が増えだしてからようやく、周旋人は口を開いたのだ。彼らはいつもこのようにして簡易な会議を行なっていた。
「今回は、殺害だ」
「誰を」
 凶手は目を合わさずに質問した。周旋人は答えた。
「柴田隼人」
 これを受けて明は、一瞬噴き出したかと思うと、へそで茶を沸かした。
「お前、注射のしすぎで気でも狂ったかい」
「断じてそうではない。熟考の末だからね」
「しかし、俺達は最近彼と会ったばかりだ。彼を殺すことはリスクでしかないと思うよ」
 凶手は作者と会ったことを意に介していないように見えた。周旋人は、むきになって説明をしようとして、やめた。理屈の分からぬものに説こうとしても時間の無駄でしかないと感じ、凶手を別の面から説得するために動き出した。
「明、ボーナスはしっかりと払う。二倍でどうだろう」
 明は、香山の提案を聞いて少し黙り、長く考えてから答えた。
「三倍ならしよう」
 周旋人は、世界を捻じ曲げる方法へ一歩迫ったことを確信し、高揚した。
『神よ、柴田よ、見ているか? 俺は、お前の命を奪うために動きはじめたのだ。お前を殺して、俺は完全な自由を実現するのだ。しかし、完全なる自由に代償はないのであろうか?』
 筆者の殺害の中に死兆星を再び見つけたのはそのときだった。周旋人はここにきて、また筆者の死から演繹される世界の死の予感を濃くした。そして、ちょうど戦争に行く前の兵士が子孫を残そうと精を強めるのに自分を重ねた。ばかばかしいおまじないのようなものであると自覚しながらも、その結論を明に伝えた。
「女でも買いに行かないかね」
「どうした、お前がそんなことを言うとは」
 明がネガティブな反応を示したことは、香山にとっては返す返すも無念であった。
「別に……ただ俺は今、妙に色にきちがいなんだ……行くか?」
「くだらない、一人で行ってこい」
 明は香山を置いて南新地を抜け、キャナルシティへと歩いて行った。

 明が柴田隼人を殺した、と報告をしてきたとき、香山は思わずベランダから外を見た。世界は、昨日と同じようにそこに存在していた! あんな予感はたわ言だったことを確信した。彼は生きたのだ。
 ベランダに出ると、周旋人は風が揺らす木々の音を聞きながら喫煙を楽しんだ。その後に待ち受ける逃走劇やトラジディなどを知らなかったからこそ、彼はそれだけ自由を喜べたのだ。

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